マイ・ファニー・バースデイ

たまたま昔の記事のデットストックが見つかったので、ここに転載することにする。これも、当時勤めていた会社の社内報に掲載していたもの。毎度のことながら、よくもこんな超個人的なことを社内誌に書いていたなあと思ってしまう。それはそうと、読み直すと、社会的責任が増えていく中での葛藤が随所に見られて、「ああ、この頃はしんどかったなあ」という思いを感じずにはいられないものがある。おそらく女の人だと、子どもを生んで、社会から隔絶した生活を一定期間送ると、同じような思いを抱くのではないだろうか。ともあれ、このときに感じていたキツさは、今という地点から見ると、大人になるための通過儀礼であったのだろうなという気がする。

 

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33歳になった。もう少し数字が小さかったころは、歳を重ねるたびにそれなりの感慨があったり、とりあえずの目標のようなものをでっち上げてみたものだが、自分でもツッコミを入れてしまいたくなってしまうほどに平日めいた誕生日だった。「おい、お前もうちょっとありがたがれよ」なんて言うもう一人の自分の声が聞こえそうなくらいだった。まあ確かに、僕という入れ物がいかにポンコツであるにせよ、ポンコツなりにまともな(たぶん)人生を送ることができていることを感謝するべきなのだろうとは思う。仕事はいささかハードであるにせよ、今のところ体はまだ動くし、食べること自体に困ることはあまりない。ほんの数時間飛行機に乗れば、前時代的な恐怖政治で抑圧されている人々がいたり、流行病によるバイオハザードなんかが起きていることを考えれば、昼過ぎに思いつきで風呂に入って『腹筋を割るための10か条』なんてものをふむふむと読んでいる余裕があるというのは、世界的に見ればずいぶんな僥倖と呼べるのかもしれない。

 

知らず知らずのうちに、そんな小市民的幸福に埋没していたからなのだろうか、実際にここ数年僕の趣味はずいぶん変わった。愛読紙は『現代思想』から『エコノミスト』になり、よりクラシックを聴く回数が増え、意識的に21時以降の食事と油ものを避けるようになった。髪の毛をピンク色に染めて反社会性をファッションにしていた男が、10年後、今度はネクタイをファッションにして、ディンプルの作り方に本気で頭を悩ませていることを考えると、さすがに人の世の移ろいやすさを思わずにはいられないものがある。まあいささかの問題はあるにせよ、僕は僕なりに社会的規範を自分に植え付け、抑圧を自分に課し、自分を商品化してグローバル資本制の時代を生きることを選んだのだ。フーコーやらマルクスやらの亡霊に祟られようが、税金と住宅ローンという名の債務が毎月発生する以上、社会的義務以上に「還元不可能な個人性」なんてものを優先するわけにはいかないのである。まあ、いくつかの義務を滞りなくこなして、波のない海のような毎日に自分自身を沈めてしまえば、大方の危機はなんとか乗り切れるだろう…年に一度しかない誕生日だというのに、僕はそんな打算的なことばかり考えていた。

 

☆☆☆

 

深夜0時、誕生日の終わり。僕は仕事の手を休め、無記名の人々が行きかう巨大なインターネットの掲示板をぼんやりと眺めていた。恩師の名を見つけ、そこで手を止める。新しい翻訳書の紹介だった。そのまま、21世紀の三種の神器Google先生に彼の名前を打ち込む。Google先生はとても優秀なので、僕のように打算をあれこれ考えることもなく、迷うことなくページのトップに彼のTwitterアカウントを表示する。これだろ、と言わんばかりに。僕は、大学教師がいい歳こいて二次元世界に自我晒してる場合かよと思いつつも、そのリンクをクリックする。

 

驚くべきことに、僕がそこで最初に発見したのは、彼の著書の情報ではなく、僕がかつて恋慕した女性の写真だった。キャプションを見ると、どうやら彼の主催したシンポジウムのときの写真のようだ。その顔には10年以上という時の流れが確かに刻まれていたが、紛れもなくそれは、僕がかつてそれを求めて飢え、渇き、時には眠れぬ夜を過ごしたその女の顔だった。息つく間もなく始まる動悸。諦めと妬み、そして10年越しの強烈な劣等感が僕の脳裏を執拗に攻撃する。あらゆる世俗的記号と制度がその意味を失い、自己の持つすべての欲望が生/性に収斂する瞬間――ああ、僕はこの名前のつけようのないパトスの中で自己という時間を闘ってきたのだ、と思った。そして僕は、結婚と労働という制度で自分を護ることで、いつしかそうした感情の波を避けて生きる術を覚えてしまった自分を思い、ふと泣きたいような気持ちになった。自分の感情に蓋をするようになってしまったのは、会社でも社会制度でも、ましてや東京という冷たい街のせいでもなく、自分、そして世界に対しての幻滅をあまりにも恐れるようになってしまった僕自身のせいではないのか、と。

 

リスクをとらねば、と僕は思った。それも、33歳の今だからこそ取れる、社会にあまねく価値が還元されるような行動に対してのリスクを。その中で僕はまたひどく幻滅をするだろうし、いくつもの目を覆いたくなるような光景に出くわすだろう。でもおそらくは、そうした中で生まれる強烈な何かへの希求なくしては、人生はそれが持つ本当の光を放つことができないのではないか。適切な方法でリスクを取り続けることでしか、失い続けるという理不尽さを、自分の中においてしかるべき仕方で消化することはできないのではないか――。真夜中というのに昼から――そして10数年前から――変わらぬ光を放ち続けるモニタの画面を見つめながら、僕は自問自答を続けた。答えは頭の中にも、巨大な情報網の中にもありそうになかった。そういえば今日は誕生日の夜だったなと思い、僕は自分の滑稽さを笑いながら、コンピュータの電源を落とした。