二律背反

週末というのにまた作文に追われているのだが、さすがに疲れたのでちょっとこちらに書く。日本語だとあまり頭を使わないで書ける――というのは語弊があるが、横文字を書く時と、使っている頭の部分が違うのだと思う。なんといっても半生を共に生きてきた言語なので、腐れ縁的な安心感もある。まあ例によってどうでもいい話なのだが。

 

☆☆☆

 

ちょっと恥ずかしい話なのだが、「どうにかして生産性を上げねば」という自分の問題意識に基づき、10年前の自分だったら絶対に手に取らなかったような俗流のビジネス書を片っ端から読んでいる。もっとも、こういうものは本とはとても呼べない代物で、「資本主義の世の中でそれなりに成功した人に30分くらい話を聞く」程度の内容であることが多い。僕はアカデミズムの世界を離れてずいぶん経つけれども、さすがに注も参考文献もなしで、個人の処世術だけが延々と書き連ねられているものを本と呼ぶのはさすがに気が引ける。一方で、それなりに得るものもあって、会社でいろいろな人にチクチク言われていることを、ある程度帰納的に、言語化された形で整理できるというのがその最たるものである。

 

とはいえ、参考にはしつつも、心の底ではそういった書籍類にまったく賛同できていない。理由は、それらの言説がほぼ100%ネオリベ的価値観に基づく強者の論理だからである。要するに、時間であれ、労力であれ、要するにリソースをかけずに最大の利益を得たものが最も偉い、というアレだ。事実、僕も、仕事で行う分析であれば、5分くらいでだいたいの仮説や結論を決めてしまうので、あんまり人のことは言えない部分もあるのだが…。まあリソースの制限がある以上、実務上それ以外のアプローチは採りようがないのである。けれどもその方法には――いうまでもないけれど――根本的な問題というか、欠陥がある。それは、個人性だとか、固有性なんかの、19世紀的というか、まあ人文の世界に属する概念たちを捨象してしまうことである。

 

そういう視点で、自分の30代を振り返ってみると、やはりここ数年はあまりにも実利のほうに傾きすぎてしまった気がする。そのことは僕にいくばくかの富、悪くない評判、そして有名経営大学院の学位を与えてくれた。でもそれによって僕が人として救われたかといえば、おそらくそれはノーだ。逆説的ではあるけれども、僕は自分なりの立身出世を経ることで(まだ途中も途中だが)、それが痛いほどわかるようになった。たぶん僕は、これから40代という年代を迎えるにあたって、自分の中のそういう部分を少しずつ取り戻していかなければならないのだろうと思う。その先にどんな世界が待っているのかは、自分でもよくわからないのだけど。

 

☆☆☆

 

ちょっと書くつもりが、1,000文字を超えてしまった。こういう話だったら、昔の恋愛の未練と同じくらいに、いくらでも書くことができる。まあいい、そろそろ資本の世界に戻る時間だ。