SNSはなぜ孤独感を生むのか

旧い友人がこの春に一冊の本を出版し、僕がかつて属していた世界(思想村)はそのことでちょっとした盛り上がりを見せた。まあ哲学書の類と言っていいだろう。狭い世界なので、世間で話題になるというようなレベルではなかったけれど、少なくともその世界では、彼はちょっとした有名人になった。それを遠くから横目で見ていて、なんだか僕はその彼がずいぶんと遠くに行ってしまったような気がした。10年前にはよく二人で飲みに行っていたのになあ、と。

 

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SNSが孤独感の温床になるという現象については、すでに多くのウェブサイトで論じられているし、専門家による統計的な調査結果も多く報告されているので、その現象が実際に生じていることについて疑いの余地はないだろう。なにより僕も実際にそういう孤独感を体験したことがある――というかむしろそういう感情にさいなまれていたし、それが5年ほど前にSNSから足を洗った理由のひとつである。しかしながら、「なぜSNSの使用により孤独感が増すのか」という現象については、少なくともWebに上がっている記事で、僕に説得力のある説明をしてくれているものはこれまで存在していなかった(専門家による先行研究はしっかりと追っていないが、ブログなのでご容赦されたい)。そういうわけで、その理由について少し考えてみようというのがこの記事の主眼である。

 

ここでは分析の対象を「友だち」という関係に限定しよう。「恋人」という極めて複雑な関係についてなにかを述べるには、このスペースはあまりにささやかにすぎるように思われるからだ。

 

ある友人と関係を築いていくとき、通常その関係は一定のカテゴリの中に収斂する。高校時代からの友人だったら「高校の友だち」、テニスを一緒にする友人だったら「テニス仲間」というように。話す話題も、友人ごとにだいたい決まっているのが普通だろう。僕の場合、高校時代一緒にバンドをやっていた友人とは、今でもメタリカなんかの話をするし、サッカー仲間とはやはり今でもサッカーの話をする(ちなみに女の子についての話は誰とでもする)。要するに、現実の人間関係を築いていくときには、お互いにすべてを見せ合うというよりは、お互いの趣味の合う部分同士をすり寄せあう中で、互いを知っていくというのが一般的であるという話だ。少し哲学の文脈に近づけてみると、そうした関係性の構築過程においては、友人がこちらに見せている顔の一面性において、主体がかかる関係を一定のカテゴリの中に位置づけているという意味で、友人は主体に対する即自存在として表象されているといえる。ある意味では主体の暴力によって、友人は主体に対するその役割を決定されており、主体にとって友人の横顔や後ろ姿が問題になることはない。サルトルの文脈でいえば、一面性をベースとした友人関係という「本質が実存に先立」っているのである。意味は前もって与えられている(Pre-sens)のだ。バンド仲間はバンド仲間なのである。

 

ここでその友人とSNSで友人になった場合を想起してみよう。スクリーンを通して映される彼の姿は、なによりもその全方位性によって特徴づけられる。主体にとって「バンド仲間」であった彼は、同時に父親であり、ベンチャー企業の社長であり、この週末は熊本でボランティアをしている…。SNSが人を描くとき、程度の差はあれ、それは必然的にキュビズム的な要素を伴う。SNSに映された彼の姿は、原則的に360度に対して公開されているからである。これは、現実の友人関係が一点透視図法的な構図によって特徴づけられるのときわめて対照的だ。

 

では画面の中に映される友人の姿は、その彼が現実の世界に対してそう意味されるような、しかるべき姿として表象されるだろうか?答えはもちろん否である。SNSが映し出すのは、現実の彼の全体像ではなく、彼が世界に対して自分をそう認識させたいと欲望する像の全体像であり、したがって、その像には必然的に一定の虚飾が含まれる。ここではすでに友人の実存は問題ではない。サルトルの金言に倣えば、SNSにおいては、「欲望が本質に先立」っているのである。生きるために必要なものだとはいえ、欲望というのはお世辞にもあまり美しいものとはいえない。ましてそれが全方位的な目くばせのもとに欲望される欲望であるとすればなおさらである。

 

そして主体はSNSにおいて彼の友人であった人物を、いや、かかる友人の公開されたものとしての欲望を見る。欲望というものが現実の社会生活においてあらわになっていないことが、ますますそのいびつさを際立たせ、主体にとっての友人の像と、スクリーンに映し出されている友人の欲望との間に決定的なずれを引き起こす。主体にとっての「それは=かつて=あった」は棄却され、主体にとっての友人のシニフィエであるPre-sensは、友人のいびつな欲望によって「上書き保存」されることで、不在のものとなる。結局、SNSが表象するのは、友人の存在ではなく、その彼との現在における距離であり、彼の不在であり、そして主体の疎外である。それがおそらくは、SNSという世界の根本的な性質、限界であり、主体がそこに孤独感を覚えるのは必然なのである。

 

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冒頭の旧い友人が出したその本をやや粗めに一読し、彼にメールで感想を送る。「久しぶり、ありがとう!」との返事。なんだ、距離は10年前と何も変わっていないじゃないかと思った。「今度金沢で呑もうよ」と僕。

 

孤独感へのささやかな癒しと、しかるべき距離の回復。人間関係はこうでなくちゃな、と思った。

 

B’zの”calling”的な構成で書いてみた)