「したいこと」と「するべきこと」――40代以降の人生のために

ずっと時間不足を言い訳にして、ボリュームのある記事を書いていなかったのだが、仕事が少し落ち着いたこのタイミングで、ここ最近考えていたことを一度まとめてみたい。

 

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人生という有限の時間の中で、するべきことをすべきなのか、したいことをするべきなのかという古色蒼然とした問いについて、ここ最近、僕はことあるごとに思いを巡らせてきた。いや、より正確に言えばここ10年くらいの間、ずっと考えていると言えるかもしれない。ソクラテスの時代から連綿と続く哲学の系譜においても、幾多の巨人たちがこの根源的な問いに立ち向かい、それぞれが不完全な形ながらも回答を提出してきた。それを体系的に詳述するだけでも、おそらく何冊かの本が書けてしまうのだろうが――カントだけでたぶん3冊くらいは書ける――、本スペースは別にアカデミックなものを意図したものではないので、現時点で僕が考えていることに絞って記載してみたい。

 

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問いを考えるにあたって、まず10代・20代の頃の自分が何によって突き動かされていたかを考えることから始めよう。結論から言ってしまえば、それは圧倒的に「したいこと」であった。今という時点からするといささか信じられなくもあるのだが、例えば高校時代はギターを一日中弾いているだけでそれなりに幸せな気分になることができたし、そのことは、学校を中心としたコミュニティで、僕に一定のポジションを確保することを可能にしてくれた。いくつかのリーダーシップポジションを担っていたという点において、一定の義務の要素はあったものの、リソース配分という点では、圧倒的に「したいこと」に重きを置いていたといえる。それから学部、大学院から就職と、一定の人生のレールの上を辿ってきたのだけれど、やや乱暴にまとめてしまえば、やはり就職までは「やりたいこと」が自分の中心にあったと言っていいだろう。もろろん、今という時点から見れば、その多くは「他者の欲望」に対する模倣の欲求に過ぎなかったのだろうとは思うのだが。

 

そして、おそらくは多くの人と同じように、就職といういうイベントを境にして、人生におけるプライオリティの比重が変化しはじめる。就職活動という日本独特の社会的イニシエーションにおいては、「やりたいこと」に対する神話が未だに蔓延しているように思われるが、そのほとんどは巧妙なマーケティングによって、自分が欲求していると思われるものを選ばされているに過ぎない。あくまで個人的な見解ではあるが、自分の「したいこと」を本当に理解するには、おそらく22歳という年齢は若すぎるのだ。ともあれ、社会人としての出発を機にして、多くの人は「やりたいこと」から「すべきこと」――つまり所属する組織において与えられた任務――に人生のリソースを少しずつ移していく。ただし、この段階ではまた「やりたいこと」――自分がそうであると考えているもの――にある程度リソースを割けているケースが多い。社会人1~3年目くらいだと、業務負荷もある程度コントロールされているケースが多いし、家庭を持っていない人がほとんどなので、ある程度自由に時間を使うことができるためである。

 

少し脱線するが、話の流れをわかりやすくするために、ここでひとつモデルを導入しよう(以下図1参照)。4象限のモデルで、縦軸でするべきであること、するべきこと以外のことを分類し(should軸)、横軸ではしたいことと特にしたくはないことを分類している(want軸)[1]。象限(1)はwant/shouldが同時に満たせている状態である一方で、象限(2)ではしたいことはできているが、それは特に社会的にそうすることが求められていない(=社会的にニーズがない)ことであることを示す。(3)は社会的にニーズはあるが、当人が特に希望するものではないという状態、(4)は本人がやりたいことをしているわけでもないし、社会的ニーズもないという状態である。前述した20代前半くらいまでと後半にかけて、多くの人の間では象限(1)(2)から(3)への移動が徐々に起こっていく。もちろん、中には(1)の領域に深く入っていける幸福な人もいるのだろうが、よく言われる新卒者の離職率(3年で32%[2])などを考慮に言えると、それは極めて稀か、少なくとも当人がコントロールすることのできない要素であると思われる。

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図1

より変化が大きいのは、結婚・子育てが入ってくる次のフェーズである(図2参照)[3]古今東西語りつくされていることではあるが、これらの二要素が個人生活に与える影響は誠に甚だしく、多くの人の人生は急速に「するべきこと」の重力に引き寄せられていく。親戚回り、挙式、妊活、出産、子育て、マイホーム購入、…このフェーズに入ると、とにかく次々とやってくるライフイベントに対して適切に対応していくだけでも、相当なリソースが必要になり、多くの人は、ドラスティックなパラダイム・シフトを経験することになる。僕自身、当時の率直な実感として、「ここからが大人としての人生の始まりなのだろう」という漠とした実感があったし、同時に自分という存在の枠みたいなものが消失していくような感覚になったのもこの頃である。周りのサンプルケースを見ると、28~35歳くらいがこの時期に当たるケースが多かったように思う。人によっては、この時期にMBA受験・留学などのextra eventが入ってくるため、その場合はカオス度がもう一段階上昇する(僕はこのケースであった[4])。その頃からすでに数年が経っているわけだが、自分自身のことを考えると、僕自身もまだこの象限(3)にいるのだと思う。これはどういうことだろうか?子育てが落ち着いてきた分の余剰の時間とリソースを、有効に使えば(1)(2)の世界に戻ることは難しいことでないのではないか?

 

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図2

しかし、これがそれほど簡単ではないことは、賢明な読者であればすでにお気づきだろう。理由は二つ。ひとつめの理由は、10年前後に渡る象限(3)の世界での暮らしによって、自分の中のWantがそもそも変質してしまっている、あるいは自分のWantそのものがわからなくなるケースが多いためである。僕自身この傾向は強く、時々業務負荷が軽い時期の空き時間に、小説や哲学書を読んだり、映画を見たりしても、いまいち昔の頃のように楽しめなかったり、感情移入ができなかったりする。様々な経験を経た結果、感性が20代の頃から変わってきたということなのだろう。もうひとつの理由は、象限(3)の生活に慣れてしまって、「すべきこと」を優先するという規範を内面化してしまったために、それ以外の価値観に対する柔軟性が失われ、(3)から動けなくなってしまうためである。これは、長く引きこもっているうちに、外に出るのがおっくうになり、外部とのコミュニケーションができなくなったような人を想起するとわかりやすい(僕自身、3か月以上自宅勤務で家に引きこもっているので、笑えない話ではあるのだが)。僕としても、そのような人の行動にはある程度の合理性があると認めざるを得ないというのは事実だ。この象限においては、自分で自発的に考えることを放棄してもある程度の社会的承認が得られるという点において、相対的にROIは高いからである(例えば、「会社の言うことだけやっていれば、まあそれなりにOK」、というような状態だ)。けれども、この象限に留まり続けるということは、自分の意思を人生に投影することなく、人生を収束させていくということを意味する。少なくとも僕は、一人の人間としてそれを積極的に受け入れるつもりはない。

 

だとすれば、向かうべき先は当然象限(1)の、「したいこと」と「すべきこと」の両方が満たされる世界である。ではそこに向かうためにどうすればよいのか、という点に回答するのが本稿の着地点となる。

 

採ることのできるルートは3種類である。ひとつめ(図3の①)は、象限(3)から(1)への移行を狙うアプローチだ。典型的なルートとしては、現職で行っている業務をベースに独立・開業を狙い、自分が社会的意義を確信できるコミュニティに対して、専門的知識を提供するようなケースがこれにあたる。ふたつめは(図3の②)、20代前半以前の世界、つまり象限(2)から(1)への移行を狙うパターンである。これは例えば、語学が好きで、学生時代はドイツ文学を専攻していたような人が、改めて純文学領域の翻訳で身を立てようとしているようなケースを想定するとわかりやすいだろう。三つめのアプローチ(③、図3内記載なし)は、象限(1)の領域を新規に立ち上げるという場合である(例:40歳のサラリーマン男性が思い立ってソムリエとして身を立てようとするようなケース)。これら3つのアプローチをリスクが低い順に並べると、①→②→③となる。①は、現在の業務で行っている領域であるため、一定の顧客基盤さえ確保できれば、事業として成立する可能性が高いのに対し、②や③は趣味に等しい領域を、プロとして金銭的価値に交換可能なレベルにまで高める必要があるからである。一方で、成功した場合のリターンは②や③のほうが大きい場合が大きいだろう。①の場合は、これまで会社内で行っていた業務の延長にあたるため、労働集約的になり、スケールに限界があるケースが多いと思われるためだ。これらのルートのそれぞれに、どうリソースを配分するかは、人それぞれの判断になるだろう。僕としては、①と②・③に余剰リソースの70%/30%程度のリソースを割くというアプローチを採りたい(株と債券のバランスみたいだ)。とは言ったものの、僕がこれからの人生において、真の意味での成功を求めるのであれば、どこかでリスクを最大限にとって、何かの一要素にfull betをすることが必要になるだろう。そして、いつか来るその時のために、僕は、いや人は、それぞれの武器を毎日磨かなければならないのである。

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図3

最後に、40代が視界に入ってきた昨今、僕の周りでもセカンドキャリアについて語り始めたり、副業を始めたり独立したりする人が急速に増えてきている。グラットンがLife Shiftで描いた世界が、僕にとって身近なレベルでも急速に実現しつつあるのだ。その点、「すべきこと」から「したいこと」への移行は世代を超えた問題系として問われるべきだろうし、40歳前後という年齢はそれを考えるのに最適な時期ではないかと思う。僕は今回、自分の考えを整理するためにこの小文を書いたが、本稿が同じような問題意識を持つ人に一定の視座を与えることができるのであれば、僕にとってはまたとない喜びである。

 

経営戦略の分野において、自社が市場に対して、何をどうやって売っていくかというオペレーティング・プランをGo-to-marketと呼ぶ。経営計画策定の最もコアな部分のひとつである。個人の人生というレベルにおいては、このプランは30代までは一定のレベルまで他者――例えば、親や社会――から与えられる一方で、40代以降の人生においてのそれは、完全に個々人の裁量と責任に委ねられる。あなたのGo-to-marketを考えられるのはあなたしかいない。台本を書くのも、その主役を演じるのも、あなた以外の誰にも成しえないのである。

 

[1] わかる人には自明だろうが、アンゾフ・マトリクスをベースにしたものであることを付記しておく。

[2] https://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/0000177553_00002.html

[3] 念のため触れておくと、本稿は結婚制度の是非を問うものではない。

[4] 当時の自分の日記を読み返したら、「毎日がマリオ2の8-3のようである」という一文があった。なかなかよくできた比喩だと思う。