師走

気がついたらもう12月である。一応ブログを運営している以上、一週間に一度くらいは記事を上げるのが筋だとは思うのだが、正直に言って、時間的にも精神的にもそんな余裕はない。まあ周りを見ても似たような感じなので(特にフルタイムの仕事を持って子育てをしている人は)、年齢的に仕方のないことだと思って諦めている。二流どころのアイドルなんかが書いているような、「冬ですねー 衣替えしました☆」みたいな内容だったら毎日更新することも可能なのだろうが、そんな時間があったら一分でも家族といる時間を増やしたほうがいいのではないかという気がする。もちろん家族やら子育てが人生のすべてではないけれども、そこに一定以上の情熱を注がないと、後の人生での取り返しのつかない後悔につながるように思われるからである。

 

といいつつ、家族も寝てしまった金曜の夜なので、少し好きなことを書く。言葉について書こう。とはいっても、生涯の学問として哲学を選んでしまった身ということもあって、言葉について簡潔になにかを記述するというのは極めて困難な作業である。それはさておき、時代を生きる中での率直な気持ちとして、言葉の価値というものが(そんなものがあるとすれば)ずいぶん軽くなってしまったなという気がする。エクリチュールが暴力的なまでに氾濫しているのだ。PCというパンドラの箱を少し開くだけで、僕たちはすぐにその洪水の中に身を投じることができる。先に挙げたような「アイドルちゃん」のブログ記事などはその典型だろう。一方で、旧来のメディアやら、アカデミズム寄りの面々が喧伝するような、反・便所落書き的言説も紋切り型に聞こえるし、いちいち説教臭い。図式としてはかなり乱暴だと思うけれど、おおむねインターネット黎明期からの言葉インフレは、「言葉の氾濫、そしてそれに対するカウンター」という流れで説明できるのではないかと思う。

 

で、そうした中で、僕はどんどん言葉から興味を失っていった。これは、上京してきたときに、あまりの人の多さゆえに、だんだんと人への興味を失っていった自分自身の姿とも重なる部分がある。どうやら僕は人が多く集まるところが苦手なようだ(行列のできるラーメン屋なんかには並ばないタイプ)。

 

とはいえ、一度は深く深くコミットした対象である「言葉」、人生の繁忙期が過ぎたらもう一度ゆっくり向き合ってみたいなあとは常々思っている。まあおそらくは、そのときにできる限り誠実にそれと向き合うために、今は人生の肥やしをたくさん作っておくのがいいんじゃないかという気がする。たぶん僕の周りの多くの人もそう言ってくれると思うーー彼ら・彼女らが、僕のことを真剣に考えてくれた上での発言かはわからないけれども。

 

久しぶりに自分語りをしてしまった。