Linkedinの功罪について

前々からLinkedinについてはいろいろ思うところがあり、一筆書いてみたいと思ってみたいとは思っていた。今回、ちょうどUSで同社が訴えられたという記事が出たので(Linkedinのアプリが、iOSのデータを読み取って転用しているのではないかというのが訴えの内容)、ここでひとつ考えているところをまとめてみたい。

 

まず上記の訴えについては、正直なところ「今さら」という思いが強い。というのも、Linkedinの”People you may know”は、個人的な経験としても、これまで不自然なほどに正確であったし、僕の経歴をどう辿ったらこのsuggestionにたどり着くのだ?というようなケースにこれまで何度も出くわしてきたからである。例えば、同サイトで使っているのとは別のフリーアドレスから、一度メールを交換しただけの人や、仕事関係で一度だけ会っただけの人がサジェストされるケースは枚挙に暇がない。どういう仕組みやアルゴリズムがそれを可能にしているかは僕の知るところではないけれども、Linkedinがメールやチャットの履歴、Google/Yahooなどの検索履歴をなんらかの方法で手に入れて、それを同ツールの最適化に使用していることは、すでに数年前から公然の秘密なのだろうと思っていた。実際、同じような指摘をしている記事が2013年に書かれているし、1年半ほど前にはGDPR違反との記事も出ていたので、少なくとも黒に近いグレーゾーンであったのは衆目の一致するところではないかと思う(注: どちらの記事についても、信憑性を100%保証することはできかねるので留意されたい)。ちなみに、Google検索がおそらく流用されていることに感づいてから、僕は極力検索にduckduckgoを利用するようにしているが、それがLinkedinの個人情報収集に対するストッパーになっているのかどうかは不明である。

 

ちなみに、僕の観測範囲で判明している現象として、LinkedinはPeople you may knowと思われる名前をアナグラムのように入れ替えてサジェストするという機能があるようである。例えば、仕事でよくやり取りする相手で、「スギタ ユキ」さんという人と、「タカヒラ ケンジ」さんという人がいる場合、People you may knowとして、「スギタ ユキ」さんと「タカヒラ ケンジ」さんに加えて、「スジタ ケンイチ」さんがおすすめに上がってくるという具合である(しかも、「スギタ ユキ」さんと「タカヒラ ケンジ」さんのどちらも、Linkedin上のつながりはないにもかかわらず、である) 。おそらく機械学習やあいまい検索を組み合わせて実装しているのだろうが、正直気持ち悪いことのこの上ない。少なくとも僕が知る限りFacebookにもTwitterにも同じような機能はないはずなので、LinkedinがThe Creepiest Social Networkと呼ばれるのもむべなるかなと言う気がする。

 

一方で、そんなことを言いつつもLinkedinの持つメリットは非常に大きい。特に、プロフェッショナルネットワークに絞った人間関係をゆるく維持できるのは、外資系に勤める身として本当に役に立っている。実際、僕が現職の募集に気づくことができたのも、Linkedinで前々職の同僚(というのはちょっと気が引ける偉い人なのだが…)に声をかけてもらったからであった。35~40歳あたりからの転職だと、公募というよりは、知り合いのツテを辿って、、、というケースが多くなるので(特に西海岸系のIT企業はこれが顕著)、求職者・採用者側の両方にとって、とてもメリットの大きいプラットフォームであると思う(後者については、リファーラルをした場合に、ボーナスが出るケースが多いという点も付記しておく)。無駄なプライベートの話が出てこないので、過度に時間をとられることがないという点も好ましい。ちなみに、僕が通っていたビジネススクールでは、キャリア形成の授業で、「どのようにLinkedinを使うか」というトピックがあり、自己紹介文や職務経歴欄の書き方について、みっちりルールの解説があった。曰く、「Linkedin上に存在していないのであれば、プロフェッショナルの世界に存在していないも当然です」、とのこと。もちろん日本ではそこまでのことはないけれども、海外ではそれくらいに重要なプラットフォームであるということである。

 

というわけで、いろいろ問題があるのはわかりつつも、ひとまずLinkedinは使いつづけるつもり。その一方で、今回のUSでの裁判の行方は、個人情報保護の観点でも興味深いので、引き続き状況を追っていきたいと思っている。

 

なんにせよ、平日は仕事でPCを見てばかりなので、週末くらいはLinkedin含め、そういうものあまり見ないようにしたい(といいつつ、このブログを書いているのだけれど…)。長く会っていない友人に、久しぶりに手紙を書いてみようかと思う、大雨の夜。

「したいこと」と「するべきこと」――40代以降の人生のために

ずっと時間不足を言い訳にして、ボリュームのある記事を書いていなかったのだが、仕事が少し落ち着いたこのタイミングで、ここ最近考えていたことを一度まとめてみたい。

 

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人生という有限の時間の中で、するべきことをすべきなのか、したいことをするべきなのかという古色蒼然とした問いについて、ここ最近、僕はことあるごとに思いを巡らせてきた。いや、より正確に言えばここ10年くらいの間、ずっと考えていると言えるかもしれない。ソクラテスの時代から連綿と続く哲学の系譜においても、幾多の巨人たちがこの根源的な問いに立ち向かい、それぞれが不完全な形ながらも回答を提出してきた。それを体系的に詳述するだけでも、おそらく何冊かの本が書けてしまうのだろうが――カントだけでたぶん3冊くらいは書ける――、本スペースは別にアカデミックなものを意図したものではないので、現時点で僕が考えていることに絞って記載してみたい。

 

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問いを考えるにあたって、まず10代・20代の頃の自分が何によって突き動かされていたかを考えることから始めよう。結論から言ってしまえば、それは圧倒的に「したいこと」であった。今という時点からするといささか信じられなくもあるのだが、例えば高校時代はギターを一日中弾いているだけでそれなりに幸せな気分になることができたし、そのことは、学校を中心としたコミュニティで、僕に一定のポジションを確保することを可能にしてくれた。いくつかのリーダーシップポジションを担っていたという点において、一定の義務の要素はあったものの、リソース配分という点では、圧倒的に「したいこと」に重きを置いていたといえる。それから学部、大学院から就職と、一定の人生のレールの上を辿ってきたのだけれど、やや乱暴にまとめてしまえば、やはり就職までは「やりたいこと」が自分の中心にあったと言っていいだろう。もろろん、今という時点から見れば、その多くは「他者の欲望」に対する模倣の欲求に過ぎなかったのだろうとは思うのだが。

 

そして、おそらくは多くの人と同じように、就職といういうイベントを境にして、人生におけるプライオリティの比重が変化しはじめる。就職活動という日本独特の社会的イニシエーションにおいては、「やりたいこと」に対する神話が未だに蔓延しているように思われるが、そのほとんどは巧妙なマーケティングによって、自分が欲求していると思われるものを選ばされているに過ぎない。あくまで個人的な見解ではあるが、自分の「したいこと」を本当に理解するには、おそらく22歳という年齢は若すぎるのだ。ともあれ、社会人としての出発を機にして、多くの人は「やりたいこと」から「すべきこと」――つまり所属する組織において与えられた任務――に人生のリソースを少しずつ移していく。ただし、この段階ではまた「やりたいこと」――自分がそうであると考えているもの――にある程度リソースを割けているケースが多い。社会人1~3年目くらいだと、業務負荷もある程度コントロールされているケースが多いし、家庭を持っていない人がほとんどなので、ある程度自由に時間を使うことができるためである。

 

少し脱線するが、話の流れをわかりやすくするために、ここでひとつモデルを導入しよう(以下図1参照)。4象限のモデルで、縦軸でするべきであること、するべきこと以外のことを分類し(should軸)、横軸ではしたいことと特にしたくはないことを分類している(want軸)[1]。象限(1)はwant/shouldが同時に満たせている状態である一方で、象限(2)ではしたいことはできているが、それは特に社会的にそうすることが求められていない(=社会的にニーズがない)ことであることを示す。(3)は社会的にニーズはあるが、当人が特に希望するものではないという状態、(4)は本人がやりたいことをしているわけでもないし、社会的ニーズもないという状態である。前述した20代前半くらいまでと後半にかけて、多くの人の間では象限(1)(2)から(3)への移動が徐々に起こっていく。もちろん、中には(1)の領域に深く入っていける幸福な人もいるのだろうが、よく言われる新卒者の離職率(3年で32%[2])などを考慮に言えると、それは極めて稀か、少なくとも当人がコントロールすることのできない要素であると思われる。

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図1

より変化が大きいのは、結婚・子育てが入ってくる次のフェーズである(図2参照)[3]古今東西語りつくされていることではあるが、これらの二要素が個人生活に与える影響は誠に甚だしく、多くの人の人生は急速に「するべきこと」の重力に引き寄せられていく。親戚回り、挙式、妊活、出産、子育て、マイホーム購入、…このフェーズに入ると、とにかく次々とやってくるライフイベントに対して適切に対応していくだけでも、相当なリソースが必要になり、多くの人は、ドラスティックなパラダイム・シフトを経験することになる。僕自身、当時の率直な実感として、「ここからが大人としての人生の始まりなのだろう」という漠とした実感があったし、同時に自分という存在の枠みたいなものが消失していくような感覚になったのもこの頃である。周りのサンプルケースを見ると、28~35歳くらいがこの時期に当たるケースが多かったように思う。人によっては、この時期にMBA受験・留学などのextra eventが入ってくるため、その場合はカオス度がもう一段階上昇する(僕はこのケースであった[4])。その頃からすでに数年が経っているわけだが、自分自身のことを考えると、僕自身もまだこの象限(3)にいるのだと思う。これはどういうことだろうか?子育てが落ち着いてきた分の余剰の時間とリソースを、有効に使えば(1)(2)の世界に戻ることは難しいことでないのではないか?

 

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図2

しかし、これがそれほど簡単ではないことは、賢明な読者であればすでにお気づきだろう。理由は二つ。ひとつめの理由は、10年前後に渡る象限(3)の世界での暮らしによって、自分の中のWantがそもそも変質してしまっている、あるいは自分のWantそのものがわからなくなるケースが多いためである。僕自身この傾向は強く、時々業務負荷が軽い時期の空き時間に、小説や哲学書を読んだり、映画を見たりしても、いまいち昔の頃のように楽しめなかったり、感情移入ができなかったりする。様々な経験を経た結果、感性が20代の頃から変わってきたということなのだろう。もうひとつの理由は、象限(3)の生活に慣れてしまって、「すべきこと」を優先するという規範を内面化してしまったために、それ以外の価値観に対する柔軟性が失われ、(3)から動けなくなってしまうためである。これは、長く引きこもっているうちに、外に出るのがおっくうになり、外部とのコミュニケーションができなくなったような人を想起するとわかりやすい(僕自身、3か月以上自宅勤務で家に引きこもっているので、笑えない話ではあるのだが)。僕としても、そのような人の行動にはある程度の合理性があると認めざるを得ないというのは事実だ。この象限においては、自分で自発的に考えることを放棄してもある程度の社会的承認が得られるという点において、相対的にROIは高いからである(例えば、「会社の言うことだけやっていれば、まあそれなりにOK」、というような状態だ)。けれども、この象限に留まり続けるということは、自分の意思を人生に投影することなく、人生を収束させていくということを意味する。少なくとも僕は、一人の人間としてそれを積極的に受け入れるつもりはない。

 

だとすれば、向かうべき先は当然象限(1)の、「したいこと」と「すべきこと」の両方が満たされる世界である。ではそこに向かうためにどうすればよいのか、という点に回答するのが本稿の着地点となる。

 

採ることのできるルートは3種類である。ひとつめ(図3の①)は、象限(3)から(1)への移行を狙うアプローチだ。典型的なルートとしては、現職で行っている業務をベースに独立・開業を狙い、自分が社会的意義を確信できるコミュニティに対して、専門的知識を提供するようなケースがこれにあたる。ふたつめは(図3の②)、20代前半以前の世界、つまり象限(2)から(1)への移行を狙うパターンである。これは例えば、語学が好きで、学生時代はドイツ文学を専攻していたような人が、改めて純文学領域の翻訳で身を立てようとしているようなケースを想定するとわかりやすいだろう。三つめのアプローチ(③、図3内記載なし)は、象限(1)の領域を新規に立ち上げるという場合である(例:40歳のサラリーマン男性が思い立ってソムリエとして身を立てようとするようなケース)。これら3つのアプローチをリスクが低い順に並べると、①→②→③となる。①は、現在の業務で行っている領域であるため、一定の顧客基盤さえ確保できれば、事業として成立する可能性が高いのに対し、②や③は趣味に等しい領域を、プロとして金銭的価値に交換可能なレベルにまで高める必要があるからである。一方で、成功した場合のリターンは②や③のほうが大きい場合が大きいだろう。①の場合は、これまで会社内で行っていた業務の延長にあたるため、労働集約的になり、スケールに限界があるケースが多いと思われるためだ。これらのルートのそれぞれに、どうリソースを配分するかは、人それぞれの判断になるだろう。僕としては、①と②・③に余剰リソースの70%/30%程度のリソースを割くというアプローチを採りたい(株と債券のバランスみたいだ)。とは言ったものの、僕がこれからの人生において、真の意味での成功を求めるのであれば、どこかでリスクを最大限にとって、何かの一要素にfull betをすることが必要になるだろう。そして、いつか来るその時のために、僕は、いや人は、それぞれの武器を毎日磨かなければならないのである。

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図3

最後に、40代が視界に入ってきた昨今、僕の周りでもセカンドキャリアについて語り始めたり、副業を始めたり独立したりする人が急速に増えてきている。グラットンがLife Shiftで描いた世界が、僕にとって身近なレベルでも急速に実現しつつあるのだ。その点、「すべきこと」から「したいこと」への移行は世代を超えた問題系として問われるべきだろうし、40歳前後という年齢はそれを考えるのに最適な時期ではないかと思う。僕は今回、自分の考えを整理するためにこの小文を書いたが、本稿が同じような問題意識を持つ人に一定の視座を与えることができるのであれば、僕にとってはまたとない喜びである。

 

経営戦略の分野において、自社が市場に対して、何をどうやって売っていくかというオペレーティング・プランをGo-to-marketと呼ぶ。経営計画策定の最もコアな部分のひとつである。個人の人生というレベルにおいては、このプランは30代までは一定のレベルまで他者――例えば、親や社会――から与えられる一方で、40代以降の人生においてのそれは、完全に個々人の裁量と責任に委ねられる。あなたのGo-to-marketを考えられるのはあなたしかいない。台本を書くのも、その主役を演じるのも、あなた以外の誰にも成しえないのである。

 

[1] わかる人には自明だろうが、アンゾフ・マトリクスをベースにしたものであることを付記しておく。

[2] https://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/0000177553_00002.html

[3] 念のため触れておくと、本稿は結婚制度の是非を問うものではない。

[4] 当時の自分の日記を読み返したら、「毎日がマリオ2の8-3のようである」という一文があった。なかなかよくできた比喩だと思う。

塵労

相変わらず毎日2時まで働いていてとても疲れている。ちょっとこのブログで長めの記事にしたいテーマが2、3見つかったのだけれど、まとまった時間がとれていないためにまったく書けていない。グローバルのCEOからの宿題をやっているということもあって(日本の社長の下請けをしているわけだ)、僕個人のワークライフバランスなど誰も考えていないのである。

 

そんなふうにハードに働いているとは言っても、結局部屋の中でパチパチとキーボードを叩いているだけであって、客観的に見たら引きこもりもいいところである。そんな内向的な生活をしているせいか、はたまた生ぬるいような暑さのせいか、また近ごろ心の痛みをよく感じるようになってきた。過去の恋の痛みを、思い出ではなく、未だにそれそのものとして反芻し続けているのである。手前味噌な話だが、ここまでくると我ながらこれは才能の一種と呼んでもいいのではないかという気がする。まあ例によって誰も褒めてはくれないのだろうが。

 

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先週末は久しぶりに友達と飲みに行った。このくらいの歳になると、友達というカテゴリの人たちに会うときは、いつも年単位のブランクがあるのが普通になってしまう。でもやっぱり距離は変わらなくて、相変わらずスラムダンクの話をしている(なぜ俺はあんなムダな時間を…)。それがどれだけ素晴らしいことなのかというのは、この歳になるまでわからなかったことのひとつである。

 

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ド定番だが、宇多田ヒカル”First Love”、2018年のライブ。大サビの”I’ll remember to love ‘cause you taught me how”が泣かす。この映像の彼女、とても品があってセクシーで好きだ。

 


宇多田ヒカル 「First Love」 Hikaru Utada Laughter in the Dark Tour 2018

Rainy Weekend (or Sunday night with Sarah Vaughan)

I don’t  have any specific reasons, but I just feel like writing an article in English. This is partly because I took a day off last Friday - only three days made me miss the foreign language. This probably explains how I had been immersed into the flood of English, while being at home for three months. Sounds like a story in a 22th century.

Given three days off, I wanted to go on a one-day excursion somewhere in countryside. It was mostly rainy over this weekend though. So I ended up looking after my daughters, reading some books (including a book about midlife crisis - lol), checking the company’s email and so forth. An usual weekend in a nutshell. I almost got accustomed to spending such a colorless weekend in the past three months. People may call it an “improvement,” but this is only a decadence to me (who’s recalling Extreme?) Three holidays would be probably not sufficient as a game changer; I would probably need at least two weeks to explore deep inside of my inner core since it is hidden even to myself.

Anyway, I will need to kick off my routine from tomorrow and keep the momentum until summer break begins. Not sure if I need to stay at home until then. Can’t wait going in a hot spring in the summer!

自宅待機型社畜

寝ても覚めても英語を書いてばかりで、疲れ果てている。相変わらず自宅で毎日2時(昨日は3時…)まで働いていて、引きこもりもいいところである。こういう環境だと、夜22時とかに、「明日の10時までに資料直しておいてね(膨大)」って言われることってけっこう多いのだけれど、これって労務管理的にどうなのだろう。まあ厳密に言えばNGだろうな。僕は僕でもっと人に仕事振りたいのだけど、手戻りのリスクが高いので躊躇してしまう。

 

というわけでワードの世界に戻る。緊急事態も一旦解除されたことだし、ゆっくり温泉に行きたい。というか、たまにはマトモな時間に寝たい。

オレンジの魔法

相変わらず引きこもっているのだが、ワークロードは一向に減らない。何が悲しくて自宅で2時まで働かなくてはいかんのだと毎日思ってはいるのだが、如何ともし難い。「テレワークで過労死」とか、どっかの新聞の見出しでありそうだけど、本当に笑えない状況である。おまけに15時を過ぎると、自宅の上のほうを飛行機がビュンビュン飛んでいて大変にうるさいのがけっこうなストレスになっている。良くも悪くも、僕は政治が決定したことに文句を言うことは少ないほうだと思うのだが、これは本当になんとかしてくれよと思ってしまう。スキャンダルやら袖の下やらはどうでもいいから、まずは飛行機をなんとかしてくれ、と。

 

そんな中、日常で唯一の癒しとなっているのが街を歩くことである。いま少し時間がとれるのは、子どもたちが寝室に行ったあと、夜勤を始めるまでの21:30~23:00の間くらいなので、だいたいその時間を利用して自宅の周りをウロウロと歩いている。そう書いてしまうとなんというか犯罪予備軍か変質者みたいなのだが、当人としては人畜無害にただ歩いているだけなので、文句を言われても困ってしまう。昨日は24時前のほとんど誰もいない戸越銀座商店街をゆっくりと歩いてきたのだけれど、寝静まった商店街全体が街灯のオレンジ一色に染まっていて、まるでどこにもない幻の街のようだった。自宅からほど近い距離なのに、ずっと遠くの国にまで旅行にきたような、そんな気がした。昔、アーメルスフォールトの夜の旧市街を歩いたときも同じように感じたことを思い出す。オレンジという色が織りなす魔法なのかもしれない。

 

「新しい生活様式」…おそらく20年後の教科書か資料集に太字で載るであろう、この耳慣れない言葉は、僕の生活をも確実に侵食しつつある。おそらく、突然のパラダイムシフトにいささかの戸惑いを覚えているのは、僕だけではないだろう。小野田寛郎はそれを受け入れることなく、地球の裏側に移住することを選んだ。僕はこの先3年で、どのような決断を下すのだろう。

湾岸まで歩く

木・金は通常どおり働いていたのだが、あくまで休みの中のと「登校日」のような位置づけであり、明日からがまた通常のリズムに戻ることになる。自宅勤務という状況ではあるし、それに入ってしまえばどうということもないのだが、フル5日間連続勤務は久しぶりなので、若干憂鬱な夜である。昨年の10連休の後は、会社に行きたくて仕方なかったという記憶があるのだが、この心持ちの違いは何なのだろう。おそらくは、①下の子が5歳近くになり、子育てに余裕が出てきて、休日が休日らしくなってきた、②自宅勤務でモチベーションが上がりづらい、③5月~6月の仕事が重いのが目に見えているの3点ではないかと思う。とはいえ、世間的に言えば恵まれた立場であることは十分にわかっているつもりなので、バランスをとりつつも会社員としてはしっかりと結果を出していきたい。

 

こういう状況ではあるのだが、あまりに運動不足と在宅のストレスがたまったので、昨日は湾岸エリアまで家族でひたすら歩いてみた。だいたい12km、歩数にしてだいたい18,000歩くらい。さすがにこれだけ歩くと、ちょっとした旅行気分も味わえてストレスも解消できる上にお金もかからないし、例の「三密」でもないので、現時点で可能な外出先としては悪くないのではないかと思う。天王洲のあたりはもうだいぶ人が街に出ていて、何も言われなければ緊急事態とはとても言えないような雰囲気だった。ともあれ、「ちょっと気合を入れて歩くと、まったく表情の違う街にすぐに行ける」とい東京の醍醐味を久しぶりに実感した日であった。子どもがかなりの歩行距離に耐えられるということは、なかなかの新鮮な驚きだった。

 

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しかしながら、38歳、都心に家を持って、2人の娘を育てているというのは、我ながら本当に誰かの人生のようだな。もしオリジナリティに乏しいなんていう批判があったら、残念ながら僕はそれを否定する材料を持たない。オリジナルであるって本当に大変なことだし、多くの場合コストに見合った果実も得られないので、ある程度の努力で手に入る予定調和的な落としどころが一番快適だとわかってしまったのだろう。このあたりの心境の変化は、3年に一度くらいしかツアーをやらなくなって、セットリストの多くを過去のヒット曲が占めるようになるミュージシャンを彷彿とさせて、若干寂しいものがある。でもまだリスクはとれるはずだ。まだ僕は自分の人生の可能性を信じている――青臭くて恥ずかしい物言いではあるのだが。