清掃飢餓

今週末もあっという間に終わってしまった。世の中の多くの人々が週末をどのように過ごしているかというのは僕の計り知らないところだけど、少なくともここ5年ほどの僕に関しては、土曜日は片付けと子ども関係の雑事、日曜日は買い出しと子ども関係の雑事、それに多少の行楽(とはいっても、駅まわりやら公園やらに行くだけ)を加えて終わりという感じである。月月火水木金金なのだ。こういう日常で何が一番困難かというと、本格的な清掃――というか、モノを捨てるという作業――を行うチャンスがほとんどないということである。もちろん、日常生活に問題がない程度の片付けは日常的に行っているのだが、「本当に必要なものだけを選別する」という作業は、振り返ると5年以上行えていないということになる。というわけで、12月におそらくは外部サービスの助けを借りて、いわゆる断捨離というものを行ってみるつもり。おそらく、我が家にあるもののうちの半分くらいは今この瞬間にこの世からなくなってもまったく困らないものなので、向こう2か月くらいで、もう少し家庭を筋肉質にするというか、経営的に言えば在庫回転率を上げるようにしたい。会社では毎月そういう指標を見ているにもかかわらず、家での管理はほとんどできていないので、これからの目標としたいと思う。

 

☆☆☆

 

香港の書店で哲学のコーナーを見たら、70%くらいは中華思想に関するものだった。老荘あたりから始まって毛沢東あたりまで、原書と解説書の類がこれでもかというくらいに置かれている。現代の中国人がそういったものをどれくらい読んでいるのかというのはよくわからないのだが、書店での存在感からすると、例えば一般的な日本人の親鸞に対する感覚よりは、中国の人たちはいわゆる中華思想をずっと近しいものとして感じているのではないかという気がする。ちなみに、残りの30%のほとんどは西洋哲学で、プラトンからロールズあたりまで有名どころはだいたいそろっていたのだが、フランス現代思想の類はフーコー以外ほとんど見当たらなかった。このあたりは、今でもデリダの訳書が刊行されると局所的な盛り上がりが見られたりする日本なんかと比べると、ずいぶん異なっているような気がする。どちらがいいとか悪いとかいう話ではないと思うのだが、今でもフランス現代思想という領域が一種のヘゲモニーを形作っている日本のほうがどちらかといえばいびつなのではないかと思う。このあたりは戦後日本における思想的なトレンドに加えて、東大駒場の政治的な話も絡んでいるのでずいぶんややこしいのだろうが、追及すればそれなりに面白いテーマなのではないかと思う。

 

いずれにせよ、西洋思想という借り物のことをずっと勉強してきた身としては、中華思想という屋台骨を持つ中国のことを少しうらやましく思った。たぶん漱石もイギリスで同じようなことを考えすぎて、頭がちょっとパンクしてしまったのではないかと思う。

 

☆☆☆

 

ずいぶん前、オフィスのデスクに備え付けてあるホワイトボードに、『グレイト・ギャツビー』のラストの一文を書いておいたら、上司(UK出身)とその取り巻きがやってきて、"Very deep"やらなんやら小学生みたいな感想を連発していた。二人ともきちんとした教育を受けた人なのだけれど、そんなものなのだろうか。英国の人は米国のものは邪道だからあんまり読まないのだろうか。日本人の大人が『草枕』の冒頭を知らなかったらやっぱり結構恥ずかしいと思うのだけれど、それは僕の出自ゆえの凝り固まった価値観なのだろうか。よくわからないけれど、世界的に教養というものが危機にさらされていることを実感したエピソードである。まあずいぶん前の話なのだが。

 

☆☆☆

 

月曜からかなりバタつきそうだが、気合を入れて乗り切っていきたい。