透明と障害 2020

雨続きである。それがすべての理由ではないのだろうが、せっかくの週末だというのに若干体調が崩れ気味である。例によって週末も仕事(作文)をしなければいけない状態なのだが、書けるところまで書いたら今日くらいはさっさと床に就こうと思う。

 

☆☆☆

 

「あれさ、politically correctってあるじゃん」、社長が言う。

 

「あれと同じなんだけどさ、正しいことを言うのと、伝わることを言うのは違うわけ。あなたの仕事は後者なのね、わかってると思うけどさ。事実として正しくても、伝わんなきゃ意味がないの」

 

本社に出す毎月の報告書のレビュー中言われた一言である。なんだか考えさせられてしまった。というのも、どちらかと言えば、僕は「事実を明晰に記述すること」を重視して、その報告書をこれまで書いてきたからである。もっと言ってしまえば、「事実を明晰に記述すれば、こちら側の意図は伝わるはずである」という前提で書いてきた。結論から言ってしまえば、これは誤ったアプローチであったと思う。ジャーナリズムの世界ならいざ知らず、媒体がビジネスの報告書である以上、「ビジネスオーナーである社長の意図」を明晰に伝えることを一義に考えなければならなかったのだ。もちろん、事実関係の確認は必須だけれども。社長の意図=戦略であり、戦略が事象に先行しているのでなければ、彼の存在意義自体がなくなる恐れがあるからである。そう思うと、自分はずいぶん政治的な仕事を担当しているのだなと思って若干げんなりしてしまったが、まあそういうものなのだろう。

 

考えてみると、正しいこと=伝わるという前提は、いかにも教養主義的な、ナイーブな幻想だったのかもしれない。スタロバンスキーが『透明と障害』で描いた、ルソーの「内部」と「外部」のハーモニーにも似た幻想を、僕自身も38歳の今まで抱えていたのだ。あるいはシニフィアンシニフィエの同一化と言ってもいいかもしれない。そう思うと、自分のナイーブさを恥じるとともに、その素直さを与えてくれたであろう、自分が生きてきたこれまでの環境になんだか感謝したくなった。

 

おそらく、営利企業に勤める限りにおいては、僕は「シニフィエの世界」を生きなければならないのだろう。けれどもそれは、自分の内部や事実を否定することではないはずだ――そう信じたい。そんなことを思った。

 

☆☆☆

 

大学院時代の友人とZoomで話す。久しぶりに話す彼は、大学教員の仕事もずいぶんと板についてきている様子だった。自分の同級生がすでに大学で正規職員として教鞭を採っているという事実には、時の流れの残酷さを否が応でも感じさせられる。おそらく彼は彼で、僕の子どもの年齢を聞いて、同じような感慨を抱いたのだろう。

 

「彼女、まだ結婚していないみたいだよ」、と友人。僕は顔が引きつる。

 

「そういえば、この間Nさんに、俺の相手として彼女はどうってからかわれたよ」。

 

たぶん彼は、僕が10年以上の前のことなんか気にも留めていないと思っているのだろう。しかし実際には、ピーク時よりは幾分楽になったにせよ、現在進行形で僕は痛みを反芻し続けている。これまでに僕はいくつかの現世的な幸福を手にしたとは思うけれども、その点に関して、これまでのところ特効薬は見つかっていない。そういうわけで、t僕は束の間の慰めとしてブラームスのop. 118-2を聴く。それ以外にどうすればいいというのだ?

 

☆☆☆

 

また作文の世界に帰る。自宅勤務になってからというもの、こんな週末ばかりである。