時間泥棒

いつの間にか夏が終わろうとしている。ピークの時の暑さはそれなりではあったけれど、夏と呼ぶのが憚られるくらい、短く、ささやかな夏だった。北海道へ家族旅行に行った時間を別にすれば、僕はコンクリートジャングルの真ん中で嫌になるほど仕事をしていた。これまでのキャリアの中でも、盆の時期にこれだけ集中的に仕事をしたのは初めてだと思う。なにしろ毎晩毎晩25~26時まで毎日PCを叩いていたくらいなのだから。会社が求めているものなので仕方ないのだが、こんな時期に丑三つ時近くまでしゃかりきになって働いていると、さすがの僕もご先祖様に申し訳ない気持ちになってくる。ともあれ、そういうドタバタした日々が、37歳の僕のリアリティであり、日常である。会社の人々は、いつも僕に「頭を使え、それがお前の仕事だ」と言ってくるけれども、そういう環境で本当に頭を働かせたら、「なぜ働くのか?」とかそういうメタな方向にばかり行ってしまいそうな気がするのだが、それは僕があまりにも疲れているだけかもしれない。

 

 閑話休題。我ながら、相変わらず仕事の話題が多く、面白みのない人間になっているような気がする。たぶん実際そうなのだろう。なけなしのプライベートの時間はほとんど家族とのそれに充てているから、深い部分の自分と向き合うなんていう贅沢は今の僕にはほとんど許されていないのだ。考えてみればこれはとても残念なことである。ベートーヴェンピアノソナタ31番を聴いて、「ああ…」とようやく思えるようになった自分に、じっくりとひざを突き合わせて話合うことを放棄しているにも等しいからだ。おそらく自分の内面は、何年も人が住まなくなった家の庭のように、雑草だらけの状態になってしまっている――子どもが生まれて以来、僕はそれを放棄してきたのだ、人生における宿命的な優先順位付けのために。そして、おそらくは、僕は少しずつその手入れを始めねばならない。手のかかる作業だ。

 

たぶん必要なのは、まとまった一人きりの時間だ。21歳の夏、南仏の熱い太陽の下では、そんなものは本当に掃いて捨てるほどあった。そして、その余剰は、多少いびつな形をとりながらも、僕という人間に人間としての陰影を与えてくれた。それから16年、日常のあらゆる時間を奪われ、文字どおり時間を買うようになった自分がここにいる。なんだか『モモ』みたいな話だ。そして、その中で自分という人間がだんたんと失われつつあるのが、自分でも感じられる。知らないうちに、僕は自分を工業製品化し、また商品化しているのだ。

 

抵抗せよ、と自分に向かってささやく。敵があまりにも巨大なのを知りつつも。そういう人間の一縷の可能性みたいなものに掛ける、そういうのも悪くないんじゃないかなという気がする。そんなことを書いていたら、なんだかハイデガーなんかが読みたくなってきたけれど、あの巨大な会社にはとても対抗する気にはなれない。ハイデガーのナチ問題なんかも、実は構図としては同じなのでは…というのはちょっと筋の悪い読みだろうな。