ふつうの日記ですよ

前回の記事がタイムリーなものだったせいか、アクセス数がずいぶん伸びて驚いている。個人的な独白のためのこのスペースに、一週間で100名を超える新規ユーザが訪れることなど考えもしなかった。名古屋からのアクセスがけっこうあったので、あおい書店の本社の人なんかもここを覗いたのかもしれない。まあ特に気合を入れて書いているものでもないけれど、一応は外部に開かれているものだから、興味を持って記事を読んでくれる誰かがいるということは喜ばしいことである。

 

☆☆☆

 

週末は長女のバレエ発表会でほぼ丸二日が消えた。芸事を観るのはどちらか言えば好きなほうだと思うのだが、彼女の出演する時間は10分しかないのに、待ち時間(シッター業務含む)があまりにも長くてへとへとになってしまった。しかしながら、バレエというのは皆結構露出度の高い服を着ているわりに、セクシュアルというか、センシュアルというか、そういう雰囲気がまったくないのはなぜなのだろう。表象文化論のテーマとしてはなかなか面白いと思うのだが、これまでにこのテーマで書かれた論文はあるのだろうか。

 

☆☆☆

 

恒例の読んだ本。

 

斎藤孝『孤独のチカラ』、新潮社、2010年。

 

内容はイマイチであった。「孤独を肯定的にとらえよう」という著者のねらいはよいと思うのだが、無理やりポジティブ感を作っている感じが否めず、またその肯定ゆえに、「孤独である」ことの重みがあまり伝わってこない。もっともこれはこの人に限った話ではなく、「孤独」について書いた書き手はだいたい失敗しているので、仕方のないことかもしれない。小谷野敦は「ルソーの『夢想』以来、孤独を書けた人は文学史上ほぼいない」というような発言をどこかでしていたが、僕も彼の言わんとしていることはよくわかる(漱石の『行人』は同テーマのものとして出色だと思うが)。

 

☆☆☆

 

"Bold as love"の素晴らしいギター演奏の動画を見つけたので、リンクを貼っておく。

 

www.youtube.com

 

僕は女性を見る目にはあまり自信がないが、文章とギター演奏の目利きであればけっこう自信がある。この演奏は、少なくとも僕がこれまで聴いてきた中では、ジミ本人の演奏に最も近いと思う。ブルージーで、ルースで、そしてたまらなくセクシーである。生で聴いたら鳥肌が立つと思う。宝石のような音の粒に耳を澄ませていると、僕はどうしても、おそらくジミ本人が闘ってきた、どうにもならない痛みや黒人差別のことを考えてしまう。それはずいぶん穿った、自分勝手な聴きかたなのかもしれない。けれども、おそらくはそれゆえに、これらの音は僕たちの魂のもっともやわらかい部分に直接作用する。50年代のビリー・ホリデイが、あるいは戦後の美空ひばりがそうであったように、ジミもまた時代の痛みを引き受けた――引き受けなければいけなかった――音楽家だったのだと思う。おそらくは天才の宿命として。

 

もうひとつ、以下の"Little wing"も負けず劣らず素晴らしいので合わせて貼っておこう。youtubeの一番目のコメント、「どんな人間であればこの動画に"よくない"ってつけられるんだ?」というのは、まったくもって正しいと思う。

 

www.youtube.com

 

 

五反田あおい書店の閉店によせて

五反田のあおい書店が明日22日をもって閉店するという。足繁くとは言わないまでも、月に何度かは行くことのあった書店だけに、いささかショックを受けている。他の街で気持ちよくお酒を飲んだあとに、ゲンロンカフェの横を通り抜け、「キャバクラいかがっすか」というポン引きをかわして、かの本屋で思想書を手に取るのは、ここ数年ほど僕にとってのささやかな喜びであった。人文書のコーナーは決して大きいわけではなかったけれど、限られた中でもそれなりにこだわりの感じられる棚作りがされていて、特に青土社の書籍は積極的に展開されていた印象が強い。人もまばらな23:00過ぎ、酔った頭でシジェクなんかのページをパラパラとめくって、僕はよく「相変わらずだなあ」とひとりごちていたものだ。『永続敗戦論』やら、『断片的なものの社会学』なんかも、僕は確かここで買ったと記憶している。少なくとも僕にとっては、この店の思想の棚は、そこにいれば資本の磁場から少しだけ逃れることのできる、大切なアジールだった。

 

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とはいえ、経営的な側面を考えれば、今回の閉店は時間の問題だったといえる。ここ1、2年ほど、店内にいる人の数そのものが過去に比べて明らかに少なかったからだ。このあたりでは珍しく23:00過ぎまで開いている稀有な書店だったのだけれど、おそらく夜間については固定費さえ回収できていなかったのではないかと想像する。

 

もっとも、当然ながら上記のような話はこの店だけに起こっている話ではなく、出版業界全体の問題である。なにしろここ数年、本の世界からは景気のいい話がさっぱり聞こえてこない。太洋社の破綻、紀伊国屋新宿南口店の閉店、創文社の解散通知、そして岩波ブックセンターの破産――これらはすべてここ1年以内の出来事である。財務情報を見る限り、文教堂あたりもあと1年程度で資金が尽きるだろうし(自己資本率1.6%というのは致命的である)、ジュンク堂紀伊国屋も書店経営の実績は似たり寄ったりというのが現状だろう。僕自身がAmazonのヘビーユーザであり、またどちらかといえば紙の本より電子版を購入することが多いので、書店ビジネスの停滞に多少の責任を感じないでもないのだが、消費者としての合理的な購買行動は責められるべきものではないだろう。

 

いずれにせよ、五反田のあおい書店は明日をもって閉店し、僕は自分の大切なアジールをひとつ失う。その事実に対していかに応答するのが正しいのか――倫理的であるのか――、僕はまだわからずにいる。ただ、僕がかの店を忘れることはないだろう。僕はそれを単一なものとして記憶するだろう――この書店を一般性に還元することなく記憶にとどめるのが、おそらく僕に行いうる最も非-暴力的なふるまいだろうから。

 

明日僕はもう一度この店に足を運ぼうと思う。ありがとうとさようならを言いに。

読書メーターをやめるの巻

前回、悲しみについて書いたらアクセス数がちょっとした伸びを見せた。どうやら「悲しみ」というのは多くの人を引きつけるテーマらしい。僕も、陽気な人よりはちょっと陰のあるタイプの人に魅かれるところがあるので、そういう気持ちはよくわかる。同じような理由で、あまりに社交的なタイプの人はあまり深く知りたいという気になれない。なんだか薄っぺらいように見えてしまうからだと思う。

 

似たような文脈で、この間、「僕は友だちが何人いるかなあ」と夜中に一人で数えてみたら、まあだいたい15人くらいだった。35年も生きてきて15人しか友だちいないのかよ、と若干気が滅入ったが、まあこれが等身大の僕なのだ。仕方ない。まあポジティブに考えると、もし自分が死んだら15人もの人が悲しんでくれるということなので(たぶん)、なかなか悪くないなあと思う。他者のないところに死はない――レヴィナスもたしかそんなことを言っていた。

 

☆☆☆

 

だんだん管理が面倒になってきたので、読書メーターをやめた。読んだ本が一元管理できるのが魅力だったのだが、洋書で登録されていないものが多いため、実際には漏れが出てしまうというのも原因である。代わりとして読んだ本については今後このブログに書くことにする。以下は冬休みに読んだ本である(出版社名と発行年数は割愛し、代わりに一言コメントを入れる)。

 

グロービス『これからのマネージャの教科書』(これはなかなか力作だった)

コンディヤック『論理学』(一番面白かった。翻訳も訳注も素晴らしかった)

David Sedaris, “Me Talk Pretty One Day”(この人の本はハズレなしで笑える)

熊代亨『「若返りうつ」社会』(僕の周りにもこういう人はいっぱいいる)

渡辺・北篠『高校で教わりたかった化学』(サイエンス音痴でも読みやすかった)

セス・シーゲル『水危機を乗り越える―砂漠の国イスラエルの驚異のソリューション』(内容はなかなか面白いが、やや浩瀚に過ぎる感あり)

 

本当は文学ものをひとつ読みたかったのだけれど、シッター業のために時間がとれなかった。

 

☆☆☆

 

12月に面接を受けた会社からようやく連絡が来た。「まだご興味ありますか」とのこと。完全に都合のいい男扱いされている。まあ自慢ではないが、都合のいい男扱いされるのには慣れているので、特に何も驚きはない。ははは。

 

☆☆☆

 

これから英語の勉強。なんかここ10年くらい結局英語の勉強ばっかりしているような気がする。

どうしようもない悲しみを癒すにはどうすればよいか

 

今まで誰にも訊かれたことはないけれど、「あなたがこれまでに人生で経験した最も辛かったことを3つ挙げてください」と言われたら、僕はすぐに答えることができる。①親の離婚、②友人の死、③最後の失恋の3つである。この中でも③のダメージは本当に重く、本当に当時は死ぬことを毎日のように考えていた(当時のブログに「MajiでKubi吊る5秒前」とか書いていた)。それからも7年くらいの時が過ぎた今でも、当時の記憶が夢に出てきて、泣きながら目を覚ますことがあるくらいだから、我ながらこれはやはりちょっとしたものである。実を言うと、当時自分がどうやって生きていたかについては、正直ほとんど記憶がない。たぶん日常生活に支障がないように、脳が記憶を制御して、意識の表面に浮かび上がってこないようにしているのだと思う。

 

で、本題に移る。悲しみを抱えながら生きるにはどうすればよいかという話である。よくグリーフケアなんかの文脈でも議論されるいささか硬い論点ではあるのだが、ここでは理論的な話はすっとばして(そういう場ではない)、僕がなんとか生きるために役に立ったものを記す。かつての僕と同じように、どうしようもない哀しみや痛みにさいなまれている人には、少しは参考になるかもしれない。

 

役に立ったもの

 

1. 書く

  • ノートにひたすら書く。Fワードだろうが、あのやろう死ねだろうが、心のありったけすべて書き出す。不思議なのだが、それを繰り返していくと、頭の中にあった不快感の塊みたいなものが概念として整理されて、凝固した痰がのどの奥のほうから吐き出されるような感覚を得られることがある。
    • 理由はわからないのだが、キーボードでタイプするよりは、フィジカルにノートに書くという行為のほうが治癒効果は高い気がする。また、ブログなど公開を前提した場所に書くよりも、あくまで閉じられた場所で、自分のために書いたほうがよい。
  • そして、だいたい吐き出したら、自分が欲しかった言葉をこれまたノートに書いて、自分に与えていく。「がんばったね」とか、「もう大丈夫」だよ、とか。要するに自己完結的な言葉によるオナニーなのだが、これは治癒効果が高いと思う。自分が最も必要としている言葉を知っているのは、たいてい自分だからである。
    • 少し話がズレるが、ジャン=ジャック・ルソーは、妄想に苛まれていた晩年に『対話』という非常にメンヘラ色の強い作品を残している(かつて僕はこの作品を中心にして論文を書いた)。僕が学生だったときには気づかなかったのだが、彼は何よりも自分に対するセラピーとしてそれを書いたのではないかという気がする。
    • また話がズレるが、NAVERまとめにある「失恋したときのビタミン言葉」にも助けられた。「恋を失ったわけじゃない、卒業したんだよ。卒業おめでとう」という一文を見て、深夜に泣いた記憶がある。

2. 話す

  • 要するに友人にひたすら聞いてもらう。僕の場合は、昔の友人を総動員して話を聞いてもらった。そのために岩手県遠野市に住む友人に会いに行ったことは今でも鮮明に覚えている。
    • ただデメリットとしては、そうした友人たちに大量の負のパワーを浴びせることになるというものがある。なので、あまりやりすぎると大切な友人を失うとまではいかなくとも、距離を置かれてしまう可能性がある。
    • 当時深夜まで話を聞いてもらった友人たちには、本当に感謝のしようもない。

3. 抜く

  •  これは男性が失恋したとき特有なのかもしれないが、失恋の辛さ・痛みは性的欲求ととても密接に結びついている。少なくともその痛みの一部は、失恋したことそのものではなく、今抱えているセクシュアルな欲求の対象の不在によって引き起こされるものであるからである。行き先を失ったリビドーは著しい精神的な痛みとして表出する。この痛みを軽減するために、辛くなったら、なるべくさっさと抜く。オカズはなんでもいいと思う。
    • 僕はそういう趣味がないので利用しなかったが、風俗やらソープやらに行くのもアリだと思う。空しくなりそうだけれど。

4. 運動

  • これは当たり前か。僕の場合はランニングと水泳をよくしていた。

 

あまり役に立たなかったもの

 

1. 心療内科

  • 「死にそうなので看て下さい」と行ったら、なぜか説教された。それでパキシルデパスを渡されて終わり。こんなの治療でもなんでもない。もちろん薬は飲まなかった。既得権益ファック、と思った。

2. 読書

3. あまり自分のことを知らない人に話す

  • インターネットで知り合ったお姉さま方にいろいろ話を聞いてもらったのだけれど、結局僕のことをよく知らない人たちなので、どうしても話が一般的なことに終始してしまい、傷を癒されるような感覚はなかった。
    • 神戸の主婦の人に夜話を聞いてもらっていたら、「ねえ、これからテレフォンセックスしない…?」という妙な流れになったことがあった。僕は冬の寒空の中、公園からジャージ姿で電話していたので、もちろん丁重にお断りした。

 

するべきではないこと

 

1 . インターネット(とりわけSNS

  • 相手の名前を検索したり、相手のSNSの個人ページを見ることは当然ながらご法度である。見てしまったが最後、妄想と嫉妬で脂汗が出そうになるからである。
    • これも男性特有かもしれないのだが、僕の場合はその彼女が他の男とセックスしているイメージが繰り返し繰り返し脳内で再生されて、それが本当に辛かった。こういう場合は、前述したとおり、さっさと抜くのが一番良いと思う。
  • これも深夜にやってしまいがちなのだが、自分が求めている言葉を捜して、深夜にインターネット徘徊するのもあまりよくない。たまに珠玉のような言葉に会えることもあるのだが、時間対効果で見ると、あまり効率がよいとは言えない。それなら、自分の深いところにある気持ちとノートを通して自己対話するほうが健全だし、効率がいい。

2. 共通の友人に会う

  • 100%話題に出てくるので、なるべく会わないほうがよい。彼女と会ったよ、みたいな話だと、だいたい嫉妬に苦しむことになる。

 

 

最後にひとつ付け加えておきたいのだが、上記は悲しみを忘れることを意図したものではない。というのも、悲しみというのは、それが純粋なものであればあるほど、おそらく忘れられることのない種類のものだからである。したがって、そうした悲しみを抱えてなんとか生きていくために、具体的にどうすればいいかという問題意識で書かれたのが上記である。

 

ただ振り返ってみると、悲しみを生きるという経験は僕にとって――おそらく誰にとっても――これ以上ない人生勉強の場であったような気がする。たぶん、それを通して僕はいくらか大人になったのだとは思う――人生の有限性や、人の痛みがわかるくらいには。「人生に無駄なことはない」なんて僕にはとても言えないけれど、経験したことからいくらかの学びは得るべきだと思うし、きっとそれが生きることのひとつの意味なのではないかという気がする。

 

僕の知らない、今絶望に打ちひしがれている誰かの参考になれば。

バリウムを飲む

新年初出社の日は健康診断であった。当日の朝、クリニックから送られてきたキットを開けて冷や汗をかく。検査用の便を持ってくるようにとの指示があったからである。ところが、朝食を食べられないこともあって、その日に限ってお通じがない。仕方ないので、ミネラルウォーターをガブガブと飲んで腰フリダンスをして排便を促すのだが、待てど暮らせど天啓は来ない。出発時間が迫り、もはやこれまでかと思ったところで、便意を催す。かくしてめでたく、僕は自分の便の一部を指定されたキットに入れ、検診に向かった。

 

で、標準的なメニューをひととおり終えた後に、初めてのバリウムが始まる。と書くといかにも落ち着いた体験だったようだが、実際にはけっこう恐怖でおののいていた。味は思ったよりも不味くない。我ながら滑稽だったのは、飲み干した後の回転運動で、「おお、コレは大丈夫か」と何度か心の中で冷や汗をかいていた。とはいえ、全体としては想像していたよりも不快なものではなく、なかなか面白い体験であった。どちらかというと朝一のお通じ乞いのほうが精神的には辛かったような気がする。

 

☆☆☆

 

「すくすく子育て」で優木まおみを久しぶりに見たら、顔の険がすっかりなくなっていて驚いた。半年くらい前とぜんぜん違う。もう30代も半ばだと思うのだが、キラッキラしていて、健康的な色気にあふれている。妊娠中で幸せホルモンが出まくってるんだろうなあと思った。女の人は幸せが顔に出るっていうのは多分本当ではないかという気がする。じゃあ男の顔はどうなのかと聞かれたら、やっぱり経験だろうなあと思う。

 

☆☆☆

 

大学院時代の友人の就職が決まったということで、個人的にちょっとお祝いする(とはいってもランチだが)。哲学の分野において、35歳で正規のアカデミックポストを得られるといのは、かなりの僥倖である。めでたい。で、いつものとおり、昔の友人たちの近況を聞く…となると必ずとある女の人の話題になる。心臓がバクバクして泣きそうになる。救心でも飲んだほうがいいんじゃねえかと思うくらいである。まあそれはともかくとして、就職決定というのは喜ばしいことである。

 

それと若干関連した話で、別の友人のブログのようなものを見ていたら、最近撮影されたらしい、上記の彼女の写真があった。何気なく撮影された横顔のスナップショットなのだが、その顔には年月の重みと疲れが心なしか感じられた。月日は確実に流れているのだ。心の鈍い痛みはあまり感じなかった。ただ僕はそれを見て何もいえなかった。何を言っても不適切であるような気がした。

 

☆☆☆

 

というわけでエッセイをガリガリと書く。

2017

年末年始の休みが終わろうとしている。朝寝坊できる日々が終わってしまうのは残念でもあるのだけれど、子育て真っ盛りの身としては、日常が帰ってくるという意味での安心感のほうが大きい。小さい子と生活していると、休みであっても世話で一日中忙殺される上に、いろいろと金もかかる一方で、平日であれば仕事の調整でいくらか自分の時間がとれるからである。それにしても、この6日間は予想以上に勉強・読書が進まず、若干不満の残る休みになってしまった。
 
☆☆☆
 
このブログを初めて1年半弱、それなりにアクセス数もたまってきたので、アクセス数の比較的多い記事を以下に記載する。
 
①「あまり感動しなくなったことについて」
②「「優秀」は褒め言葉なのか」
③「人文学を遠く離れて」
 
検索エンジンからの流入については、ほぼ以上3つの記事に集中している。どれも比較的一般性の高いテーマだからだろう。逆に、日常的な出来事について書かれた記事に関しては、ほとんど外部からのアクセスが見られない。個人的には②について、「優秀」という言葉に疑義を持つ人が一定数いるということは、非常に健全なことだと思う。記事の質に細かく気を配れるほど時間はないのだけれど、今後も余裕があるときはなるべく一般性に配慮した記事を執筆したい。
 
☆☆☆
 
この連休でひとつよかったことは、自宅の掃除がかなり網羅的にできたことである。45リットルのごみ袋が20袋ほど埋まったのに加えて、粗大ごみも10点がほど出た。行ったこととしてはきわめて単純で、ベビーシッターの人に3時間ほど子どもたちを見てもらって、その間に親2人が掃除に没頭するという寸法である。ひとつマズかったことは、夕食の席で「あのシッターさん可愛かったねえ」と何気なくつぶやいていたら、妻がかなり怖い顔をしていたことである。結婚してずいぶん長いのだけれど、女の人はやっぱりそういうものなのだろうか。
 
☆☆☆
 
今月は、年間閉め、税務申告に加えて、コスト分析の新しいシステム導入、その中でビジネススクール用のアプリケーションを書くという、なかなかハードな月になりそうである。人事上の配置換えもありそうだ。なにはともあれまずは最先端から加速したい。ははは。

年末

忘年会続きでグロッキーになっている。酒を呑んでへべれけになる→朝5km走って現実世界に帰ってくるというサイクルを繰り返していると、人生というものがひどくマッチポンプなものに感じられる。アルコールというものを摂取して分解し、それを排泄するためにトレッドミルの上で走るという反復運動を毎年年末に行っているというのは、ある意味では幸せなのだろうが、少し見方を変えてみると、人間としてひどく進歩がないような気がする。

 

☆☆☆

 

面接を受けた会社から結局連絡は来なかった。まあ通っていれば1~2日くらいでコンタクトがあるものなので、たぶんお気に召さなかったのだろう。しかしながら、ここの会社は世界で一番お客様を大切にするとか言っているわりに、求職者を大切にしているとはまったく言えそうもない。まあ会社なんてだいたいそんなものなのだろうけれど。

 

転職をすること自体にはそう積極的ではないのだが、1月あたりから何人かのヘッドハンターから市況の情報を集めるつもり。これは、現在の会社でもうすぐ3年目に入り、次の方向性を見定める時期にきているためである(1年目:学習、2年目: 刈り取り、3年目: バトンタッチという典型的外資系のサイクル)。来年は6月くらいまでだいぶバタバタしそうであるが、その中でどれくらい情報を集めて行動に移していけるかというのが重要になると思う。

 

☆☆☆

 

とても偉い人から、数年前業界を揺るがした、某外資系製薬トップメーカーのスキャンダルについての話を聞く。この人は当該事件のまさに渦中にいた人である。問題があるにもかかわらず、海外学術ジャーナルのレビューを通ってしまったこと、問題を発見した医師とのやり取り、弁護士やら検察やらとの仕事など、ちょっと他では聞けないものばかりだった。「結局僕としては何が真実だったかを今でも知りたいし、知るべきだと思うんだけれど、弁護士も新聞もそんなことには一切興味はないんだよ。弁護士はどうやったら裁判に勝てるか、新聞はどうやったら記事になるかしか考えてない」との由。まあそういうものかもしれないな、と思った。

 

このあたりは難しいところで、僕もデータ分析の結果を相当程度省略・脚色したりすることはある。正確な意味では、分析・報告の作業において真実など伝えてはいないのだ。ただ、仮にそれをしようとしても、インプットに見合う価値のあるアウトプットは得られないだろうし、報告される側もそんなものは求めていないだろう。じゃあ真実は求められていないのだろうか、という問いに帰ってきてしまうのだけれど、そうなると、いや必ずしもそういうことでもない、ということになってしまう。このあたりは結局バランス感覚を持って調整するしかない部分なのだと思う。

 

☆☆☆

 

会社の偉い人とカップラーメンを食べるという謎の会に参加する。この人は医師なのだが、そのわりにいつも不健康に見えるものばっかり食べている。カップ麺なんか食べてて大丈夫なんですかねと僕が訊くと、「いや、タバコに比べりゃかわいいもんだよ。女の人の喫煙率増加とさ、肺がんの発症率増加って、笑っちゃうくらいきれいに相関してんの。[…]Pィリップ・Mリスなんかさ、あいつら先進国で売上げが伸びなくなったからってさ、途上国のリテラシーがない人たちのところでバンバンCM出してんの。悪魔だよ、悪魔。[…]とにかく、1ミリもいいことないからタバコだけはやめとけ。俺はガンになってタバコを吸ってたことを後悔した人間をこれまで見まくってきたから」、とのこと。僕もどちらかというとタバコは苦手な方で、もちろん吸わないのだが、じゃあなんでそんなものを国が取り締まらないんだろうなあと思った。たぶん①税金、②タバコ会社との蜜月、③ガン患者が減ると困る、④慣習的なもの、くらいが理由ではないだろうか。ほとんど思いつきだけれど。

 

まあいずれにせよ、タバコは百害あって一利なしとのことである。

 

☆☆☆

 

気がついたらもうクリスマスである。そのわりにはなんだかずいぶん暖かいので、あまり年末という実感がない。仕事のペースを少し抑えて、掃除と年賀状書きに精を出すことにしよう。