「バリバリ働く」という幻想

「バリバリ働く」というのは、おそらく日本語として公正妥当として認められたコロケーションであるように思われる。しかしながら、残念なことに僕は、「バリバリ働いているね」とかそういうことは言われたことがないし(ヘロヘロになるまで、とかはよく言われる)、まわりで「バリバリ働」いている人と言われても、そのイメージに合致する人はあまり見当たらない。戦略コンサルを生業としている友人のことなんかを考えても、「バリバリ」というよりは、「一心不乱」というような言葉のほうがニュアンスとしては近いような気がする。

 

おそらくその理由は、「バリバリ」という言葉が一定の犠牲を含意しているからではないかと思う。どうも僕には、この言葉が「プライベートを省みずに働く」とか、「子どもとの時間を犠牲にして働く」とかいうような、ネガティヴな意味を含んでいるように思えてならないのである。太平洋戦争なんかの例を持ち出すまでもなく、日本人は犠牲の構造が大好きである。犠牲は美化され­、個人の生き方を尊重させようとする時代の気分もあいまって、「バリバリ」は社会的に肯定される。どちらかというと、この言葉は女性が用いることが多いような気がするが、そのことは、相対的に女性のほうが労働という行為に際して犠牲を強いられているという事実と決して無関係ではないだろう。

 

少し話が脱線するが、ここ数年僕が気になっている人として、株式会社ビザスク代表の端羽英子さんがいる。なぜ気になるかと言われれば単純で、この人の顔が好きだからである。率直に言ってとても素敵な顔をしている。なんというか、地に足を着けて悩んで、現実的に、真摯に人と向きあってきた――話したこともないので、もちろん想像するしかないのだが――のが一目でわかる、そんな顔をしている。とても魅力的だ。そして僕には、この人の顔には「バリバリ」という形容詞は極めて似つかわしくないように感じられる。Goldman→あなたにはその価値(以下略)→MIT→投資ファンド→アントレという、おそらくは人が羨むようなキャリアを経てきたにもかかわらず、である。なぜなのだろう?

 

それはおそらく、彼女が何かを犠牲に働いているわけではない(ように見える)からではないかと思う。彼女の顔から伝わってくるのは、日々の仕事、従業員との関わり、家族との日常のそれぞれを、バランスをとりながら楽しんでいる一人の女性の姿だ。持続可能性と言ってもいいかもしれない。結局バランスを欠いた生き方は長続きするものではないし、経済成長が全てではないこの時代に、限られたリソースを仕事だけにつぎ込んでしまうのは、人生のポートフォリオとしてちょっとリスクが高すぎるのではないかという気がする。

 

ともあれ、「バリバリ」もいいけれど、やっぱりトータルで幸せになるにはバランスが必要ではないのか、という話である。もちろん万人が納得する人生の効率的フロンティアなんて存在するはずがないので、そのあたりの配分は一人一人悩みながら試行錯誤するしかないのだと思う。男性であろうと、女性であろうと。

 

ちなみに僕の人生のポートフォリオには「哲学」というなかなかエッジの利いた不良債権がある。「人生の意味が定期的にわからなくなる」という優待特典付き。皆さんもおひとついかがでしょう。