プロジェクト、フィリピン、ヒカルちゃん

だいたい最近いつもそうなのだが、雑事に忙殺されて更新が遅れてしまった。何人かの友人にビールを飲みに行こうとか、ご飯を食べに行こうなどと声をかけてみたはいいものの、そちらもまったく追いついていない。35歳の梅雨もまた、社内調整に明け暮れているままに過ぎていこうとしている。

 

☆☆☆

 

前回書いたプロジェクトの続き。アメリカからお偉いさんたちがやってきて、日本のお客様にプレゼンテーションを行う。先方も社長と役員数名ということで、「ああ、このくらいの人たちが10年前の僕に対して最終面接をしていたんだなあ」と妙な感慨に打たれる。この会議では、僕と同じプロジェクトメンバーである女性が全体の進行と通訳を務めていたのだが、それがあまりにもこなれていて、同僚ながら惚れぼれとしてしまった。アメリカで高校・学部を過ごした人なので、もちろん英語は非常に上手いのだが、アメリカ人のややもするとarrogantに聞こえがちな言い分を(彼らはassertiveと言うだろうが)、日本人向けに柔らかく同時通訳するというのはプロでも難しい。久しぶりに、僕にはこのレベルの仕事はまだできないなあと舌を巻いてしまった。だいたいにおいて、事務系の仕事で能力的な違いをあからさまに感じさせられることは少ないのだが、こういう驚きがあると刺激になるし、もっとがんばらなくてはいけないなあと思う。

 

ちなみにそのプロジェクトの中間打ち上げで、USの偉い人がこんなことを言っていた。「日本のお客さんのXXXに言ったらさ、『私たちはあなた方を信用していません。あなたたちが日本人ではないからです』って言うの。本当だぜ。信じられないよな」。

 

本当に信じられないし、アメリカでこんなことがあったら大問題になると思うのだが、そういうことがあってもおかしくないのかもしれないなと僕は思った。それくらい異物に対するフォビアは、特にこの国の地方においては著しいものであるからだ。でも彼にそんなことはとても言えなかった。

 

「でも、世界は変わっているんだ。グローバル化は着実に進行しているし、彼らもそう長くそんな態度ではいられくなるだろう」、彼はそう言葉を継ぎ足した。グローバリゼーションがはらんでいる問題はある程度理解しているつもりだけれど、このときばかりは、僕の間接的な上司である、この典型的なアメリカ人エリートに同意せざるを得なかった。

 

☆☆☆

 

今年の夏休みはセブ島に行って、マンゴーを食べながらのほほんと過ごそうと思っていたのだが、気がついたらフィリピンに非常事態宣言が出ているではないか。調べると、ISの勢力が当地でかなり拡大しているとのこと。フィリピンは敬虔なカトリックの印象が強いが、ちょっと調べると特に南部はイスラム系の人口がかなり多いようである。実際にテロに会う確率はそんなに高いものではないと思うのだが、貴重なお金と休みを使ってリスクを取る必然性は毛頭ないので、結果的にはキャンセルすることに。というわけで、あと夏休みまで一ヶ月しかないというのに、夏休みの計画は再度練り直しになってしまった。困ったものである。

 

☆☆☆

 

遅ればせながら、昨年発売された宇多田ヒカルのアルバムを聴く。なんだか久しぶりに音楽を聴いた気がした。できあいの工業製品ではない、プロが技術と魂をこめて編んだ芸術作品を。どのトラックも素晴らしいけれど、やはり白眉は「花束を君に」だろう。音が泣いているのだ。ある人はルノワールの遺作である「ニンフ」を見て、「画面が泣いている」と言ったそうだが(誰だったっけ?)、この曲はそれぞれの楽器はそれぞれの仕方で泣いている、そんな印象を受ける。凡百の歌謡曲と、真の芸術作品を分かつものはいったい何の要素なのだろう――そんなことを思わず考えさせられてしまった。その問いに対する答えなどもちろんわからないのだけれど、本作は間違いなく後者に属する作品である。

 

 

ちなみに、かなりどうでもいいのだが、2曲目の「俺の彼女」は歌詞の一部がフランス語になっている。その中で”Quelqu’un à trouver ma vérité”という一文があるのだが、これが、”quelqu’un qui puisse ma vérité”なのか、それとも “quelqu’un dans lequel je puisse trouver ma vérité”なのかがよくわからなかった。前者は「私の真実を見つけてくれる人」という意味で、後者は「私がその人の中に私の真実を見つけられる人」という意味である。前者だとどちらかといえば他律的なニュアンスになり、対して後者だと自律的な含みが感じられる。この曲は男性と女性の言い分の掛け合いということもあり、この一文の語り手がどちらかというのも不明である。哲学畑出身としては、どうしてもこういうものを見ると「決定不能」と言いたくなってしまうのだが、これは歌詞に重層性を付与するために意図的に行っているのだろうか。よくわからない。

雨にたゆたう

6月の雨の日曜日というのは、人生の意味とその空しさについてぼんやりと考えるにはおあつらえ向きである。疲れがたまっていたのか、体調もあまり芳しくなかったので、僕はベッドの上で過去あったいくつかの出来事についてぼーっと考えつつ、人生に果たして意味はあるのだろうかと自分に問いかけながら午後を過ごしていた。ニーチェ稲葉浩志は「そんなもんねえんだよ」と言う。僕も賛成だ。草野マサムネはバスが揺れたらその意味がわかったと歌った。そんなわけあるかよ。35歳にもなって、こんなヤクザな命題にに思いを巡らせている不甲斐ない父親の横では、もうすぐ2歳を迎えようとしている好奇心の塊がすやすやと寝息を立てていた。村上春樹の小説の一文が、ふと脳裏をかすめる。

 

「時々、泣くことができれば楽になれるんだろうなと思えるときもあった。でも何のために泣けばいいのかがわからなかった。誰のために泣けばいいのかがわからなかった。他人のために泣くには僕はあまりにも身勝手な人間にすぎたし、自分のために泣くにはもう年を取りすぎていた」(村上春樹国境の南、太陽の西』)

 

☆☆☆

 

先週から短期のプロジェクトに駆り出されている。僕のキャリアの中ではおそらく初めてとなる戦略寄りのプロジェクトなのだが、これが大変に難しい。業界の構造や慣習に通じていなければならないのはもちろん、各プレイヤーの動きやそれぞれの会社の利害関係者の考え方などの複雑な要素をうまく消化し、会議で適切な発言をして、なおかつそれを具体的な成果物に落とし込まなければならない。英語なので、アメリカ人のチームメンバーなんかと比べられると、その点でもやはりハンデがある。まあそれはそれとして、春秋戦国時代の軍師なんてのは、おそらくすさまじいプレッシャーだったのだろうなあと思う。なにしろ国が滅んだら王様以下一族郎党皆殺しの時代である。株式会社やらLLCやらが倒産しても個人の賠償責任になることはないのとはずいぶん違う(債権者集会で罵声を浴びせられて石を投げられるのはまああるけれど)。現代の戦略コンサルの人々はどれくらいの覚悟を持って日々の業務にあたっているのだろうか。

 

まあいわゆるファイナンス、とりわけBusiness partneringのキャリアを突き詰めていく上では、ビジネス戦略に明るくならねばならないというのは自明なので、よい修行の場と思ってがんばろうと思う。そういえば実務経験が長くなってくると、古典を読むのが面白くなると大学院時代の恩師が言っていたけれど、確かに最近そういう普遍的な作品が読みたいなあと思うことが多い。ぱっと思いついたのは、『戦史』と『ガリア戦記』。ぜひ夏休みに読みたいなあと思っているのだが、せっかくの夏休みに岩波語を読んでも肩が凝ってしまうだけのような気もする。光文社から新訳は出ていただろうか。

 

☆☆☆

 

Lonely at the Top: The High Cost of Men's Successという本を読んでいる(Kindleで800円程度とかなり割安だった)。これは要するに、男性は女性に比べると孤独になりがちで、そのことが自殺をはじめとする男性の不幸につながっているという主旨の本である。なかなか示唆的なことがいろいろと書かれているので、ぜひ今週いっぱいくらい読みきって、次回はちょっとした感想でも書ければいいなあと思う。

 

なんか全体的に暗いエントリだけど、まあそういう時期なのだろう。

ヘロヘロ世代

以下は2012年とけっこう古い記事なのだが、自分のことを書いてくれているのではないかというくらいにタイムリーな内容のでリンクを貼っておく。

 

http://www.economist.com/node/21560546

 

要旨は以下のような感じである。いかにもEconomistらしい上質な英文で書かれているので、英語が得意な方はぜひ原文を参照されたい。

 

「かつて40代は年老いた親と思春期の子どもに挟まれる「サンドイッチ世代」として生きづらいものとされていたが、最近では人生で最も生きづらいのは30代となっている。子どもを持つことが遅れ気味になっている(30代)になっており、仕事盛りのタイミングがそれと重なりやすくなってきていることが原因。彼らは人生で最も仕事が忙しい時期に子育てが重なる、「ヘロヘロ世代 generation exhausted」である。この時期は、人生で最も友人が少なくなりがちで、そういった関係を育む時間もなく、有給をとることもままならない。解決策となりうるのは、やはり会社側の柔軟な対応であろう」

 

会社でこれを読みながら、ふんふんと一人でなんども頷いてしまった。しかもここで前提とされているのはおそらくUKの会社だろうから、長時間労働がデフォルトになっている日本ではこういった傾向はなおいっそう強いのではないかと思う。とはいったものの、会社がなにかしてくれるなんてことは100%ないので、ここを人生の勝負どころと思ってがんばるしかないわけである。ネガティヴに言えば、このあたりの短絡的思考が「竹やりで戦車に立ち向かう」的というか、アジア的な非効率性の温床なのかもしれない。でもやっぱり「子どもは公的サービスに任せりゃいい」なんて割り切れるほど単純なものじゃないよなあと思う。自分の子どもだもの。

 

☆☆☆

 

金曜の夜、無味乾燥な利益率の計算にほとほと嫌気がさしたので、久しぶりにポール・ユーンの『かつては岸』を読む。もう、泣きたくなるほど染みる。一文一文がセピア色なのだ。いつか確かに自分の目の前にあって、はっきりとその匂いをかいだけれど、今はもう存在していない愛しいもの――そんなものを慈しむ感情が、一文一文からあふれ出ている。一篇目の「かつては岸」を読みきったところで、過去への憧憬と切なさに耐えられなくなり、そっとページを閉じる。大好きな本だけれど、気持ちがいっぱいになってしまうからあまり読めない。

 

以下はこの作品での好きな一文である。本の帯にも使われているので、きっと翻訳者・編集者にとっても印象的な部分だったのだろう。泣きそうになる。

 

「あまりに一瞬の出来事で、男たちがそれ以外は感じずに済んでいてくれていたらと彼女は願った。人生がもう終わりなのだと知るころには、彼らはすでに海のなかで、目を閉じて海の深みに身を委ねてくれていたらと」(前掲書、31ページ)

 

☆☆☆

 

日曜日は広尾にぼんやりと散歩に行く。相変わらず無駄にハイソで、とても多国籍である。有栖川公園の中をのんびりと歩いていると、フュージョンが聴こえるので、どれどれと演奏会場へ行く。柏のPasso a Passoというグループとの由。天気が良かったこともあいまって、疾走感のある曲がとても気持ちよかった。野外でWeather Reportを聴いたら、たぶんこんな感じになるのだろう。特に印象的だったのは最後の曲で、青春賛歌全開な感じでとても爽やかだった。こういう曲を聴くと涙腺が弱くなっていけない。音楽はいいなあと思った。 今度見る機会があったら、ぜひ"a remark you made"を演奏してほしい。

余はいかにしてMBA candidateとなりしか

金曜の夜、お高いホテルのお高いフロアにあるバーのプライベートスペースで、ビジネススクールの歓迎会が開かれる。15人ほどの参加。日本人と外国人が半々くらい。こういうところにくるといつもそうなのだが、だいたい少年だったころの自分との距離にめまいがしてくる。少なくとも中学校の頃の僕には、六本木のホテルのバーでワインを飲んでいる自分など露ほどにも想像できなかった。まあそれはそうと、卒業生や現役生、入学審査官ともゆっくり話すことができてなかなか楽しい時間であった。驚いたことに、今年については、日本人の合格者はこれまで僕だけだという。もしそのままだとしたら、勉強にはとてもよい環境なのだろうが、日本関係の質問には僕がすべて答えることになるだろうから、それはそれで厄介だなあと思う。

 

☆☆☆

 

今さらという感じではあるのだが、なぜ僕はMBAを目指そうと思ったのだろう?

 

教科書的な回答としては、「外資系のキャリアなので、プロモーションのための必要だったから」とか、「体系的な経営の知識を身につける必要を感じたから」とかいうことになるのだろうが、それらはすべて副次的な理由にすぎない。結局一言で言ってしまえば、「変化が欲しかった」ということになる。それは、生活の変化でもあり、意識の変化でもある。ごく当たり前の話だとは思うが、30代も中盤に入ってくると、ライフスタイルも考え方もかなりの度合いまで固定されてしまい、良くも悪くも自分の将来にある程度の見通しが利くようになってくる。要するに、仕事をして、子どもを育て、住宅ローンを払って、ボーナスと家族旅行をささやかな楽しみにする(しかない)生活が、まあだいたいは続くわけである。人はそれを幸せと呼ぶのかもしれない。でも僕は、そこに必然的について回るマンネリズムをどうしても肯定できなかった。少なくとも自分に対しては、だ。僕はもっと自分を鍛えたかったし、ビジネスの世界で、自分の中に眠っている鉱脈がまだあるのかを、より確かな実感を持って確かめてみたかった。世界中にだって、まだまだエキサイティングな機会が山ほどあるはずだ――何しろ、「この世はでっかい宝島」なのだから。その点、学校にもう一度行くというのは、自分の中にかすかに残っている若さゆえの行動であるとも言えるかもしれない。

 

あとは、自分を徹底的に追い込んでみたかったというのもある。仕事・勉強・子育てにリソースをめいっぱい割り振って、その中でしか見えないものもあるのではないか――というのが、ここでの僕の問題意識である。まあおそらく、僕はその中でよりシビアな優先順位のつけかたを学ぶのだろう。もっと言えば、いかに不必要なものを捨てていくか、ということを。

  

まあとりあえず、まずは問題なくクラスについていけるように、予習と英語の基礎力向上に励みたいところである。

 

☆☆☆

 

ここ数週間ほど、土日はほぼ一日中子どもたちと外遊びをしているということもあって、だいたいは一週間のうちで月曜がもっとも疲れている。というわけで、今日は朝一からリポビタンをあおって、気を抜くとすぐに寝てしまいそうな自分を奮い立たせて、なんとか一日を終えた。お世辞にも華やかな一日とはいえないし、生産性もあまり上がらなかったのだけれど、まあ罵られるようなこともなかったから、まずまずと言えるのかもしれない。でもそれじゃダメなんだよ。なにかもっと素晴らしいものがきっとあるはずなんだよ…というわけで僕はまた学校に行く。35だというのに、僕はまだずいぶんと中二病の気質を残しているみたいだ。

 

三宮を歩く

というわけで、神戸まで行ってお客様に謝罪と説明を行う。説明自体は滞りなく終えることができたのだけれど、やはりあまり納得はしてもらえなかったような印象である。こちらに落ち度があるのは100%明らかなので、もうそこは謝るしかないのだが、まあ不十分なりにベストは尽くしたと思う。MBA受験での面接のトレーニングで言われたとおり、信頼感を与えるための話し方として、コアストーリーをきちんと作りこんで、説明に矛盾が出ないようにするのは非常に重要である。今回、この点に関してはなかなかうまくやれたと思う。すべての説明を明快に、ゆっくりと話すこともできた。受験のときは英語でのトレーニングだったが、日本語の話し方にも影響が出るものなのだなと思った。

 

お客様訪問が終わったあとは、会社に報告の電話を入れてから、三宮駅の周りをぶらぶらとぶらつく。このエリアは綺麗な女の子がかなり目立つ。見た目が華やかな女の子の割合で言うと、恵比寿と比肩するくらいなのではないか。内田樹が神戸に来たのは、美人が多い都市を選んだだけじゃないのかなどと思わず邪推してしまう。まあそれはそうとして、三宮エリアは瀟洒な建物も多いし、人口密度も品川の20%くらいなので、なかなか歩いていて楽しい場所である。

 

夜は久しぶりに友人と会う。彼女と会うのも7年ぶりくらいである。女友達という枠にいる人に会えるのは、今の僕の日常の中にほとんど存在していないということもあって(皆家庭のことで忙しいから)、こういう時間は非常に貴重である。何しろ久しぶりなだけあって話すことには事欠かない。話していて改めて、女性のライフプランニングというか、仕事と家庭との折り合いをどこでつけるかというのは難しい問題だなあと考えさせられた。僕も周りでいろいろな例を見ているが、結局どのルートを選ぼうと、選ばなかった選択との葛藤と戦わねばならないからだ。その点、女性のミッドライフクライシスというのは確かに存在するのだろうし、パートナーがそれをうまく乗り切れるように、僕は何ができるかなあと考えてしまった。

 

☆☆☆

 

日曜は次女と二人で新宿に行く。彼女の靴を買って、それからぶらぶらと散歩でもしようという試みである。天下の伊勢丹のキッズフロアに行って14cmのスニーカーを見ると、値段は6,000円とある。ちょっと目を疑ってしまった。日銀のインフレターゲットとかいうレベルではない。Fair market valueからの乖離率は軽く100%を超えているのではないか。百貨店不況と言われて久しいけれども、こんな商売していたらそりゃ誰も買わないよなあと思ってしまった。まあ買い手としては、値段が質を担保しているものなのか、それとも卸売りの多重性(あるいは法外なマージン)によるものなのかを冷静に見極める必要があるということだろう。

 

結局靴は買わずに、ベビーカーを押して新宿御苑に行く。芝生の上で食べるサンドイッチはとても美味しい。次女はだだっ広い広場を小さな体をいっぱいに使って走り回っていた。子どもには緑がとてもよく似合う。園内は外国人がとても多く、いろいろな国の言葉が耳を楽しませてくれた。

 

蛇足ながら、新宿御苑内で売られているソフトクリームは380円するのだが、味にあまりプレミアム感はない。380円を出させるのであれば、牧場レベルのものを出してほしいというところだが、ここでは独占事業者なのでこのような強気の価格設定ができるのだろう。たぶんFair Market Valueは280円くらいなので、値段としてはだいたい100円のプレミアムが付加されている。市場の失敗の典型例である。

 

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以下は本ブログの最新記事ランキングである。本屋バブルもずいぶん落ち着いた一方で、女性の海外旅行に関する記事がずいぶん読まれていることがわかる。たぶん関心を持っている人がそれなりに多いテーマなのだろう。僕としても書きたいことはいろいろあるのだけれど、あまり満足に時間もとれないので、まあ細々とやっていこうと思う。

 

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35の夜 (reprise)

­­もう少し早く書きたかったのだけれど、いつものとおり日々の雑事に忙殺されてしまっていた。そうなると、夜にあまりPCを開こうという気になれなくなり、いきおいブログを書くということもなくなってしまう。まあ昼間10時間くらいPCを見ているのだから、そのほうが自然と言えば自然である。

 

そういえば、先日尾崎豊の映像を観ているときに、今の僕の状況は「35の夜」なんてふうに歌えそうだなと思ったら(「退屈な授業」を「退屈な会議」に変えるわけだ)、やはり同じようなことを考えた人がいたようである(以下のリンク先を参照)。でも「盗んだパンツ」というのはあまりリアリティがないような気がする。「盗む」というのは盗む対象が存在しているという点において少年的であり、35歳にはあまりそぐわないように思う。もう盗もうと思うようなものさえ、多くの35歳には存在していないのではないか――かといって満たされているというわけでもないのだろうけれど。

 

http://blog.livedoor.jp/n_mina/archives/1130662.html

 

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会社で席替えがあり、僕の四方がすべて女の人になった。座席表を見た瞬間、どぶろっくの「女女女」が頭から離れなくなってしまい苦笑してしまった。女性が多い会社なので、まあそんなに不思議なことでもないのだけれど、これはなかなかのプレッシャーだな…と思っていたら、働きはじめるとこれがなかなか心地よい。女の人が周りに多いと、それなりに紳士的に振舞おうという気になるので、なんというか業務中の生活態度にハリが出るのである。これは僕の個人的な傾向なのだろうが、女の人のほうが話しやすいという点もある。それにしても久しぶりに香水をつけて会社に行ってしまったりしていることを考えると、男というのは本質的にコドモでありバカなんだなあとしみじみ思う。

 

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久しぶりに『断片的なものの社会学』を風呂でぱらぱらと読む。『街の人生』もよかったけれど、個人的にはこちらのほうが好みだ。著者がおそらくはこれまでの人生で感じてきた痛みや矛盾と、対象に対する優しいまなざしが、そのまま文章の息づかいとして表れている。流麗な文章や卓越した比喩があるわけではないけれど、文体が素朴なぶんだけ、そこには人生の重みのようなものが感じられる。個人的には、「手のひらのスイッチ」が一番好きだ――というか読んでいて少し苦しくなってしまうのだけれど。僕はこれまでの人生で、どれだけのものを捨てて、どれだけの人を傷つけてきたんだろうな。文章を追いながら、そんな答えのない問いについて僕はしばらく思いをめぐらせていた。いい本だなあとしみじみ思う。

 

☆☆☆

 

今週は久しぶりの出張。お客様のところに謝罪と説明に行くということで、今説明のロジックをガチガチに作りこんでいるところである。それにしても、調整・説得・説明が仕事のうちで相当な比重を占めるようになったなあと思う。まあ35歳を生きるとはそういうことなのだろう。でもやはり、盗むようなものはもう存在していない。

SNSはなぜ孤独感を生むのか

旧い友人がこの春に一冊の本を出版し、僕がかつて属していた世界(思想村)はそのことでちょっとした盛り上がりを見せた。まあ哲学書の類と言っていいだろう。狭い世界なので、世間で話題になるというようなレベルではなかったけれど、少なくともその世界では、彼はちょっとした有名人になった。それを遠くから横目で見ていて、なんだか僕はその彼がずいぶんと遠くに行ってしまったような気がした。10年前にはよく二人で飲みに行っていたのになあ、と。

 

☆☆☆

 

SNSが孤独感の温床になるという現象については、すでに多くのウェブサイトで論じられているし、専門家による統計的な調査結果も多く報告されているので、その現象が実際に生じていることについて疑いの余地はないだろう。なにより僕も実際にそういう孤独感を体験したことがある――というかむしろそういう感情にさいなまれていたし、それが5年ほど前にSNSから足を洗った理由のひとつである。しかしながら、「なぜSNSの使用により孤独感が増すのか」という現象については、少なくともWebに上がっている記事で、僕に説得力のある説明をしてくれているものはこれまで存在していなかった(専門家による先行研究はしっかりと追っていないが、ブログなのでご容赦されたい)。そういうわけで、その理由について少し考えてみようというのがこの記事の主眼である。

 

ここでは分析の対象を「友だち」という関係に限定しよう。「恋人」という極めて複雑な関係についてなにかを述べるには、このスペースはあまりにささやかにすぎるように思われるからだ。

 

ある友人と関係を築いていくとき、通常その関係は一定のカテゴリの中に収斂する。高校時代からの友人だったら「高校の友だち」、テニスを一緒にする友人だったら「テニス仲間」というように。話す話題も、友人ごとにだいたい決まっているのが普通だろう。僕の場合、高校時代一緒にバンドをやっていた友人とは、今でもメタリカなんかの話をするし、サッカー仲間とはやはり今でもサッカーの話をする(ちなみに女の子についての話は誰とでもする)。要するに、現実の人間関係を築いていくときには、お互いにすべてを見せ合うというよりは、お互いの趣味の合う部分同士をすり寄せあう中で、互いを知っていくというのが一般的であるという話だ。少し哲学の文脈に近づけてみると、そうした関係性の構築過程においては、友人がこちらに見せている顔の一面性において、主体がかかる関係を一定のカテゴリの中に位置づけているという意味で、友人は主体に対する即自存在として表象されているといえる。ある意味では主体の暴力によって、友人は主体に対するその役割を決定されており、主体にとって友人の横顔や後ろ姿が問題になることはない。サルトルの文脈でいえば、一面性をベースとした友人関係という「本質が実存に先立」っているのである。意味は前もって与えられている(Pre-sens)のだ。バンド仲間はバンド仲間なのである。

 

ここでその友人とSNSで友人になった場合を想起してみよう。スクリーンを通して映される彼の姿は、なによりもその全方位性によって特徴づけられる。主体にとって「バンド仲間」であった彼は、同時に父親であり、ベンチャー企業の社長であり、この週末は熊本でボランティアをしている…。SNSが人を描くとき、程度の差はあれ、それは必然的にキュビズム的な要素を伴う。SNSに映された彼の姿は、原則的に360度に対して公開されているからである。これは、現実の友人関係が一点透視図法的な構図によって特徴づけられるのときわめて対照的だ。

 

では画面の中に映される友人の姿は、その彼が現実の世界に対してそう意味されるような、しかるべき姿として表象されるだろうか?答えはもちろん否である。SNSが映し出すのは、現実の彼の全体像ではなく、彼が世界に対して自分をそう認識させたいと欲望する像の全体像であり、したがって、その像には必然的に一定の虚飾が含まれる。ここではすでに友人の実存は問題ではない。サルトルの金言に倣えば、SNSにおいては、「欲望が本質に先立」っているのである。生きるために必要なものだとはいえ、欲望というのはお世辞にもあまり美しいものとはいえない。ましてそれが全方位的な目くばせのもとに欲望される欲望であるとすればなおさらである。

 

そして主体はSNSにおいて彼の友人であった人物を、いや、かかる友人の公開されたものとしての欲望を見る。欲望というものが現実の社会生活においてあらわになっていないことが、ますますそのいびつさを際立たせ、主体にとっての友人の像と、スクリーンに映し出されている友人の欲望との間に決定的なずれを引き起こす。主体にとっての「それは=かつて=あった」は棄却され、主体にとっての友人のシニフィエであるPre-sensは、友人のいびつな欲望によって「上書き保存」されることで、不在のものとなる。結局、SNSが表象するのは、友人の存在ではなく、その彼との現在における距離であり、彼の不在であり、そして主体の疎外である。それがおそらくは、SNSという世界の根本的な性質、限界であり、主体がそこに孤独感を覚えるのは必然なのである。

 

☆☆☆

 

冒頭の旧い友人が出したその本をやや粗めに一読し、彼にメールで感想を送る。「久しぶり、ありがとう!」との返事。なんだ、距離は10年前と何も変わっていないじゃないかと思った。「今度金沢で呑もうよ」と僕。

 

孤独感へのささやかな癒しと、しかるべき距離の回復。人間関係はこうでなくちゃな、と思った。

 

B’zの”calling”的な構成で書いてみた)