やりたいことがないことについて

やりたいことがない。いや、そういう言い方は適切でないのかもしれない。情熱の行き場がないと言ったほうがより表現としては正しいような気もする。

 

同年代の周りの人々を見ると、どうもこの35歳あたりというのはそういう意味での分岐点であるようだ。だいたい教科書的な人生を送ると、28歳~35歳あたりでライフイベント(結婚・転職・子育て・住宅購入・近しい人の死別)がいくつか発生して、20代のころと比較すると忙しく生活に追われるようになる。「やりたいこと」ではなく、「すべきこと」を優先しなければならないようになるわけだ。会社が休みだろうと子どもの面倒は見なくてはならないし、住宅ローンと税金の支払いがない月というのは原則として存在しない。そういう生活を送ってくると、内的な欲求――要するに「やりたいこと」――というものが自分に存在するのかさえもだんだん疑わしくなってくる。

 

そう書くと、賢明な読者はこう疑問に思うだろう。「それはただあなたが今忙しすぎるだけではないのか。子育てがひと段落したら、昔からやりたいと思っていたこと思い出して、それらを存分にすればいいじゃないか」、と。

 

それは一見納得感のある反論のようにも聞こえるが、実際のところはそう単純ではない。理由は主に次のふたつだ。

 

ひとつめの理由は、人が求めるものは年齢や環境によって変化するからである。事実、10年前、あるいは5年前の自分に存在した欲求、もっと言えば征服欲や顕示欲は、もうほとんど存在しなくなってしまった。例えば10代のころは、それこそギターを弾くのが何よりも楽しかった。お金もなかったし、それで女の子にモテたような記憶もなかったけれど、ロックンロールが鳴っていて、チョーキングがうまく決まったら、もうそれだけでけっこう幸せな気分になることができた。けれども、既婚子持ちの35歳になってそうも言ってはいられない。残念ながら、現実の生活においては、音楽に慰め以上の価値が認められることは極めて少ないのである。それに、Youtubeなんかを見れば、ものすごいテクニックを持っているにもかかわらず、おそらくはそれをほとんど社会的・金銭的価値に還元できていないと思われる人々が大量にいることは、容易に実感できる。そういうものを観ていると、音楽にリソースをつぎ込むということがどうしてもバカらしくなってきてしまう。音楽だけではなく、僕の場合は哲学についても同じような感じであまりのめりこめなくなった。

 

ふたつめの理由は、最低限の経済的安定性を、おそらく僕はすでに手にしてしまったからである。そうなると、生活の質は自然に向上し、良くも悪くも、日常にある程度の自己充足性がつきまとってくる。それと同時に、社会でお金がどのように回っているかというのも、ある程度わかってしまってしまうようになる。だいたいこのくらいの会社で、このくらいの仕事をすれば一年で1,500万円くらい、このくらいの仕事だと800万円だとか、一ヶ月にこのくらいの貯金を続けて、年間利回り5%くらいで運用できれば、55歳で1億円くらいの資産は作れそうだとか、そういうことだ。同時に、大人になるにつれて、ひとつめの理由で挙げたような、もともとの「やりたかったこと」に対して与えられている社会的価値の低さについても、否が応にも知ってしまうことになる。ミュージシャンの多くはフリーター同然の生活をしていることは周知の事実だし、哲学の研究者を目指すことは、少なくとも一定期間ニートになることと同義である(それが終わっても、まともなアカデミックポストがなければ非常勤で糊口を凌ぐのが関の山だ)。 

 

とはいえ、今現在、人生の先がまったく見えないというような袋小路にいるわけではないことを考えれば、僕はそれなりに妥当な選択をしてきたのだと思う。もっと言えば、「こうはなりたくないな」というものを徹底的に避けた結果、今いる小市民の自分が結果として生まれたとも言えるかもしれない。まあそういう意味では、足元の生活自体はそこそこまともに送れているので(たぶん)、これから人生の後半生に向けて、おそらく自分の「やりたいこと」を再発見するという課題が与えられているということなのだろう。言ってみれば、30代後半でもう一度「自分探し」をしろと言われているようなものだ。明らかにオッサンのコアゾーンに足を踏み入れつつ中で「自分探し」をするというのはいささか気恥ずかしいものがあるが、たぶんやってみたらなかなか面白いものなのではないかという気がする。僕は中田さんのように日本酒ハンターにまでなる自信はないけれども。

 

最後に、「やりたいことがない」ことは、一見するとネガティヴにも聞こえてしまいがちだけれど、逆に言えばある程度現状に満足できているという点において、100%否定すべきものではない。そして、この状態は極めて正常というか、誤解を恐れずに言えば、「普通」である。少なくとも、先進国で一定水準以上の生活をしている状態であれば、それはそう珍しい状態ではない。その場合はたいてい、欲求の表出がマズローの第三段階から始まる(シード扱い)されるので、対象を見つけることも、それを実現するのも困難なのは当然なのである。

 

というわけで、ここまでおつきあいいただいた読者へのささやかなアドバイスして、僭越ながら一言言っておこう。やりたいことなんか後で探せばいい、まずは消去法でいいんだ、と。人生の選択の段階では、やりたくないことを除いていって、その中で自分がやれることで、かつ世の中が認めてくれることをある程度やってみればいいのである。少なくとも30歳くらいまではそれくらい柔軟な考えでもまったく構わないと思う。そうやってしていたことが、結果的に自分というものを形作っていって、結果的に昔の自分が思い描いていたところに到達できた――なんて話は、枚挙に暇がない。

 

そういうわけで、「やりたいこと」なんかほっとけばいいのである。結局のところそれは「他者の欲望」の繰り返しに過ぎないのだから。