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町内会という名のカオス

雨の中、地元の――というか今住んでいるところの――町内会に参加する。「桜まつり」という名目だったのだが、残念ながらその日は一日中雨が降り続いていたので、実際には「周辺住民が集まって飲み食いをする会」とでも呼ぶべき様相を呈していた。自分の人生を振り返ってみると、こうした有象無象の老若男女が集まる場というのは中学時代くらいを最後に日常の中に登場しなくなっていたのだが、一定の場所に根を張って子どもを育てていると、土着的な人間関係に最低限のリソースを割くことは避けられなくなってくる。この町内会もそういったもののひとつと呼んでいいだろう。そういうわけで、この局地的な坩堝が20年ぶりくらいに僕の目の前に現れてくるようになったのである。

 

僕の前には80歳くらいのおばあさんが座る。『千と千尋』の湯婆婆を気持ち優しげにしたような感じの人だ。彼女が僕に話しかける。

 

 「あなた、どこに住んでるの?」

 「クリーニング屋とコンビニの間のあたりです」

 「日比野さんの家のアパート?」

 「いえ、アパートじゃないです」

 「日比野さんの家の旦那さんね、外に女作って逃げ出したのよ」

 「はあ」

 「それでね、日比野さん…(以下略。覚えてない)」

 

とまあ、午後1時というのにショットでウオッカ5杯飲んでます、くらいにドライブがかかっている。隣の奥様からは、「娘が隣のクラスでお世話になっています」と丁寧に挨拶される。僕も当然「いやはや、こちらこそお世話になっています」と返すが、本当にそうなのかさえ不明である。湯婆婆は相変わらず「向こうに座っている人がこのあたりの地主さんなのよ」とか、独り言なのか僕に対する言明なのか判別できないことを口走っている。よくわからないままにスーパードライをちびちびを飲んでいると、国会議員の人がやってきて握手を求められる。もうドストエフスキーポリフォニーとでも呼びたくなるような状況である。

 

改めてこういう場に着てみると、自分が日常的に生活している場ではある程度の同質性が担保されているのだなあとしみじみと思う。どっちがいいとか悪いとか言う話ではないけれど、多数の世界が同時に存在しているというのは、厳然たる事実なのだ、と。35歳になった今でも、その単純な事実には驚かずにはいられないものがある。いや、35歳になったからこそ、世界が複数であることの素晴らしさも、そしてそのことのおぞましさも理解できるようになったということかもしれない。

 

☆☆☆

 

もうすぐ面接日なのだが、若干間延びしてしまっている感があり、あまり練習に身が入らない。直前になってしまうと、なぜかモチベーションが落ち気味になってくるのは、昔からの僕の悪い癖である。まあもう少しだ、がんばろう。