ろくでもない日のブラームス

Bad hair dayというのは女性が好んでよく表現らしいのだけれど、まだ実際の会話で聞いたことがない。たぶんアメリカで暮らしたことがないせいだろう。まあそれはそれとして、今日の僕は本当に何をやっても裏目に出る、そんな日だった。仕事でいくつかのヘマを犯し、情報共有の遅れをとがめられ、帰宅したら娘に尿でスーツを濡らされる――そんなろくでもない一日だ。”Everything happens to me”の追加1コーラスにでも書けそうな日である。その追加された部分を僕のためにもし誰かが歌ってくれるのであれば、アニタ・オデイがいいなあと想像する。彼女の歌う” A Nightingale Sang In Berkeley Square”を、数年前から僕は愛聴している。甘い曲だ。

 

甘い曲といえば、今僕はこの記事を、グールドのブラームスを聴きながら書いている。グールドといえばバッハという、おそらくは人口に膾炙した先入観を僕も長く持ち続けてきたのだけれど、とある人の勧めで、この稀代の変態ピアニストの弾く晩年のブラームスを最近初めて聴いて、その世界観にすっかり魅了されてしまった。おそらくはそう人と変わらないチョイスなのだとは思うが、やはり僕もop. 118-2にもっとも心魅かれる。珍しくリンクなんか貼ってみよう。僕が聴いているグールドによる同曲の演奏だ。

 

www.youtube.com

 

描かれた世界は、ポール・ユーンの文体を思わせる。決して雄弁ではなく、けれども寡黙というわけでもない。ピアノは確かにそこにある何らかの感情を語っている。おそらく、嵐はすでに過ぎ去ってしまったのだろう――怒り、嘆き、悲しみ、憂い、いやもしかしたらそれは、激しい恋愛感情だったのかもしれない。事実、老年にさしかかっていたブラームスは、生涯の思い人であり、人生と音楽の師でもあったクララに、この曲を含む6曲の間奏曲を捧げている。ある人はこの曲の中に、暖炉の前で語り合う老年のブラームスとクララを見出している――この上なく親密な二人を。身勝手に相手を束縛しようとしているわけでもなく、性的なものを求めているわけでもない。でもそれは、おそらくは共に感情の波を泳いだ男女の間でしか共有できない感情ではないかという気がする。パッセージは優しく、むやみに美しい。過ぎ去っていったものへの慈しみが痛いほどに伝わってくる。そういえば、ずいぶん秋も深まってきたけれど、こんなに秋の似合う曲もないよなあと思う。

 

久しぶりに音楽について語ってしまった。そんなろくでもない日の夜。

なんじゃもんじゃ

木曜ということで疲れもずいぶんたまっているのだが、気分転換に少し書く。秋が深まってきたせいだろうか、ここ一週間ほど夜はジャズばかり聴いている。19世紀のクラシック、50年代のジャズ、70年代のロック、そして90年代のポップス。だいたいその4カテゴリを、ヤッターマンがマシンを選ぶときみたいにローテーションするわけである。別にどうでもいい話なのだが。

 

☆☆☆

 

友人と月島までドライブに出かける。ドライブといってもわが家から30分もかからないので、最寄の駅の喫茶店で喋るのと感覚的にはあまり変わらない。当地では例によってもんじゃを食べる。すでにほぼ半生を都会で暮らしているというのに、これまでこの粉モノのメッカに足を運んだことがなかったというのは若干不思議である。しかしながら、粉のわりにもんじゃというのはなかなか強気な価格設定をしている。まあ観光地だから、売り手側も若干のプレミアムを乗せているのだろう。

 

もんじゃの後はどこにでもあるファミレスでぺちゃくちゃとどうでもいいことを深夜まで話す。僕はSNSが人間関係をどれだけ粗末なものにしたかを熱弁する。

 

「あれは孤独の装置なんだ。見れば見るほど自分が希薄化していくんだ」

「じゃあもし子どもがSNSを使いたいっていったら?」

「『ダメに決まってる』だな」

「ははは」

 

かくして夜は更けていく。

 

☆☆☆

 

よく言われることだが、インターネット、わけてもSNSは多くの現代人を奴隷化してしまった。まったく利益にならない情報のために大量の時間を使い、ときには感情を乱され、それでもなお人は情報の波に飛び込んでいく…これを中毒、あるいは奴隷と言わずしてなんと呼べばいいのか。昼は会社で奴隷で、夜はネットで奴隷をしていたら、起床している時間のほとんどを奴隷として過ごしていることになる。オンライン奴隷化について、僕はそれほど多くの先行研究にあたったわけではないが、おそらく同じような議論は枚挙に暇がないだろう。

 

というわけで、やはり家では極力PCを見ないようにする。代わりに遠くをみたり、本を読んだり、子どもたちの顔をみたりすればいいのだ。Not rocket scienceである。

 

☆☆☆

 

塩狩峠』は2日ほどかけて読んだが、偽善臭さばかりが鼻についてどうもダメだった。あれで感動する人はたぶんあまり読書経験がない人ではないかと思う。マルクスなんかを読んで「すべてを疑え」とか言っているような人間には不向きの本である。三浦綾子という人は結局「文学」ではなくて「説教」をしたかったんだろうな、と思った。

 

四季報を読む

一週間が終わった。何の脈絡もないのだが、会社関係のことを書く。

 

☆☆☆

 

勤め先の会社がとある他の会社と合併して新会社となった。僕のキャリアの中では2回目のM&Aである。外資系のキャリアということを考えるとそう多いとも言えないけれど、まあよく変わるよなあと思う。元々大きな会社だったのだけど、これによってさらに図体が大きくなってしまって、これからますます業務が細分化していくことを考えると、あまり楽しそうな未来というのは想像がつかない。ヘルスケアの会社は給与水準も高いし、ワークライフバランスについても比較的優れているところが多いのだが、M&Aが非常に多いのが難である。これからもこの業界で仕事をしていくのであれば、同じようなことは今後の僕のキャリアの中でもまた必ず起こるだろう。今現在でもオプジーボの価格に政府から相当な値下げ圧力がかかっているけれど、薬価引き下げのプレッシャーは今後もますます強まるだろうし、それによって製薬会社は必然的にマージンを削られる。そうなると合従連衡、となるのは春秋戦国時代から変わらない、この世の常である。まあとりあえずは自分の持ち場を守って淡々とやるだけだけれど、長期的なプランもそろそろ見直さないといけないなあと思う。

 

☆☆☆

 

どうでもいいのだけれど(というかどうでもいいことを書くしか能がないのだが)、最近ちょっとした空き時間ができると『四季報』を読むようにしている。投資対象として会社を見るようになったということもあり、これが非常に面白い。財務畑の社会人としては若干恥ずかしいのだが、例えば、しまむらの財務体質が超健全であることや、文教堂の収益がデスロード化していることについて、僕はこれまであまり興味が持てなかったし、知識もなかった。その点、自分の世界を広げてくれたという点で、株式投資を始めたことは、それ自体自分にとって非常に大きな財産になったと思う。

 

少し戻って、ここ数年における業種別の株価を見ると、B to C関連では百貨店・書店あたりの凋落が目立つ(当然取次も厳しい)。どちらもインターネットに相当のシェアを奪われているのは明白である。加えてふたつの業種に共通しているのは、①国際展開が困難、②イノベーションが極めて起きにくい、という2点でないかと思う。いきおい、業績は内需と余暇時間との対応関係にならざるを得ず、しかもそのどちらも上昇の兆しは見えない。厳しいようだが、おそらくはこれらの業種もあと5~10年の間にはほとんどがその姿を変えるか、市場からの退場を命ぜられるだろう。

 

ちなみに、会社の中期経営計画を見るのも面白い。たぶん自分がそれを作る側の仕事をしているからだろう。決算短信なんかに比べると、中期経営計画は会社のカラーがかなり鮮明に出ており、読み込むと「その会社がどれくらいしっかりしているか」というのがだいたいわかる。例えば、良いほうの例で、ここでは日揮を挙げたい。戦略、マクロ環境の分析、具体的なアクションがしっかりと記述されている。

 

http://app.fisco.jp/data/brand/1963/TDNET_PDF/140120160511484252.pdf

 

逆の例としては、日販を挙げよう。気の毒になってしまうほど何の具体性もない。10分くらいあれば僕でも書けそうである。

 

http://www.nippan.co.jp/corporate_profile/management_plan/#corpo_tyuuki

 

☆☆☆

 

週末は『塩狩峠』を読む予定。ちょっと読んだだけで、「ああ、女の人の文体だ」とわかる。なぜなのだろう。

「優秀」は褒め言葉なのか

通常「優秀である」という言葉は、人の能力が高いだとか、業務遂行能力が期待される水準を上回っているとかいう意味で、ポジティヴな文脈で使用される。僕もまだ新社会人だったころは、「優秀だね」とか言われると、褒められた小学生のように、それなりにいい気分になっていた。しかしここ数年、どうにもこの言葉が含意する限定性のようなものが気になる。

 

例えば、僕がK2の冬季登頂に世界で初めて成功したら、「あの人は登山家として優秀だ」などと言われるだろうか?誰もそうは言わないだろう。おそらく人が口にする形容詞は、「凄まじい」、「超人だ」とか、あるいは「クレイジーだ」とかそんなところだろう。そういう意味では、「優秀である」というのは、良くも悪くも、「期待される水準があらかじめ設定されており、その水準に達しているか、あるいは想定を超えない範囲でそれを上回っている」という極めて限定的な意味で使用される言葉であるといえる。そういう意味では、サラリーマン的な価値観と非常に相性の良い言葉であり、おそらく僕が気に入らないのはその点なのである。

 

志ある人よ、「優秀」などという言葉に惑わされてはいけない。「優秀」であろうとするのであれば、「圧倒的に」優秀であれ、そしてあり続けろ。「優秀」という枠を越えるには、そうであり続けるか、人とまったく違う道を爆走するしかないのではないかという気がする。たぶんカルロス・ゴーンは前者で、スティーヴ・ジョブズは後者である。

 

☆☆☆

 

小学校の運動会。なぜか閉会式の最後に「みんなで万歳しましょう」とPTA代表の人が言う。児童たちは素直に万歳、万歳と手を上げる。僕はそれを唖然として見ていた。この国の人々の精神構造は、大塩平八郎の乱くらいのころからちっとも変わってないんじゃないかという気がした。

奥村幸治氏

一週間が終わった。今週はそんなにすることもないだろうと高をくくっていたのだけれど、契約書のレビューを中心に細かい仕事が多くなってしまい、結局こんな時間まで働いている。そういうものばっかり読んでいると、だんだんどっちが甲だか乙だかわからなくなってくる。僕はセンター試験の古文が5点(50点満点)というなかなか輝かしい成績だったのだけれど、そんな人間が何億円もの契約文書の修正なんかをしていると思うと、つくづく人生というものはわからないものだと思う。

 

☆☆☆

 

奥村幸治氏の講演会を観る。「夢を語るより目標を立てろ」、「ルーティン化しろ」、「ポジティブに考えろ」…とこう書くと怪しい自己啓発の本みたいだけれど、超一流の選手に関する豊富なエピソードを帰納的にまとめあげる語り口が上手く、思わず引き込まれてしまった。この人は自虐で笑いを取るのも上手いのだが、このあたりはやはり成功している男性の特権(ずるさ)なのかもしれないなあと思った。周りに同僚が多くいたのでなんとか我慢したが、イチローや星野さんに関するエピソードの箇所では泣きそうになってしまった。多分一人だったら泣いていただろうと思う。

 

改めて思ったのは、僕は努力する人が好きであるということだ。バッジョイチロー稲葉浩志…僕が憧れつづけてきた人たちは、皆努力が服を着て歩いているような人たちである。苦しんでのたうちまわりながらも努力して、努力して、もっと努力して、その先にその人しか見えない景色を見る――単純明快なそんな物語が僕は大好きだ。願わくば僕も死ぬまでそんな一途なバカでありつづけたいなあと思う。

 

☆☆☆

 

これからビジネススクールのエッセイを書く。これはいわば、2ヶ月を書けて書く、未来への自分へのラブレターだ。自分の過去をまっすぐに見つめて、奇を衒わずに自分を表現する――そう言ってしまうと平凡だが、これが簡単なことではない。考えれば考えるほど、自分の核のようなものがどこにあるのかわからなくなる。当然、その核を英語に移しかえるという難しさもある。

 

けれども、10年の職歴とそれ以前の自分をまとめて振り返る機会など、人生でそうあるものではない。そういう意味では、この作業は人生の後半をどう生きるかという問いに対する、僕なりの回答の下準備のようなものなのかもしれない。良いものが書けるといいなあと思う。

開講、やめるってよ

週の半ばだが、仕事がやや落ち着いてきたので、少し書く。とはいえ、期限の厳しい仕事が減っただけで、行うべきことには事欠かない。会社というのは本当に不思議なところである。

 

☆☆☆

 

ビジネススクールの話。プログラム・アドバイザーから正式な連絡が入って、僕が出願を希望していたプログラムは開講されないということになったとの由。なんか怪しいと思っていたけれど、まさか本当になくなるとは。以下の記事にあるように、鳴り物入りで始まった提携プログラムだったのだけれど、まさかたったの2年でなくなってしまうなんて誰が想像しただろう。まあスイスと中国という個性の強い、わがままな国同士の提携だから、いろいろソリがあわない部分があったのだろう。

 

http://www.businesswire.com/news/home/20140314005268/ja/

 

というわけで、スクーリングのプランはもう一度練り直し。

 

☆☆☆

 

シンガポールの友人から突然電話が入る。日本でアナリストを探しているけれど、誰かいい人はいないか、とのこと。聞いた限り、そんなに超人的なプロフィールの人を探しているわけではなさそうだったけれど、これが案外見つからないとのこと。英語やらファイナンスやらのテクニカルな部分もそうだけれど、「fast paceが好きで、理不尽な要求に堪えられる人」というカルチャー面でのギャップがかなり大きいのではないかという気がする。これは完全に僕の個人的な偏見だが、いわゆるゆとり世代でそういう人を探そうとすると、確かにこれはなかなか難しいのではないか。会社なんてある程度理不尽で当たり前だと思うのだが、そういうことを教えるべき大人はどこに行ってしまったのだろう。

 

☆☆☆

 

ドイツ銀行はいよいよ末期的な症状を呈してきている。もうXデーについては関係者間では握られているのではないか。この10月・11月はこの件と大統領選でだいぶ相場が荒れそうである。シナリオ次第では、年内にドル円90円、日経平均一万円切りでもおかしくないはずだ。さてどうなるか。本件との関連性は明確に示されていないものの、ドイツでは最近「食料品の備蓄をするように」というお触れが出たみたいだけど、我々もある程度の準備はしたほうがいいのではないかという気がする。

万国旗イデオロギー

予算の一連の工程が終わって少し楽になるかと思ったけれど、その後処理やら、戦略の見直しやらで会議が多かったり、運動会などの行事で週末が埋められてしまったりと、やはりバタバタしている。家族同士でのつきあいというものが自分の人生においてかなり増えたなあと思う。別に個人的に仲良くなるというわけではなく、おつきあい程度に食事に行く程度のゆるい関係だけれど、重なると案外交際費がバカにならない。まあ子どもが不利益にならない程度にはいろんな人に愛想をよくしておかなければならないので、必要経費として割り切るべきなのだろう。

 

とはいえ、久しぶりにそこそこの晴れ間ものぞいて、なかなか気持ちのよい一日だった。運動会から帰ったあと、洗濯機を3回転させて、家中にぞうきんがけをしたら、ここ最近の雨で家にまとわりついていた湿気がずいぶんとれたような気がした。

 

☆☆☆

 

学部時代の友人数名と久しぶりに会う。女性4名に対して男性1名(ワタクシ)と、なかなかアンバランスながらも朗らかな会だった。なかなか驚いたのは、女性4名のうち、すでに3名が独立して個人事業主として生計を立てていたということ。一方で、子育てもがんばっているみたいで、いやはや、パワフルだなあと思った。そのうちの友人一緒に帰ったのだけれど、ゆっくり話をしていたら、彼女は12年くらい前よりずっと魅力的になったような気がした。ハリのある生活と子どもへの愛情がもたらす内面の充実は、加齢による容色の衰えをも凌駕するものなのだろうか。

 

☆☆☆

 

保育園主催の運動会の会場でぼーっとしていると、なぜ国旗なんていう19世紀の遺物がこんなに飾られているのだろうという考えが頭をもたげる。オリンピック・イデオロギーの一種なのだろうか。ピュア左翼の人なんかだと、起立もしないし国家も歌わないだろうから、当然運動会では走らないのだろうか。このあたりの解釈が争われた判例ってあったかな…などと極めてどうでもいいことをダラダラと考える。そんなことを思ってしまうのは、たぶん幼児による運動会なるものが、根本的にあまり面白くないからである。「かわいい」という要素を除いてしまうと、そこにはあまり見るべきものはない。したがって、自分の子どもの出番が終わってしまうと必然的に手持ち無沙汰になる。というわけで、「運動会と国旗の考古学」について考えながら、可愛い先生のことをチラチラと見て、日曜の午前中は終わっていった。

 

☆☆☆

 

今年は重い腰を上げて、花粉症の根本治療をしようと思う。いわゆる舌下免疫治療が2年前から保険適用になって以来、ずっと受けよう受けようと思っていたのだけれど、転職やら子育てやらで伸ばし伸ばしになっていたので、この10月から始めるつもり。年間2万円と少しで、あの苦しみから解放されるのであれば安いものである。