モチベーション

前から予期していたとおり、少しずつではあるけれども、自分の時間と呼ぶべきものが日常に戻り始めている。やはり子育ては3~4歳がひとつの山なのだなと思う。家族と一緒の休日でも、軽めの本を読んだり、簡単な片づけをするくらいの時間ならずいぶん確保できるようになってきた気がする。四六時中子どもから目が離せない時期が過ぎつつあることに、若干の寂しさがないというわけではないのだが、総合的な生活のバランスを考えると、やはりこれは慶賀すべきことなのだと思う。

 

一方で、まだ顕在化しているわけではないけれども、自分のモチベーションの維持というものがこれからは課題になってくるのだろうという気がしている。ひととおりの教育課程と生殖を終え、労働規範をほぼ完全に内面化してしまった今、半ば強迫観念のような、青い時代の強烈な欲望を保ち続けるのは、どうすればよいのかという問題である。そんなにシリアスなものではなけれども、これは大きな人生の後半の大きな課題ではないかという気がする。昔はわからなかったけれども、30代半ばの稲葉浩史が「ギリギリじゃないと僕ダメなんだよ」と歌った理由が、僕もようやくわかるようになってきた。常に試されて、ヒイヒイ言っていたいのだ。

 

やや話がズレるが、このモチベーションの話は、なぜベートーヴェンは50代にしてあのような珠玉の作品群を生み出すことができたのだろうかという点にも接続可能だろう。まあ彼の場合は、もともと持っていた才能と継続的な努力に加えて、身体的な困難や孤独、甥の問題なんかが混ざり混ざって創作のエネルギーになったのかもしれない…ずいぶん話が飛躍してしまった。

 

☆☆☆

 

上記のようなことを書きつつもやはり投資は楽しく、その奥深さと難しさがようやく最近わかりはじめている。ひとつわかったことは、100%勝つというのはもちろんないのだけれど、学習とパターン化、そして情報収集によって、確実にその確率は高めることができるという点だ。その点、投資――といっても想定しているのは現物のみだが――は、努力がある程度反映されやすいゲームなのだと思う。一方で怖いのは、マーケットという世界がPublicであるという点である。毛並みの良い会社や学校であれば通用するようなcommon senseは、そこではほとんど意味を持たない。良い子ちゃんの世界ではないのである。そして、そういう「お勉強」の世界では花開かなかったけれども、株の世界では億万長者というような種類の人々が、世の中には少なくない数存在する。あまりに乱暴な言い方かもしれないが、こういう人たちは、躊躇なく最短距離を突っ走る非常に長けていて、極めて学習能力が高い。そういう世界で生きてきた、ということだろう。別に彼らのようになりたいわけではないし、尊敬という感情も特にないけれど、彼らの生存能力の強さのようなものを認めるのはやぶさかではない。

 

でもひとつ言えることは、おそらく彼らの大部分は、マネとモネの違いを説明できないだろうし、空き時間に『存在と時間』を読むということもないだろう。このあたりの文化資本の蓄積――とはいってもずいぶん昔のものだが――は、高等教育が僕に与えてくれた数少ない資産と呼べるのかもしれない。僕はその手のものを、それこそ呼吸するように吸収して20歳前後の日々を過ごした。まったくTangibleではないけれど、その種のものが僕の人生に与えてくれた歓びは、決して小さいものではなかったように思う。恋愛もそうだけれど、教養も若い時分に身に着けてこそ得られるものがあるのだ。その二次的な価値を考えずに、純粋にその喜びを感じることができるという点において。