人生の快楽

急に寒くなったので、ココアをちびちびと飲みながら、キーボードを叩く。ブログを書くというのも、基本的には好きなことを好きなように書くだけではあるのだが、寒いとどうも文の切れのようなものも鈍る気がする。文とは然るに身体そのものなのである――なんて言ってみたくもなるけれど、実際のところどうなのだろう。実感としては当たっていると思うのだけれど、そうなると主体とエクリチュールを極力別のものとして扱おうとするバルトやらデリダやらの立場は、やはり現実にそぐわない衒学的立場ということになるのだろうか。

 

ちなみにルソーは主体のうちに自己を見出すのではなく、エクリチュールにこそ自己が宿ると考えていたようである。「むすんでひらいて」を娘と歌いながら、そんなことを思い出している。

 

☆☆☆

 

学校のプレコースが始まった。会計のテストは一発クリア(けっこうプレッシャーだった)。今はそれに加えて、Web上でプログラムの参加者が自己紹介をしているところなのだが、さすがに変な奴…というか、いろいろな国籍・バックグラウンドの人がいる。ハンガリー人とかペルー人なんかは、日本で仕事をしているとあまり関わることがないので、なかなか新鮮である。僕以外のもう一人の日本人男性は、もう自分でホテルを経営しているとのこと。こうなると、僕のような事業会社勤務というのはどうもインパクトにかけるきらいがあって、やはり「ああ独立したいなあ」と思うようになる。実際、ここ1ヶ月くらいの逡巡――頭の中だけだが――を経て、もういわゆる大企業での出世にまったく興味がなくなっていることもあって、真の意味で「どう身を立てればいいのか」というのが、自分の中で重要な命題になりつつある。まだ始まってもいないけれど、そういった問題意識を強く持つことができただけでも、MBAに投資した価値があるというものだろう。

 

☆☆☆

 

「人生の快楽」と銘打って、時間・富・倫理などの制約なしで、やりたいことをランダムに書き出してみる。

 

・年商100億円以上の法人をつくる(チャンジングだが、不可能ではなさそう)

・好みの女の子と好きなだけセックスする(罪悪感と後腐れがないのが前提だが、そんなことはありえないし、ROIは極めて低そう)

・『カラマーゾフの兄弟』に比肩する小説を書く(これは解脱しないと無理なのでは)

・”Secret story”を超えるアルバムを作る(これは解脱に加えて、また「マジで首吊る5秒前」レベルの失恋しないと無理)

・『人間の条件』を超える論文を書く(上記ふたつよりはハードル低そう。アーレントはなんというか、哲学者の中では、「手の届きそうなかわいい子」のようなイメージがある。ハイデガーなんかはもう雲の上感があるのだが、この人が美しかった若き日のアーレントとパコパコしまくっていたことを考えると、どうにもいろいろやりきれないものがある)

・肉体改造してトライアスロンに出る(この中では明らかに一番ハードル低い。超自己満)

 

だいたいこんなところである。これらを見ると、僕は苦労が伴わないものにあまり興味がないのだなあと思う。たぶん困難な課題を見つけて、それを克服していくというプロセスが好きなのだろう。まあそうじゃなかったらMBAなんか行かないよなあ。

 

☆☆☆

 

選挙で街はずいぶん騒がしくなっているが、あまりにプロレス的というか、筋書きが決まりすぎていて、正直呆れているところである。こんなのに何百億かよ…と思っているのは、たぶん僕だけではないだろう。まあ万が一自公が過半数割れなんてことになったら、日経平均の暴落は確実なので、ちょっとそれはそれで困るところである。とはいえ、株価もQEというモルヒネで吊り上げられているだけなのは明白なので、遅かれ早かれまた厳しい時期はやってくるだろう。残念だが、僕たちが生きている間に、日本経済の本当の復活などはありえない。いわば僕たちは撤退戦を戦うための準備をしなければならない時期なのだが、それを考えると、ますます選挙なんかやってる場合じゃないよなということになってしまう。どうしたもんかね。

内臓に問題があるかもしれないぞう

久しぶりに半日の自由時間を与えられる。髪を切り、ランニングでたっぷりと汗を流し、ワードローブを整理し、靴を30分かけて入念に磨く。そうこうしているうちにあっという間に日が暮れる。「16時半の恐怖」はあまり感じない。にんにく、たまねぎ、ピーマン、小松菜、にんじん、無塩せきのソーセージ、それにスパゲティを適当に絡めて、和風パスタを作る。こういう雑な料理は、こんなときでもないとなかなか作れない。

 

食後、コーヒーを片手に『あひる』の残りをゆっくりと読んでいると。グールドのop. 118-2に耳を奪われ、ふいに涙がこぼれる。なんという音楽なのだろう。バックハウスもポゴレリッチも素晴らしい録音を残しているが、グールドの描く世界は他の誰よりも圧倒的にセピア色である。そういえば、Youtubeにある同曲へのコメントで、”This song was the first song that ever made me cry for no reason"というものがあった。僕もまったく同感だ――いや、ひとつの点を除いて。涙が出るのは、決して”No reason”ではない。涙の対象となる過去が存在するからこそ、そこに感情が注がれるのだと思う。そんなことを考えながら床に就いた。

 

☆☆☆

 

本当はこの間買った大阪ソーダをもう少しホールドしようと思っていたのだが、株式併合によってずいぶんと下値リスクがちらついているので、今週どこかのタイミングで売ろうかと思っている。しかしながら、足元の株価はどこもかしこも高すぎて、お金の置き場に困っているというのが正直なところである。ダウなんか明らかにバブルの感があって、多くのエコノミストが予言しているように、この10月~来年にかけて、そろそろ大規模なクラッシュがあるのではないかという気がする。地震と同じで、いつかそれは必ず来るのだが(例えば1987年のように)、いつくるのか、何が引き金になるのかは誰もわからない。まあもしそれが起きたら起きたで、投資には絶好のチャンスなのだが、ジョブマーケットは尋常ではない冷え込みになるだろうから、なかなか悩ましいところである。

 

☆☆☆

 

健康診断の結果を受領する。

 

「視力が下がっています」…毎日アホみたいにPCばかり見ているので当然である。

「LDLコレステロールがやや高めです」…検査の2日前の串揚げのためだろうか。

便潜血内視鏡検査を受けてください」…???

 

と、いきなり内視鏡である。オリンパスである。「疑われる病気」のところを見ると、「大腸がん・大腸ポリープ・痔」とあって、これまたなかなかハードモードである。まあふつうだったら尻から血は出ないはずなので、なにかしら原因があるのだろう。

 

というわけで、学校開始一ヶ月前にして、内視鏡という一大イベントになってしまった。レディースクリニックでの精液検査も相当抵抗があったが、さすがに今回ほどではない。前者だとまだ若干エロティックな妄想(うまく出せないんですか?じゃあ私が手伝いますね…とかのアレ)もできて面白い部分があるのだが、尻にカメラを突っ込まれても、ヘテロセクシュアルの僕には何のうまみもない。まあ人生経験と思って受け入れるしかないのだろうが…。

 

☆☆☆

 

というわけで、グールドで情感たっぷりに始まったのに、秋の情緒どころではなくなってしまった。よくわかんないけど、とりあえずピースマークを送るぜ。この素晴らしい世界へ。

35歳と意味の解体

運動会の振り替え休日で娘が休みだったので、僕も代休をとって、二人で横浜に散歩をしに出かけた。僕にとっては第二の故郷ともいえる、大好きな街だ。東京から電車で30分くらいしか離れていないのに、風景も人もずいぶんと違うものだなと訪れるたびに思う。あいにくの曇り空ではあったけれど、みなとみらいの空気はいつもと変わらず心地よかった。都会的ではあるけれど、親密さを感じさせてくれる土地というのはずいぶんと少ないように思う。

 

☆☆☆

 

だいたいあと1~2年くらいで子育てのコアタイムが終わるな、と最近よく考える。子育ては3年ごとに楽になると言うが、だいたい僕の感覚も同じようなもので、3歳でずいぶん手がかからなくなり、6歳でけっこう放っておいても大丈夫になり、9歳で手が離れるというのが、だいたいの標準的な年数ではないかと思う。手間で言えばやはり3歳までが圧倒的に大変である。そして、だいたい僕が次の学位を取得するころには、その大変な時期が終わることになる。もちろん今後も、中学受験のサポートやら、思春期特有の不安定さやら、いろいろ面倒臭そうなことはあるのだろうが、少なくとも毎日寝かしつけに1時間かかるような生活はもうすぐ終わりがくるだろう。

 

それは僕にとって何を意味するのだろう。おそらくは、言い訳ができなくなることではないかと思う。子育てが忙しい、時間がとれない…とかの、よくあるエクスキューズができなくなるということだ。これから、ずっと僕が欲していた、「自分のための時間」は少しずつ自分に返ってくるだろう。そしてそれは、何かに還元されなければならない資源である。自分に時間という財が投資される以上は、そこから社会的に価値のある何かが生み出されなくてはならない。もちろん、それが実際に何なのか、今の僕にはよくわからないけれど。

 

おそらく難しいのは、何をするべきかという点から考えはじめなくてはならないという点である(HowではなくWhat)。これまでの35年では、多かれ少なかれ、選択肢は与えられていた。どこの学校に行くか、どこの会社に行くか、等々。それに対して、35歳以降の人生で、自分で何かをしようとすれば、そういった所与の選択肢はないものとして、自分のしたいこと・するべきことに真っ直ぐに向き合わなければならない(はずだ)。今さら果たしてそんなことが可能なのだろうか――僕自身、眉につばをつけたくなるような気持ちもあるが、人生のどこかで、そういった自分のパッションに向き合うというのは、必要な行為であるような気がする。

 

おそらく重要なのは、既存の意味を一度バラバラに解体することだろう。例えば、何も週5日会社に行くことが働くことじゃないんだ、とかそういうことだ。これはなかなか哲学的な所作と言えなくもないかもしれない。

 

☆☆☆

 

ずっと読みたかった今村夏子『あひる』を読む。カフカ的とでも言えばいいのだろうか、日常に潜む危うさがうまく描き出された佳作だった。もう少し恐怖の度合いが強いほうが個人的には好みなのだが、まあこのあたりは意見の分かれるところだろう。平易な文体でつづられる、日常の描写の中だからこそ成立する恐怖の感覚があるのだな、としみじみ思う。『こちらあみ子』も近々読んでみたい。

 

しかし今村という名前を聞くと、どうしてもカオサンの喧騒を連想してしまう。あまりにも個人的な話ではあるのだが。

 

☆☆☆

 

昨年大騒ぎになった、CO2からエタノールを生成するというのはどうやらデマではないようで、現在Stanfordにおいて、銅を触媒としたエタノール生成を実用化するための研究が行われているとのこと(以下リンク)。にわかには信じたいが、実用化されれば環境問題に対するこれ以上ない解決策になるだろう。おそらく凄まじい利権が絡むことになるのだろうが…。

 

https://www.sciencedaily.com/releases/2017/06/170619165409.htm

CNT 秋の陣

今年2回目のバリウムの日が終わると同時に、9月もまた終わろうとしている。まだ日中はいくぶん暑さが感じられるが、秋の本格的な訪れもすぐそこだ。ふたつの運動会と衆院選、そして一年間の学位取得プログラムの始まりと、10月も慌しく過ぎていきそうだ。おそらくあまりネガティヴなことを考えている時間もないだろうと思う。

 

☆☆☆

 

今年最大の勝負として、4046 大阪ソーダを100万円分ほど買う。もうこれは100%上がると踏んだためである。ベストシナリオとしては、カーボンナノチューブで飯島澄男氏が今年のノーベル物理学賞→EV用のリチウム電池需要による、カーボンナノチューブ需要が急拡大、というような流れだろうか。この流れだったら、間違いなく株価は上に突き抜けるだろう。うまく化けてくれたらジョンロブの内羽根でも買おう。

 

しかしながら、半導体やら素材やらのビジネスは、大枠の話はわかっても、サイエンス的にどうすごいのかというのが実感できないのが文系出身の悲しいところである。ここに関しては、高校時代にまったくマトモに勉強しなかったことが悔やまれる部分である。バイオ系のベンチャーキャピタルの人に、「うちはサイエンス出身の人じゃなくても大丈夫ですよ」と言われたことがあるけれど、そりゃわかったようが絶対いいよなあと思う。

 

☆☆☆

 

外資系、もっと言えば外資系ヘルスケアのファイナンスというのは、なかなかおいしい、というか既得権益めいたところがあって、労働負荷に対する報酬で言えば相当に高い部類に属する。だいたい大手のCFOクラスだと、報酬も最低で2,000~3,000万円クラスで、まあ一般的に言えばまず申し分ないレヴェルである。もちろんスタッフ・マネージャクラスの報酬も高いので、みんななかなか転職しない。

 

一方で最近気になるのは、いわゆる外資系のファイナンスだと、まず経験できない分野の仕事があることである。典型的なのが資金調達関連業務で、外資系の会社で日本オフィスにこの権限を持たせているところはほぼ存在しない。一方で、ベンチャーなんかだと、この部分がうまく回せないと会社が潰れてしまうので、嫌でも向き合わなければならない。たぶん税務やIRなんかについても、平均的には、外資CFOの経験者よりはベンチャーCFO経験者のほうが経験値は高いだろう。が、後者のほうが報酬水準は絶対的に低い。

 

このあたりは自分のキャリアとしても非常に悩むところで、単純に言ってしまえば、目の前の報酬の高さを目指すのか、それとも人材としての完成とIPOの夢を追うのかという二択になるわけである。もちろん、双方にpros and consがあり、簡単に答えが出るような問題ではない。まあこのあたりは1年間ビジネススクールに通いながらゆっくり考えたいところである。

 

ちなみに、読者に以下の単語の意味をすべて理解できる人はいるだろうか。たぶん理解できるのは、外資系のファイナンスで業務経験がある人くらいではないかと思う。

 

True-up, Go-to-Market, Fire drill

 

☆☆☆

 

これからファイナンスと英語の勉強。いつになったらゆっくり哲学書が読めるのだろう。四季報アリストテレスを並べて読んでいる人というのは、正直僕もあまりイメージができないのだが、自分自身がそうであるというのはなかなか滑稽である。

英字新聞はどれを読めばいいのか

英語の/による学習や情報収集のために、何を読んだらいいのかということを時々訊かれるのだけど、これの質問に正直に答えると「何でもいいんじゃない?」ということになってしまう。だいたいそういう質問をする人は、どの媒体が云々とかいう話以前に、根本的な学習量が不足している場合が多いからである。とはいえ、それだけだと実もフタもなくなってしまうし、僕自身、最近また定期購読する媒体を選んでいるところでもあるので、英語のクオリティ・ペーパーについて整理したものを以下に記す(個人的な偏見が多分に混じっているので注意されたい)。

 

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いきなり結論から入ってしまうと、とりあえずEconomistを読んでおけばOKということになってしまう。記事がカバーしているジャンルも広いし、掲示板での議論も非常に活発で面白い。ビジネス関係でも、「Economistさえ読んどけば、とりあえずセーフ」というような感じさえある。問題は、英文が硬く晦渋なので、長く読んでいるとどうにも疲れてしまうことである。お金を払って読む価値のあるものだとは思うけれど、ちょっと毎日読むと胃がもたれてくるようなところがある。それと、EconomistによるMBAランキングには相当の瑕疵があるような気がする。

 

価格に着目すると、まず目を引くのがTimeの安さである。一ヶ月500円でプリント版も着いてくるので、これはまあ相当安い。たぶん月4回送られてくるのだろうが、問題はとてもそんな量は読みきれないということである。業務が多忙になってくると、英字紙を読むどころか、天気予報とyahooニュースしか見ないという情けない状態にすぐなってしまうくらいなので、ちょっとそんなに宅配されても辛いんではないかという気がする。そもそもタイムリーに受け取れるのかさえ怪しい。

 

もう少し価格を見てみると、JTと日経の値段の高さが目立つ。この高さの理由はよくわからないのだけれど、まあ一度ダンピングをしてしまったら、もう顧客はお金を払ってくれなくなるだろうから、価格戦略としては概ね正しいのではないかという気がする。ちなみに、Japan timesについては、僕は毎週日曜日に発行されるJapan times on Sundayが好きなのだけれど、最近あまり置いている店がなく残念である。STはよく見るのだけれど、このあたりは日本人の平均的な英語能力を反映しているのだろう。

 

ちなみに、日・英に加えて、フランス語の高級紙もL’ObsだとかL’Expressだとかいろいろあって面白いのだけれど、日本で仕事をしているととてもそこまで読んではいられない。このあたりは日常的にフランスに関わる、あるいはフランス語を使用している人でないと、なかなか手が回らないだろう。僕は哲学の世界では、ほぼ100%大陸式で育ったけれど、ジャーナリズムについては最近英米系一辺倒である。どちらがいいとかいう話ではないのだが。

 

しかしながら、ここ20年くらいで、人類の目にかかる負担というのはとんでもなく大きくなっているのではないか。人間はせっかく5種類も感覚があるのに、なぜ目への負担だけが突出して大きくなってしまっているのだろう?効率性を追い求めた結果なのだろうか。個人的には鼻あたりにもう少しがんばってほしいと思うのだが。

 

少し話が脱線したが、まとめると、日本人の国際志向ビジネスパーソンであれば、日経+Economistが王道なのではないかと思う。ただし、ランニングコストが月々7,500円くらいかかってしまうので、ROIを重視するようであれば、日経+Timeというのもいいかもしれない。

タイフーン

三連休の真ん中の日曜日。西日本ほどではないにせよ、都内も天気が悪く、なんだか無為な一日を過ごしてしまった。何しろこういう日だと、子どもの遊びの種類が限られたものになってしまうため、彼女たちのストレスもだんだんたまってきて、その解消だけでもずいぶんとエネルギーをとられてしまう(おままごとやら、絵本読みやらに延々つきあうわけだ)。それでも、夕方に小一時間ほど時間がとれたので、なんとかジムに行く時間くらいは確保することができた。20分ほどランニングしたら、体中のもやもや感がいくぶん和らいだような気がした。

 

☆☆

 

いろいろなところで話題になっているが、WantedlyIPOがなんだかいろいろと凄まじい。上場決定→DMCA申請→当然炎上→株価暴騰(PER7,000という戦闘力的インフレ)→CEO上場会見キャンセルという意味不明な流れになっている。しかも、会見のキャンセルはCEOの「都合がつかなかったため」であるという。創業者による上場会見より重要なことなんて何があるんだよと、さすがにここは部外者でも突っ込みを入れたくなってくる。

 

かの社をめぐる議論(というか、ネガティヴな評判)はWebのいろいろなところですでに行われているのでここでは特に触れないが、個人的に気になるのが、仲CEOの顔である(だいたいどこでも人の顔ばかり見ている)。当然手腕は敏腕だろうし、まったく個人的な恨みもないのだが、どうにも彼女からは重み――一般に経営者から感じられるようなそれ――のようなものが伝わってこないのだ。まだ32歳の女性だから当たり前といえば当たり前なのだが、人の人生を預かることの重みや、人生の機微、どうにもならなさを抱え込んだことはおそらくないのだろうなと、彼女の顔を見ていると思ってしまう。そしておそらく、少なくない数の個人投資家が、僕と似たような感想を持つのではないか。

 

ともあれ、この上場にはいろいろ問題があると思うけれど、そういうものが許容されてしまう、今の新規株式公開のルール自体にいろいろ問題があるのだろうと思う。また実務の中でも証券取引というのものがどうあるべきかを僕なりに整理しておく必要がある、そんなことを考えさせられた一件である。

 

☆☆☆

 

紀尾井町シベリウスの2番を聴く。よく演奏されるレパートリーではあるけれど、オケを聴くのは初めてである。最前列のほう­で聴いていたので、フルートの音がよく聴こえて気持ちよかったのだが、残念ながら、どうにも曲の世界に入りこめなかった。第2楽章を聴いているときなんか、暖房の入らないオフィスで延々とエクセルと格闘している自分を想像してしまって疲れてしまったくらいである。それでも第3楽章終盤~第4楽章はなかなか聴かせた。あまり聴きこんだことのない曲なので、またぜひ別のオケで聴いてみたい。

 

☆☆☆

 

「結局さ、組織を大きくするために、女の視点なんか邪魔なんだよ」、学生時代の友人(女性)が言う。「細かいところが気になりすぎるから」。

 

僕はそれを聞いて何も言わない――というか何も言えない。それの是非を判断できるほどの経験を僕はまだ持っていないし、何を言っても不正解であるような気がするからだ。それでも、社会人生活が10年を超える女性が、女性一般に対してそうしたレッテルを貼ってしまっていることの意味は重い。当然ながら、フェミニズムの観点からすれば一発退場モノの言説だろう。もちろん多数決が正しいというわけではないけれど、この彼女の意見は多くの女性にとって支持されるものなのだろうか。

 

それはそうと、この彼女に「君は15年前よりずっと素敵に見える」と言ったら、なんだか照れていて可愛かった。こういう台詞を吐いてしまうのは、たぶん村上春樹を読みすぎたからだと思う。

 

☆☆☆

 

どうも今年は雨が多い。明日は晴れてくれるといいのだが。

「バリバリ働く」という幻想

「バリバリ働く」というのは、おそらく日本語として公正妥当として認められたコロケーションであるように思われる。しかしながら、残念なことに僕は、「バリバリ働いているね」とかそういうことは言われたことがないし(ヘロヘロになるまで、とかはよく言われる)、まわりで「バリバリ働」いている人と言われても、そのイメージに合致する人はあまり見当たらない。戦略コンサルを生業としている友人のことなんかを考えても、「バリバリ」というよりは、「一心不乱」というような言葉のほうがニュアンスとしては近いような気がする。

 

おそらくその理由は、「バリバリ」という言葉が一定の犠牲を含意しているからではないかと思う。どうも僕には、この言葉が「プライベートを省みずに働く」とか、「子どもとの時間を犠牲にして働く」とかいうような、ネガティヴな意味を含んでいるように思えてならないのである。太平洋戦争なんかの例を持ち出すまでもなく、日本人は犠牲の構造が大好きである。犠牲は美化され­、個人の生き方を尊重させようとする時代の気分もあいまって、「バリバリ」は社会的に肯定される。どちらかというと、この言葉は女性が用いることが多いような気がするが、そのことは、相対的に女性のほうが労働という行為に際して犠牲を強いられているという事実と決して無関係ではないだろう。

 

少し話が脱線するが、ここ数年僕が気になっている人として、株式会社ビザスク代表の端羽英子さんがいる。なぜ気になるかと言われれば単純で、この人の顔が好きだからである。率直に言ってとても素敵な顔をしている。なんというか、地に足を着けて悩んで、現実的に、真摯に人と向きあってきた――話したこともないので、もちろん想像するしかないのだが――のが一目でわかる、そんな顔をしている。とても魅力的だ。そして僕には、この人の顔には「バリバリ」という形容詞は極めて似つかわしくないように感じられる。Goldman→あなたにはその価値(以下略)→MIT→投資ファンド→アントレという、おそらくは人が羨むようなキャリアを経てきたにもかかわらず、である。なぜなのだろう?

 

それはおそらく、彼女が何かを犠牲に働いているわけではない(ように見える)からではないかと思う。彼女の顔から伝わってくるのは、日々の仕事、従業員との関わり、家族との日常のそれぞれを、バランスをとりながら楽しんでいる一人の女性の姿だ。持続可能性と言ってもいいかもしれない。結局バランスを欠いた生き方は長続きするものではないし、経済成長が全てではないこの時代に、限られたリソースを仕事だけにつぎ込んでしまうのは、人生のポートフォリオとしてちょっとリスクが高すぎるのではないかという気がする。

 

ともあれ、「バリバリ」もいいけれど、やっぱりトータルで幸せになるにはバランスが必要ではないのか、という話である。もちろん万人が納得する人生の効率的フロンティアなんて存在するはずがないので、そのあたりの配分は一人一人悩みながら試行錯誤するしかないのだと思う。男性であろうと、女性であろうと。

 

ちなみに僕の人生のポートフォリオには「哲学」というなかなかエッジの利いた不良債権がある。「人生の意味が定期的にわからなくなる」という優待特典付き。皆さんもおひとついかがでしょう。