読書メーターをやめるの巻

前回、悲しみについて書いたらアクセス数がちょっとした伸びを見せた。どうやら「悲しみ」というのは多くの人を引きつけるテーマらしい。僕も、陽気な人よりはちょっと陰のあるタイプの人に魅かれるところがあるので、そういう気持ちはよくわかる。同じような理由で、あまりに社交的なタイプの人はあまり深く知りたいという気になれない。なんだか薄っぺらいように見えてしまうからだと思う。

 

似たような文脈で、この間、「僕は友だちが何人いるかなあ」と夜中に一人で数えてみたら、まあだいたい15人くらいだった。35年も生きてきて15人しか友だちいないのかよ、と若干気が滅入ったが、まあこれが等身大の僕なのだ。仕方ない。まあポジティブに考えると、もし自分が死んだら15人もの人が悲しんでくれるということなので(たぶん)、なかなか悪くないなあと思う。他者のないところに死はない――レヴィナスもたしかそんなことを言っていた。

 

☆☆☆

 

だんだん管理が面倒になってきたので、読書メーターをやめた。読んだ本が一元管理できるのが魅力だったのだが、洋書で登録されていないものが多いため、実際には漏れが出てしまうというのも原因である。代わりとして読んだ本については今後このブログに書くことにする。以下は冬休みに読んだ本である(出版社名と発行年数は割愛し、代わりに一言コメントを入れる)。

 

グロービス『これからのマネージャの教科書』(これはなかなか力作だった)

コンディヤック『論理学』(一番面白かった。翻訳も訳注も素晴らしかった)

David Sedaris, “Me Talk Pretty One Day”(この人の本はハズレなしで笑える)

熊代亨『「若返りうつ」社会』(僕の周りにもこういう人はいっぱいいる)

渡辺・北篠『高校で教わりたかった化学』(サイエンス音痴でも読みやすかった)

セス・シーゲル『水危機を乗り越える―砂漠の国イスラエルの驚異のソリューション』(内容はなかなか面白いが、やや浩瀚に過ぎる感あり)

 

本当は文学ものをひとつ読みたかったのだけれど、シッター業のために時間がとれなかった。

 

☆☆☆

 

12月に面接を受けた会社からようやく連絡が来た。「まだご興味ありますか」とのこと。完全に都合のいい男扱いされている。まあ自慢ではないが、都合のいい男扱いされるのには慣れているので、特に何も驚きはない。ははは。

 

☆☆☆

 

これから英語の勉強。なんかここ10年くらい結局英語の勉強ばっかりしているような気がする。

どうしようもない悲しみを癒すにはどうすればよいか

 

今まで誰にも訊かれたことはないけれど、「あなたがこれまでに人生で経験した最も辛かったことを3つ挙げてください」と言われたら、僕はすぐに答えることができる。①親の離婚、②友人の死、③最後の失恋の3つである。この中でも③のダメージは本当に重く、本当に当時は死ぬことを毎日のように考えていた(当時のブログに「MajiでKubi吊る5秒前」とか書いていた)。それからも7年くらいの時が過ぎた今でも、当時の記憶が夢に出てきて、泣きながら目を覚ますことがあるくらいだから、我ながらこれはやはりちょっとしたものである。実を言うと、当時自分がどうやって生きていたかについては、正直ほとんど記憶がない。たぶん日常生活に支障がないように、脳が記憶を制御して、意識の表面に浮かび上がってこないようにしているのだと思う。

 

で、本題に移る。悲しみを抱えながら生きるにはどうすればよいかという話である。よくグリーフケアなんかの文脈でも議論されるいささか硬い論点ではあるのだが、ここでは理論的な話はすっとばして(そういう場ではない)、僕がなんとか生きるために役に立ったものを記す。かつての僕と同じように、どうしようもない哀しみや痛みにさいなまれている人には、少しは参考になるかもしれない。

 

役に立ったもの

 

1. 書く

  • ノートにひたすら書く。Fワードだろうが、あのやろう死ねだろうが、心のありったけすべて書き出す。不思議なのだが、それを繰り返していくと、頭の中にあった不快感の塊みたいなものが概念として整理されて、凝固した痰がのどの奥のほうから吐き出されるような感覚を得られることがある。
    • 理由はわからないのだが、キーボードでタイプするよりは、フィジカルにノートに書くという行為のほうが治癒効果は高い気がする。また、ブログなど公開を前提した場所に書くよりも、あくまで閉じられた場所で、自分のために書いたほうがよい。
  • そして、だいたい吐き出したら、自分が欲しかった言葉をこれまたノートに書いて、自分に与えていく。「がんばったね」とか、「もう大丈夫」だよ、とか。要するに自己完結的な言葉によるオナニーなのだが、これは治癒効果が高いと思う。自分が最も必要としている言葉を知っているのは、たいてい自分だからである。
    • 少し話がズレるが、ジャン=ジャック・ルソーは、妄想に苛まれていた晩年に『対話』という非常にメンヘラ色の強い作品を残している(かつて僕はこの作品を中心にして論文を書いた)。僕が学生だったときには気づかなかったのだが、彼は何よりも自分に対するセラピーとしてそれを書いたのではないかという気がする。
    • また話がズレるが、NAVERまとめにある「失恋したときのビタミン言葉」にも助けられた。「恋を失ったわけじゃない、卒業したんだよ。卒業おめでとう」という一文を見て、深夜に泣いた記憶がある。

2. 話す

  • 要するに友人にひたすら聞いてもらう。僕の場合は、昔の友人を総動員して話を聞いてもらった。そのために岩手県遠野市に住む友人に会いに行ったことは今でも鮮明に覚えている。
    • ただデメリットとしては、そうした友人たちに大量の負のパワーを浴びせることになるというものがある。なので、あまりやりすぎると大切な友人を失うとまではいかなくとも、距離を置かれてしまう可能性がある。
    • 当時深夜まで話を聞いてもらった友人たちには、本当に感謝のしようもない。

3. 抜く

  •  これは男性が失恋したとき特有なのかもしれないが、失恋の辛さ・痛みは性的欲求ととても密接に結びついている。少なくともその痛みの一部は、失恋したことそのものではなく、今抱えているセクシュアルな欲求の対象の不在によって引き起こされるものであるからである。行き先を失ったリビドーは著しい精神的な痛みとして表出する。この痛みを軽減するために、辛くなったら、なるべくさっさと抜く。オカズはなんでもいいと思う。
    • 僕はそういう趣味がないので利用しなかったが、風俗やらソープやらに行くのもアリだと思う。空しくなりそうだけれど。

4. 運動

  • これは当たり前か。僕の場合はランニングと水泳をよくしていた。

 

あまり役に立たなかったもの

 

1. 心療内科

  • 「死にそうなので看て下さい」と行ったら、なぜか説教された。それでパキシルデパスを渡されて終わり。こんなの治療でもなんでもない。もちろん薬は飲まなかった。既得権益ファック、と思った。

2. 読書

3. あまり自分のことを知らない人に話す

  • インターネットで知り合ったお姉さま方にいろいろ話を聞いてもらったのだけれど、結局僕のことをよく知らない人たちなので、どうしても話が一般的なことに終始してしまい、傷を癒されるような感覚はなかった。
    • 神戸の主婦の人に夜話を聞いてもらっていたら、「ねえ、これからテレフォンセックスしない…?」という妙な流れになったことがあった。僕は冬の寒空の中、公園からジャージ姿で電話していたので、もちろん丁重にお断りした。

 

するべきではないこと

 

1 . インターネット(とりわけSNS

  • 相手の名前を検索したり、相手のSNSの個人ページを見ることは当然ながらご法度である。見てしまったが最後、妄想と嫉妬で脂汗が出そうになるからである。
    • これも男性特有かもしれないのだが、僕の場合はその彼女が他の男とセックスしているイメージが繰り返し繰り返し脳内で再生されて、それが本当に辛かった。こういう場合は、前述したとおり、さっさと抜くのが一番良いと思う。
  • これも深夜にやってしまいがちなのだが、自分が求めている言葉を捜して、深夜にインターネット徘徊するのもあまりよくない。たまに珠玉のような言葉に会えることもあるのだが、時間対効果で見ると、あまり効率がよいとは言えない。それなら、自分の深いところにある気持ちとノートを通して自己対話するほうが健全だし、効率がいい。

2. 共通の友人に会う

  • 100%話題に出てくるので、なるべく会わないほうがよい。彼女と会ったよ、みたいな話だと、だいたい嫉妬に苦しむことになる。

 

 

最後にひとつ付け加えておきたいのだが、上記は悲しみを忘れることを意図したものではない。というのも、悲しみというのは、それが純粋なものであればあるほど、おそらく忘れられることのない種類のものだからである。したがって、そうした悲しみを抱えてなんとか生きていくために、具体的にどうすればいいかという問題意識で書かれたのが上記である。

 

ただ振り返ってみると、悲しみを生きるという経験は僕にとって――おそらく誰にとっても――これ以上ない人生勉強の場であったような気がする。たぶん、それを通して僕はいくらか大人になったのだとは思う――人生の有限性や、人の痛みがわかるくらいには。「人生に無駄なことはない」なんて僕にはとても言えないけれど、経験したことからいくらかの学びは得るべきだと思うし、きっとそれが生きることのひとつの意味なのではないかという気がする。

 

僕の知らない、今絶望に打ちひしがれている誰かの参考になれば。

バリウムを飲む

新年初出社の日は健康診断であった。当日の朝、クリニックから送られてきたキットを開けて冷や汗をかく。検査用の便を持ってくるようにとの指示があったからである。ところが、朝食を食べられないこともあって、その日に限ってお通じがない。仕方ないので、ミネラルウォーターをガブガブと飲んで腰フリダンスをして排便を促すのだが、待てど暮らせど天啓は来ない。出発時間が迫り、もはやこれまでかと思ったところで、便意を催す。かくしてめでたく、僕は自分の便の一部を指定されたキットに入れ、検診に向かった。

 

で、標準的なメニューをひととおり終えた後に、初めてのバリウムが始まる。と書くといかにも落ち着いた体験だったようだが、実際にはけっこう恐怖でおののいていた。味は思ったよりも不味くない。我ながら滑稽だったのは、飲み干した後の回転運動で、「おお、コレは大丈夫か」と何度か心の中で冷や汗をかいていた。とはいえ、全体としては想像していたよりも不快なものではなく、なかなか面白い体験であった。どちらかというと朝一のお通じ乞いのほうが精神的には辛かったような気がする。

 

☆☆☆

 

「すくすく子育て」で優木まおみを久しぶりに見たら、顔の険がすっかりなくなっていて驚いた。半年くらい前とぜんぜん違う。もう30代も半ばだと思うのだが、キラッキラしていて、健康的な色気にあふれている。妊娠中で幸せホルモンが出まくってるんだろうなあと思った。女の人は幸せが顔に出るっていうのは多分本当ではないかという気がする。じゃあ男の顔はどうなのかと聞かれたら、やっぱり経験だろうなあと思う。

 

☆☆☆

 

大学院時代の友人の就職が決まったということで、個人的にちょっとお祝いする(とはいってもランチだが)。哲学の分野において、35歳で正規のアカデミックポストを得られるといのは、かなりの僥倖である。めでたい。で、いつものとおり、昔の友人たちの近況を聞く…となると必ずとある女の人の話題になる。心臓がバクバクして泣きそうになる。救心でも飲んだほうがいいんじゃねえかと思うくらいである。まあそれはともかくとして、就職決定というのは喜ばしいことである。

 

それと若干関連した話で、別の友人のブログのようなものを見ていたら、最近撮影されたらしい、上記の彼女の写真があった。何気なく撮影された横顔のスナップショットなのだが、その顔には年月の重みと疲れが心なしか感じられた。月日は確実に流れているのだ。心の鈍い痛みはあまり感じなかった。ただ僕はそれを見て何もいえなかった。何を言っても不適切であるような気がした。

 

☆☆☆

 

というわけでエッセイをガリガリと書く。

2017

年末年始の休みが終わろうとしている。朝寝坊できる日々が終わってしまうのは残念でもあるのだけれど、子育て真っ盛りの身としては、日常が帰ってくるという意味での安心感のほうが大きい。小さい子と生活していると、休みであっても世話で一日中忙殺される上に、いろいろと金もかかる一方で、平日であれば仕事の調整でいくらか自分の時間がとれるからである。それにしても、この6日間は予想以上に勉強・読書が進まず、若干不満の残る休みになってしまった。
 
☆☆☆
 
このブログを初めて1年半弱、それなりにアクセス数もたまってきたので、アクセス数の比較的多い記事を以下に記載する。
 
①「あまり感動しなくなったことについて」
②「「優秀」は褒め言葉なのか」
③「人文学を遠く離れて」
 
検索エンジンからの流入については、ほぼ以上3つの記事に集中している。どれも比較的一般性の高いテーマだからだろう。逆に、日常的な出来事について書かれた記事に関しては、ほとんど外部からのアクセスが見られない。個人的には②について、「優秀」という言葉に疑義を持つ人が一定数いるということは、非常に健全なことだと思う。記事の質に細かく気を配れるほど時間はないのだけれど、今後も余裕があるときはなるべく一般性に配慮した記事を執筆したい。
 
☆☆☆
 
この連休でひとつよかったことは、自宅の掃除がかなり網羅的にできたことである。45リットルのごみ袋が20袋ほど埋まったのに加えて、粗大ごみも10点がほど出た。行ったこととしてはきわめて単純で、ベビーシッターの人に3時間ほど子どもたちを見てもらって、その間に親2人が掃除に没頭するという寸法である。ひとつマズかったことは、夕食の席で「あのシッターさん可愛かったねえ」と何気なくつぶやいていたら、妻がかなり怖い顔をしていたことである。結婚してずいぶん長いのだけれど、女の人はやっぱりそういうものなのだろうか。
 
☆☆☆
 
今月は、年間閉め、税務申告に加えて、コスト分析の新しいシステム導入、その中でビジネススクール用のアプリケーションを書くという、なかなかハードな月になりそうである。人事上の配置換えもありそうだ。なにはともあれまずは最先端から加速したい。ははは。

年末

忘年会続きでグロッキーになっている。酒を呑んでへべれけになる→朝5km走って現実世界に帰ってくるというサイクルを繰り返していると、人生というものがひどくマッチポンプなものに感じられる。アルコールというものを摂取して分解し、それを排泄するためにトレッドミルの上で走るという反復運動を毎年年末に行っているというのは、ある意味では幸せなのだろうが、少し見方を変えてみると、人間としてひどく進歩がないような気がする。

 

☆☆☆

 

面接を受けた会社から結局連絡は来なかった。まあ通っていれば1~2日くらいでコンタクトがあるものなので、たぶんお気に召さなかったのだろう。しかしながら、ここの会社は世界で一番お客様を大切にするとか言っているわりに、求職者を大切にしているとはまったく言えそうもない。まあ会社なんてだいたいそんなものなのだろうけれど。

 

転職をすること自体にはそう積極的ではないのだが、1月あたりから何人かのヘッドハンターから市況の情報を集めるつもり。これは、現在の会社でもうすぐ3年目に入り、次の方向性を見定める時期にきているためである(1年目:学習、2年目: 刈り取り、3年目: バトンタッチという典型的外資系のサイクル)。来年は6月くらいまでだいぶバタバタしそうであるが、その中でどれくらい情報を集めて行動に移していけるかというのが重要になると思う。

 

☆☆☆

 

とても偉い人から、数年前業界を揺るがした、某外資系製薬トップメーカーのスキャンダルについての話を聞く。この人は当該事件のまさに渦中にいた人である。問題があるにもかかわらず、海外学術ジャーナルのレビューを通ってしまったこと、問題を発見した医師とのやり取り、弁護士やら検察やらとの仕事など、ちょっと他では聞けないものばかりだった。「結局僕としては何が真実だったかを今でも知りたいし、知るべきだと思うんだけれど、弁護士も新聞もそんなことには一切興味はないんだよ。弁護士はどうやったら裁判に勝てるか、新聞はどうやったら記事になるかしか考えてない」との由。まあそういうものかもしれないな、と思った。

 

このあたりは難しいところで、僕もデータ分析の結果を相当程度省略・脚色したりすることはある。正確な意味では、分析・報告の作業において真実など伝えてはいないのだ。ただ、仮にそれをしようとしても、インプットに見合う価値のあるアウトプットは得られないだろうし、報告される側もそんなものは求めていないだろう。じゃあ真実は求められていないのだろうか、という問いに帰ってきてしまうのだけれど、そうなると、いや必ずしもそういうことでもない、ということになってしまう。このあたりは結局バランス感覚を持って調整するしかない部分なのだと思う。

 

☆☆☆

 

会社の偉い人とカップラーメンを食べるという謎の会に参加する。この人は医師なのだが、そのわりにいつも不健康に見えるものばっかり食べている。カップ麺なんか食べてて大丈夫なんですかねと僕が訊くと、「いや、タバコに比べりゃかわいいもんだよ。女の人の喫煙率増加とさ、肺がんの発症率増加って、笑っちゃうくらいきれいに相関してんの。[…]Pィリップ・Mリスなんかさ、あいつら先進国で売上げが伸びなくなったからってさ、途上国のリテラシーがない人たちのところでバンバンCM出してんの。悪魔だよ、悪魔。[…]とにかく、1ミリもいいことないからタバコだけはやめとけ。俺はガンになってタバコを吸ってたことを後悔した人間をこれまで見まくってきたから」、とのこと。僕もどちらかというとタバコは苦手な方で、もちろん吸わないのだが、じゃあなんでそんなものを国が取り締まらないんだろうなあと思った。たぶん①税金、②タバコ会社との蜜月、③ガン患者が減ると困る、④慣習的なもの、くらいが理由ではないだろうか。ほとんど思いつきだけれど。

 

まあいずれにせよ、タバコは百害あって一利なしとのことである。

 

☆☆☆

 

気がついたらもうクリスマスである。そのわりにはなんだかずいぶん暖かいので、あまり年末という実感がない。仕事のペースを少し抑えて、掃除と年賀状書きに精を出すことにしよう。

中途採用対策について

“French philosophy?”

 

面接官の人は僕のレジュメを一読して、僕の学生時代の専攻名を見て笑った。新卒のときの就職活動以来、同じようなことが何回あったかわからない。まあ無理もない、僕のしている仕事はいわば資本主義を推進するための仕事である。それを考えると、物質的価値観と真っ向から対立するように見える、哲学という分野の勉強をしていたということが、世の中の多くの人からすると奇異に移るらしい。

 

元々ケースインタビューと聞いていたので、ほとんど戦略コンサルを受けるのと同じような準備をしていったのだけれど、実際には大部分が職務経歴についての質疑応答だった。とはいっても、「なぜ?」の連発で、ゴリゴリ突っ込みが入ってくるので、考えようによってはこちらのほうがやっかいである。とりあえず今できることはやったので、今回の面接でうまくできなかった部分の修正を行いつつ、まずは待つことにしたい。

 

☆☆☆

 

今回改めて思ったのだけれど、転職活動というのは本当に労力がかかるし、特に面接に入ってからは、2回も3回も先方オフィスに行かなければならない上に、向こうから終了ボタンを押されたらそこで終了という、なかなかシビアな勝負である。ひとつの参照として、僕が今回行った準備を以下に記す。

 

  • 企業研究
    • HPを網羅的にチェック
      • 経営方針、四半期実績、プレスリリースなどの読み込みにより経営課題を抽出する
      • 3C/5P/ SWOTなどのフレームワークを使用しつつ、会社の特徴をあぶりだす。競合・ユーザ・投資家それぞれの視点から検証する。
    • 当該関連企業書籍の読み込み(同じく経営課題を抽出するため)
  • 職種研究
    • JD読み込み(自分の経験と関連付けながら読む)
  • 履歴書のアップデート
    • 上記JDと関連付けながら、募集職種でダイレクトに活かせる経験をachievement basisで分かりやすく書く(当然、複数の企業に出す場合は、業種・会社ごとに微妙に表現を調整する)
  • 面接練習(一般)
    • いわゆる中途採用面接で聞かれる30~40くらいの質問(例えば志望動機)について、淀みなく応えられるようにする練習。当然声を出しながら、日本語・英語の両方で行う。
      • できれば転職エージェントの人や、友人・パートナーに聞いてもらい、フィードバックをもらいながら修正するのが望ましい。僕は今回直接応募で、時間もあまりとれなかったので、ここまでは自己練習のみであった。
  • 面接練習(ケース)
    • コンサルや銀行、一部テック系の会社を受けるときに必要。だいたいパターンは決まっていて、①フェルミ推定系の問題、②問題解決系のふたつに分けられる。
      • 対策としては、①参考書を読んで基本的なフレームワークを抑えたら、②問題を解きまくり、口頭で回答する練習を行う。こちらもパートナーや友人に相手になってもらうのが望ましい。今回僕は①・②合わせて50問程度を事前に解いてから面接に臨んだ。
  • 事前質問準備
    • 面接の最後に「なにか質問はありますか?」というコーナーが大抵あるので、そこで練りに練った質問をするための準備。うまく行けば、企業研究を熱心に行ったこと、志望度が高いことなどをアピールすることができる

 

大まかにいってだいたい上記のような感じである。正直にいって、マジメにやると30時間くらいはかかる。で、だいたい想像がつくように、一部の気合の入った求職者を除いて、ここまでやる人はあまりいない(一方で、トップティアのコンサルなんかを受ける人は当然のようにやっている)。まあ別に強制的なものでもなんでもないのだけれど、本当に行きたい会社があって、かつそれが人気のあるポジションだったら、最低これくらいはやらないといけないし、やらないと後悔しますよ、という話。

 

もちろん新卒の頃は上に書いたようなことなんか知らないし、企業研究なんかなにもせずにガンガンいろんな説明会に乗り込んでいたのだけれど、今考えるとすげえなあと思ってしまう。知らないというのはある意味強さでもある。

 

☆☆☆

 

年末らしく、業務はバタバタ。ストレッチを深めに行って、睡眠の質を上げるようにしよう。

タイムマネジメント

友人の墓参りのために、娘と二人で久しぶりに大阪に出かける。僕にとってうれしい驚きだったのが、娘が友人のお母様に敬語(ですます調)で話していたこと。自分が小学校一年生のころなんて、おそらくサルに毛が生えたくらいのことしか話せていなかったと思うのだが、女の子は実に成長が早い。当初の目的を済ませた後は、子ども連れということで、普段めったに足を向けることのない大阪城に向かう。大阪城公園のあたりはずいぶんと紅葉が進んでいで、朱と山吹色のコントラストが城下を彩っていた。天守閣に行くと、修学旅行生と中韓あたりからの観光客がずいぶん目立つ。たぶん大河ドラマの影響もあるのだろう。その後は、天王寺のあたりで軽くお茶をしてから東京に帰る。それにしても東海道新幹線の常軌を逸した価格設定はどうにかならないものなのか。

 

☆☆☆

 

恵比寿で後輩の結婚式。35にもなって2ヶ月連続で結婚式というのもなかなか珍しい話だとは思うのだが、まあめでたいのはいいことである。僕の苦手なヤソ教式ということもあって、まあ突っ込みどころには事欠かなかったのだけれど、賛美歌のオルガンがパット・メセニーギターシンセみたいな音で、なかなか情感に訴えるものがあった。式では初めて会う何人かの人から、「流星号の人ですよね」と声をかけられる。個人史というのは意外と長くついてまわるものだなあと思った。披露宴というのもあまり好きではないのだが、娘から父親の手紙のコーナーで不覚にも声を上げて泣いてしまう。最近どうも涙もろくて困る。

 

☆☆☆

 

タイムマネジメントというものの必要性や重要性をきちんと認識したのは、思えばずいぶん遅かったような気がする。たぶん社会人になってから、もっと正確に言えば結婚して子どもが生まれてからだ。なにしろ学生の頃はそれこそ時間だけは掃いて捨てるほどあった。それに元々僕は重要な試合やらテストやらについては石橋にセメントを流し込むように準備をするほうで、なにかにつけ物事を早く終えてしまうクセがあり、たぶんそのためにタイムマネジメントという観念を持つことがなかった――あるいは自分には縁のないものだと考えていたのだと思う。

 

だが30代になると事態は一変する。理由は単純で、ライフスタイルの変化によるものである。共働きをしながらペースの早い業界で仕事をするというだけで、一週間のうち自分のために使える時間というのはほぼなくなってしまう。そういうわけで、否が応にも「いかに効率的に時間を使うか」ということを考えざるを得なくなってくるのがこのくらいの年代だといえるかもしれない。

 

翻って、ビジネススクールの入学試験のひとつであるGMATでは、このタイムマネジメントというのが非常に重要だとされている。特に論理(verbal)の試験において、英語を母国語としない人間には処理困難な量の問題数が出題されるからである。そういう制限の中で訓練を積んでいくと、選球眼というか、「この問題は全力で解くべきか、見送るべきか」というのが直観的にわかるようになってくる。結果的にこれが身についたことで、僕は合格点である35点を超えることができた。このあたりの感覚は、おそらくこの試験の勉強をしなかったら身につけられなかっただろうと思う。

 

別にアメリカ式の教育や試験を賛美したいわけではないのだが、日本の教育の中でも、「限られた時間・情報の中ですばやく判断を行い、優先順位を決めること」の重要性は早いうちに教えたほうがいいのではないかと思う。現実の世界は問題が多すぎて、トリアージを行わないことには体がいくつあっても足りないからである。

 

☆☆☆

 

今週もバタバタとした日が続く。ふろふき大根でも食べながら、こたつでぼーっと過ごすような日が一日でもあればいいのだけど。