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旧友

大学院時代の友人に会う。9年ぶりだから、当然久しぶりである。博士論文を仕上げて、7年ぶりに花の都Parisから日本に凱旋ということで、ちょっとしたお祝いをする。おそらく僕はアカデミズムに幻滅してそれを捨てた人間だけれど、友人がかの国で一定の成果を上げて——聞けば当地で当該論文が出版予定とのこと——、無事日本に帰ってきてくれたということはやはりうれしい。

 

ワインを飲みながら、誰がどうなっただの、あいつは今何々しているだのと話す。久しぶりに会った友人とだったら、誰とでも話す話題だ。そして、話題は否応なく彼女——僕といろいろあった女の人——に及ぶ。僕は、そのことについてのいくつかの事実を打ち明ける。その話をするのはずいぶん久しぶりだった。それと同時に、僕は自分の心の封印を解く。その傷は治ったわけではないのだ。僕はいつも忙しさという鎮痛剤で、おそらく自分自身をごまかしているだけなのだ。

 

話をして、自分の中の記憶があまりに生々しいのに驚いた。半年前に立てた予算でさえも過去として石化しているにもかかわらず、この思い出の部分だけが、現在進行形の傷として心の中で血を流し続けているのだ。僕の意思とは関係なく。

 

C'est la vie - その友人は言った。その通りだ、あれこれ言ったって、もうそれは過去であり、なるようにしかならないのだ。僕だって理屈では分かる。ただそこに、今でも返事のない問いかけをしてしまう自分がいる。事実として。村上春樹の「我らの時代のフォークロア」を思い出す。僕だって最後に大声を出して笑ってみたいよ、と思いつつ。

 

なぜ過去だけがこんなに光り輝いて見えるのだろう。誰よりも愛しいものに囲まれて毎日を送っているはずなのに。そういうわけで、公にできない思いを僕はここに綴る。いつものようにチャイコフスキーを聴きながら。そういえばかの大作曲家も恋愛についてはずいぶん臆病者だったみたいだ。まあ男はえてしてそんなものなのだろう。

 

脱線するが、B'zの「裸足の女神」に描かれる女の人は素敵だな、と思う。僕にとってのひとつの理想像である。幸い、僕が配偶者として選んだ人には、そこに描かれている人に近しいものがある。慶賀すべきことなのだろう。

 

そして、それとはまったく違う文脈で、10年前の思い出に懊悩する僕がいる。ガラクタをいつまで弄んでいるのだろう。皮肉にも何よりも輝いてしまっている、そんなガタクタを。