35歳と意味の解体

運動会の振り替え休日で娘が休みだったので、僕も代休をとって、二人で横浜に散歩をしに出かけた。僕にとっては第二の故郷ともいえる、大好きな街だ。東京から電車で30分くらいしか離れていないのに、風景も人もずいぶんと違うものだなと訪れるたびに思う。あいにくの曇り空ではあったけれど、みなとみらいの空気はいつもと変わらず心地よかった。都会的ではあるけれど、親密さを感じさせてくれる土地というのはずいぶんと少ないように思う。

 

☆☆☆

 

だいたいあと1~2年くらいで子育てのコアタイムが終わるな、と最近よく考える。子育ては3年ごとに楽になると言うが、だいたい僕の感覚も同じようなもので、3歳でずいぶん手がかからなくなり、6歳でけっこう放っておいても大丈夫になり、9歳で手が離れるというのが、だいたいの標準的な年数ではないかと思う。手間で言えばやはり3歳までが圧倒的に大変である。そして、だいたい僕が次の学位を取得するころには、その大変な時期が終わることになる。もちろん今後も、中学受験のサポートやら、思春期特有の不安定さやら、いろいろ面倒臭そうなことはあるのだろうが、少なくとも毎日寝かしつけに1時間かかるような生活はもうすぐ終わりがくるだろう。

 

それは僕にとって何を意味するのだろう。おそらくは、言い訳ができなくなることではないかと思う。子育てが忙しい、時間がとれない…とかの、よくあるエクスキューズができなくなるということだ。これから、ずっと僕が欲していた、「自分のための時間」は少しずつ自分に返ってくるだろう。そしてそれは、何かに還元されなければならない資源である。自分に時間という財が投資される以上は、そこから社会的に価値のある何かが生み出されなくてはならない。もちろん、それが実際に何なのか、今の僕にはよくわからないけれど。

 

おそらく難しいのは、何をするべきかという点から考えはじめなくてはならないという点である(HowではなくWhat)。これまでの35年では、多かれ少なかれ、選択肢は与えられていた。どこの学校に行くか、どこの会社に行くか、等々。それに対して、35歳以降の人生で、自分で何かをしようとすれば、そういった所与の選択肢はないものとして、自分のしたいこと・するべきことに真っ直ぐに向き合わなければならない(はずだ)。今さら果たしてそんなことが可能なのだろうか――僕自身、眉につばをつけたくなるような気持ちもあるが、人生のどこかで、そういった自分のパッションに向き合うというのは、必要な行為であるような気がする。

 

おそらく重要なのは、既存の意味を一度バラバラに解体することだろう。例えば、何も週5日会社に行くことが働くことじゃないんだ、とかそういうことだ。これはなかなか哲学的な所作と言えなくもないかもしれない。

 

☆☆☆

 

ずっと読みたかった今村夏子『あひる』を読む。カフカ的とでも言えばいいのだろうか、日常に潜む危うさがうまく描き出された佳作だった。もう少し恐怖の度合いが強いほうが個人的には好みなのだが、まあこのあたりは意見の分かれるところだろう。平易な文体でつづられる、日常の描写の中だからこそ成立する恐怖の感覚があるのだな、としみじみ思う。『こちらあみ子』も近々読んでみたい。

 

しかし今村という名前を聞くと、どうしてもカオサンの喧騒を連想してしまう。あまりにも個人的な話ではあるのだが。

 

☆☆☆

 

昨年大騒ぎになった、CO2からエタノールを生成するというのはどうやらデマではないようで、現在Stanfordにおいて、銅を触媒としたエタノール生成を実用化するための研究が行われているとのこと(以下リンク)。にわかには信じたいが、実用化されれば環境問題に対するこれ以上ない解決策になるだろう。おそらく凄まじい利権が絡むことになるのだろうが…。

 

https://www.sciencedaily.com/releases/2017/06/170619165409.htm