プロジェクト、フィリピン、ヒカルちゃん

だいたい最近いつもそうなのだが、雑事に忙殺されて更新が遅れてしまった。何人かの友人にビールを飲みに行こうとか、ご飯を食べに行こうなどと声をかけてみたはいいものの、そちらもまったく追いついていない。35歳の梅雨もまた、社内調整に明け暮れているままに過ぎていこうとしている。

 

☆☆☆

 

前回書いたプロジェクトの続き。アメリカからお偉いさんたちがやってきて、日本のお客様にプレゼンテーションを行う。先方も社長と役員数名ということで、「ああ、このくらいの人たちが10年前の僕に対して最終面接をしていたんだなあ」と妙な感慨に打たれる。この会議では、僕と同じプロジェクトメンバーである女性が全体の進行と通訳を務めていたのだが、それがあまりにもこなれていて、同僚ながら惚れぼれとしてしまった。アメリカで高校・学部を過ごした人なので、もちろん英語は非常に上手いのだが、アメリカ人のややもするとarrogantに聞こえがちな言い分を(彼らはassertiveと言うだろうが)、日本人向けに柔らかく同時通訳するというのはプロでも難しい。久しぶりに、僕にはこのレベルの仕事はまだできないなあと舌を巻いてしまった。だいたいにおいて、事務系の仕事で能力的な違いをあからさまに感じさせられることは少ないのだが、こういう驚きがあると刺激になるし、もっとがんばらなくてはいけないなあと思う。

 

ちなみにそのプロジェクトの中間打ち上げで、USの偉い人がこんなことを言っていた。「日本のお客さんのXXXに言ったらさ、『私たちはあなた方を信用していません。あなたたちが日本人ではないからです』って言うの。本当だぜ。信じられないよな」。

 

本当に信じられないし、アメリカでこんなことがあったら大問題になると思うのだが、そういうことがあってもおかしくないのかもしれないなと僕は思った。それくらい異物に対するフォビアは、特にこの国の地方においては著しいものであるからだ。でも彼にそんなことはとても言えなかった。

 

「でも、世界は変わっているんだ。グローバル化は着実に進行しているし、彼らもそう長くそんな態度ではいられくなるだろう」、彼はそう言葉を継ぎ足した。グローバリゼーションがはらんでいる問題はある程度理解しているつもりだけれど、このときばかりは、僕の間接的な上司である、この典型的なアメリカ人エリートに同意せざるを得なかった。

 

☆☆☆

 

今年の夏休みはセブ島に行って、マンゴーを食べながらのほほんと過ごそうと思っていたのだが、気がついたらフィリピンに非常事態宣言が出ているではないか。調べると、ISの勢力が当地でかなり拡大しているとのこと。フィリピンは敬虔なカトリックの印象が強いが、ちょっと調べると特に南部はイスラム系の人口がかなり多いようである。実際にテロに会う確率はそんなに高いものではないと思うのだが、貴重なお金と休みを使ってリスクを取る必然性は毛頭ないので、結果的にはキャンセルすることに。というわけで、あと夏休みまで一ヶ月しかないというのに、夏休みの計画は再度練り直しになってしまった。困ったものである。

 

☆☆☆

 

遅ればせながら、昨年発売された宇多田ヒカルのアルバムを聴く。なんだか久しぶりに音楽を聴いた気がした。できあいの工業製品ではない、プロが技術と魂をこめて編んだ芸術作品を。どのトラックも素晴らしいけれど、やはり白眉は「花束を君に」だろう。音が泣いているのだ。ある人はルノワールの遺作である「ニンフ」を見て、「画面が泣いている」と言ったそうだが(誰だったっけ?)、この曲はそれぞれの楽器はそれぞれの仕方で泣いている、そんな印象を受ける。凡百の歌謡曲と、真の芸術作品を分かつものはいったい何の要素なのだろう――そんなことを思わず考えさせられてしまった。その問いに対する答えなどもちろんわからないのだけれど、本作は間違いなく後者に属する作品である。

 

 

ちなみに、かなりどうでもいいのだが、2曲目の「俺の彼女」は歌詞の一部がフランス語になっている。その中で”Quelqu’un à trouver ma vérité”という一文があるのだが、これが、”quelqu’un qui puisse ma vérité”なのか、それとも “quelqu’un dans lequel je puisse trouver ma vérité”なのかがよくわからなかった。前者は「私の真実を見つけてくれる人」という意味で、後者は「私がその人の中に私の真実を見つけられる人」という意味である。前者だとどちらかといえば他律的なニュアンスになり、対して後者だと自律的な含みが感じられる。この曲は男性と女性の言い分の掛け合いということもあり、この一文の語り手がどちらかというのも不明である。哲学畑出身としては、どうしてもこういうものを見ると「決定不能」と言いたくなってしまうのだが、これは歌詞に重層性を付与するために意図的に行っているのだろうか。よくわからない。