Gloomy Weekend

土曜日だというのにまた仕事をしている。週明けの火曜が最終レビューなのだが、ここまで作りこんできた資料に、金曜夜に50件ほどのフィードバック・修正依頼が入ったために、正直途方に暮れているところである。おそらくは明日もほぼ一日作業になるだろう。なんとも気の滅入る状態ではあるが、Spotifyからひたすら流れ続ける音楽はこんな日も僕に優しい。例えば、All the things you are古今東西の名演をあれこれひたすら流し続けるなんてことが1クリックでできるというのは、四六時中音楽を必要としている僕にとって夢のような話である。

 

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秋の気配が感じられてきたからだろうか、またフィッツジェラルドを読み始めている。昨晩は『冬の夢』を初めて読んだのだが(自分としても意外である)、主人公と自分を重ねて泣きそうになってしまった。現代の小説よりも、100年前の物語のほうがずっと迫ってくるものがあるというのは、本当に不思議なものである。おそらく、僕自身があの不幸なギャツビーが信じた、いや、生きるために信じるしかなかった「緑の灯火」を追い続けているからなのだろう。考えてみれば、ジャン=ジャック・ルソーも晩年、同じように無為ともいえる努力をしていた。では、彼らがそこに費やした膨大なエネルギーと思いは、どこに行ってしまったのだろう?現代人の目から彼らをドライに見ると、「ROIの低いことにリソースをかけても無駄」ということになるのだろうが、そうした部分を合理的に割り切れない愚かさにこそ惹かれてしまうのもまた人間だろうし、だからこそ優れた作品が生み出されてきたのだろう。では僕は信仰にも似たその思いを何に昇華すべきなのだろうか?

 

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[ここから日曜分。昨晩もう少し書こうと思ったのだが、どうも乗り切れなかった。]先週の大阪での幼児虐待死のニュースは本当に目を覆いたくなるようなものだった。亡くなった子にご冥福を、加害者には厳罰を、などという紋切型の反応で片付けられるようなものではない。自らで自らを救う手段を持たない子どもに対する暴力を、エコノミーの言葉で整理するのはそれ自体が暴力の一種である。ソンタグRegarding the Pain of Othersの中でそんなことを言っていたような気がする。いずれにせよ、僕がどういったことを考えようと、またどんな言葉を重ねようとも、ひとつの小さな命が理不尽に奪われてしまったという事実は不可逆である。おそらく僕ができることは三つだ――祈ること、自分の子どもを守ること、あまねく子どもたちが守られる社会制度に思いを馳せること。最後のはもう少し具体的なアクションプランに落とせるとよいのだが。

 

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30代もあと1か月と少しで終わってしまうので、次回あたりでこの10年を振り返る記事を書いてみたい。公私ともに大変な10年だったけれども、さすがにその一言で済ませるのはあまりにも乱暴だし、自分の中で一種の儀式として整理をしておきたいからだ。

メメント・モリ

相変わらず動きのない日々である。相変わらず仕事ではバタバタとしつつも、プライベートはハリがあるのかないのかよくわからない日々を送っている。というわけで、今夜も思いついたことを簡単に書き留めておく。ここ最近は日曜の夜に一週間を振り返ってこのスペースのささやかなブログ記事にまとめるというのがちょっとしたルーティンになっている。

 

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前々職のグローバルのトップNo. 2であった方の訃報が飛び込んでくる。数回しか会ったことはないし、直接話したのは確か新宿のホテルでディナーをした一回きりだったけれど、少ないながらも直接関わりのあった方だったので、少なからずショックを覚えた。Linkedinでは、多くの元同僚がその死を悼む記事を投稿しており、彼が与えた影響の大きさを改めて思い知らされた(レビューではほとんど鬼のようだったが…)。日本人からすれば、ほとんど桁外れの金持ちだし(確か自宅にゴルフ場があると聞いたことがある)、社会的ステイタスでいっても相当に高いところにいた人ではあるけれど、死は残酷なまでにどこまでも平等である。僕は僕で、そんなに人生に長い時間が残されているわけではないのだ。死を適切に想うこと――つまりはそれが生きることなのではないか、そんなことを思った。

 

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目黒にあるブタのいるカフェに行く。もちろん僕が希望したわけではなく、娘の接待の一環である。ここでは8匹くらいのマイクロブタのいるスペースでお茶ができるということをコンセプトにした空間なのだが、なぜかこのブタたちに僕は妙にモテた。僕のほうは、膝に5匹くらいがまとめて乗ってきて、ひたすらブヒブヒ言っているということが数回あったに対して、妻・娘に対してはほとんど平常運転であった。確かに可愛いことは可愛いのだが、言葉の通じない生物が自分の上でまとめて鎮座しているという光景は、何とも言い難い不安を感じさせるものがある。僕は都会の中で、そしてロゴスの中で生活しているのだ、と思った。

 

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週末にもろもろサブスクリプションを整理して、使用頻度の低いサービスを解約するとともに、Spotifyの有料プランに申し込んだ。少なくとも週5日は家で音楽を聴きながら仕事していること、youtubeの広告にフラストレーションが溜まりまくっていたことを考えると、もっと早く契約してもよかったなという気がする。いろいろな音楽を漁りながら改めて思ったのは2010年~2018年あたりの流行曲がほとんど頭に入っていないということである。これは、二人の娘の子育てをしていた期間とビジネススクールに行っていた期間にほぼ完全に一致している。代わりに、その間のプリキュアの曲はほぼすべて歌うことができる。大人になるというのはそういう側面もあるのだな、と思う。一方で、その空白期間の音楽を改めて楽しむことができるというのは、僕にとって密やかな、そして大きな喜びである。

Customer Obsessionと分断の風景

副作用は思ったほどのものではなく、翌日に38℃を超える発熱があったあとは、ほぼいつもどおりの状態に戻っていた。考えようによっては、滅多にない「一日何もせずに寝ていられる日」を神様と家族からもらった日とさえ呼べるかもしれない。これだけ寝ていたせいか、大人数の男女で映画館に行って、なぜか広末涼子から「これが終わったら二人でどこか行こう」と誘われるというスイートな夢を見た。が、夢の中で彼女は待ち合わせ場所に現れず、妻から足の裏をポンポンと叩かれたところで目が覚める。なんだか『闇の雨』みたいな話である。まあ熱にうなされつつもそんな夢を見ていたのだから、実際にはけっこう元気だったのではないかという気がする。

 

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21世紀に入ってからの世界のビジネスが、アメリカ西海岸のTech Giantsを中心に展開してきたというのは、おそらく衆目の一致するところだろう。細かいことは措いておくとして、これらの企業群が戦略として行ってきたことのひとつは、データに基づくサービスの最適化、要するにパーソナライゼーションである。例えば、Google検索では検索者の好みや過去の検索履歴にしたがって、コンテンツの検索順位が変化するというアレである。また、Amazonでは同種の仕組みがCustomer Obsessionという社訓によって強化され、また奨励されてきた。倫理的な側面での是非は措いておくとして、現在におけるこれらの企業群の反映を鑑みると、それらの戦略が成長を牽引する上で効果的であったことは否定できない。

 

一方で、これらのパーソナライゼーションは、インターネットという空間に自分の声を強く反響させるという副作用を生み出した。いわゆるエコーチェンバー現象である。Googleがサジェストするページは、「過去における自分」が重要であると判断した情報であり、Facebookのフィードは、自分と近しい意見を持つもののポストで埋め尽くされる。こうして、インターネットという広大なスペースは、好みや信条によるクラスタに分類され、他者の存在を不可視のものとしていった。リアルな世界であれば必然的に入ってくるであろうノイズや不純物は遮断され、結果として、それはいくつものセクト排除の論理を生んでいった。例えば、俗にネット右翼と呼ばれる集団は、おそらくインターネットなくしては存在しなかったものだろう。

 

こんなことを考えると、Tech Giantsによるパーソナライゼーションは、その成長の代償として、世界における分断を必要としたのではないかという気がしてくる。ちなみに、僕がLinkedin以外のSNSをほとんど使わないのは、そうした地場から極力自由でいたいという個人的な考えによるものである。

 

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ビジネススクール時代の同級生(この前の人とは別)が、某関西のトップ大学で研究をしながら起業を目指すとのこと。任期付きのポジションではあるようだけれど、某トップコンサルのマネージャ職で活躍中と聞いていたので、これまたびっくりしてしまった。大学院での先行が実学だと、こういう道もあるのだなと羨ましく思う。僕もどこかで「シンギュラリティ時代の到来に伴う倫理的課題研究」とかで雇ってもらえないだろうかとか思うのだが、実現可能性は不明である。しかしながら、MBAを取ってしまったがゆえのピアプレッシャーが強くてちょっと困ってしまう。まあなるようにしかならないのだろうが。

Kinda blue

もう25時なのだが、明日2回目のワクチン接種をしたら、おそらくグロッキーになってしまうと思われるので、簡単に思うところを書いておきたい。今日は申し訳程度のアップデートということを事前に断っておく。

 

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3日間のリーダーシップ研修に参加中である。もちろん面白い話やためになるものもあるのだが、今回改めて実感したのは、僕は座学の類が根本的に苦手であるということである。30分くらい人の話を聞いているともう実務に戻りたくなってくる。それがどんなに面白い話しであっても、だ。そういう意味では、高等教育は能動的な取り組みというか、アクティヴに対象に対して向かっていくことが求められる点において、僕には相性がよかったのだろうなと思う。明日も3時間の座学の予定。余談ながら、この研修の裏で、僕が勤める会社のシステムで大きな障害があり、サポート部隊を中心にてんやわんやの騒ぎになっていた。

 

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最近とみに思うのは、子育てという人生の中での一大プロジェクトに、僕はそこまでのめりこむことができなかったな、という諦観のようなものである。もちろん子供たちはかわいい。それでも、例えば子どもの教育や受験を完全に「自分ごと」として捉えるような親には、時間的な意味でも、性格的な意味でもなれなかったように思う。これは僕から親としての資質のようなものが欠如しているということなのだろうか。これから中学受験の天王山を迎えるので、自分なりに最大限のサポートはするつもりだけれども、どこかで「子どもの人生は彼女のものなのだから、最終的には彼女に任せる、任せたい」と思っている自分がいる。なかなか彼女の成績が上向かないのは、僕のコミットメントが欠けているためなのだろうか。

 

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急に寒くなったせいか、それとも雨続きのせいなのか、どうにも気分が上向かずに困る。まあそういう時期なのだろう。こういうときは体を休めて爪をとぐことにする。もうすぐやってくる年末の喧騒に備えて。

夏休み

月曜日から24時を過ぎてしまいげんなりとしているのだが、ここ2週間ほどのログを記録しておく。これ以上時間が過ぎてしまうと、せっかくの夏休みの記憶が頭の奥のほうに沈殿してしまいそうだからである。もう40になろうとしているけれども、「夏休み」という言葉が持つノスタルジーと幻想は、子どもの頃からちっとも変っていない。

 

☆☆☆

 

家族を連れて草津を訪れる。関東にだいたい20年くらいも住んでいるというのに、一度も訪れていなかったことに気づき、若干の高揚感とともに予定を立てたのだが、旅行中はずっとあいにくの雨であった。とはいえ、西日本で発生した水害のことを考えれば、僕らはまだ僥倖であったといえるかもしれない。いずれにせよ、悪天候のために子供たちを外で遊ばせてやることもできなかったため、早々に宿に入って、部屋でのんびりと過ごす。僕はほとんどの時間ルソーを読んでいた。1日目・2日目ともに似たような流れだったのだが、毎日深夜まで働いているせいか、夜になってもなかなか寝付けなかったのには閉口した。慣れない山道の運転が続いたためだろう、東京に戻ったらぐったりと疲れていた。

 

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久しぶりに広島の友人と話す。何年か前に話していたときと比べると、彼は当地での仕事や生活を、それそのものとして楽しんでいるように見えた。もちろんそこに至るまでには、それなりの葛藤や悩みがあったのだろうが、40という年齢でそんなふうに人生を楽しんでいられるというのは、僕から見てもとても幸せなことだと思う。彼がそのために支払っているコストと責任に思いを馳せる――その多くは僕の肩にも同じように乗っているものだ。彼からは東浩紀『ゲンロン戦記』を読むように勧められる。オリンピック、校則、自民党Python、40代のTODOと話題は移り、1時間程度で終了。今度直接会えるのはいつになるのだろうか。

 

☆☆☆

 

高校時代の友人と登山で長野県は駒ヶ根市を訪れる。が、当地に着いたらなんとロープウェイが動いておらず、急遽通常の観光に切り替えることに。普段30分刻みのスケジュールで動いているので、急に半日ものフリータイムができてしまうと若干戸惑ってしまうのだが、それはそれで贅沢と呼べなくもない。夜は修学旅行のノリで、酒を片手にひたすら昔の女の話をする。我ながらどうしようもないことこの上ないのだが、たぶん僕はこの先も一生同じようなことをやっているのではないか。翌日は養命酒の工場に寄る。ここは印象派の絵の題材になりそうな美しい場所であった。僕がまだ22歳くらいで、こういうところで好きな女の子とデートできたら最高だっただろうなと思った。山に登れなかったというのもあるのだが、今回はこの養命酒の工場が一番印象的だったかもしれない。

 

☆☆☆

 

最後の日曜日は、我が家の姫のリクエストに応え、秋葉原ドラクエカフェに行く。例によって、味は並み以下である一方で、価格は大幅にインフレしていてげんなりしたけれども、店内で”Love Song探して”が流れたときにはちょっとホロリときてしまった。この曲を聴くと決まってパスワードを間違える幼少時の記憶が蘇ってくるのだが、僕は僕で、人生の「ぼうけんのしょ」をいくつかリロードできないままに残してきてしまったような気がする。ともあれ、子どもたちはドラクエグッズに囲まれてうれしそうだった。帰り道では、コスプレ姿の少女たちが、明らかに自身の性を商品としてメインストリートに佇んでいた。そして、彼女たちをまじまじと見つめるテストステロンの値が明らかに低そうな男たち。ここもまた世界の果てなのだ、と思った。

 

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以上で今年の夏休みは終了。ほとんど勉強ができなかったことは反省材料である。それでも人生は続く。

波のない日々

真夏の三連休だというのに、信じられなくなってしまうほどに静かな日々が続いている。食事、子どものケア、仕事、読書、インターネットを延々繰り返すという、なんとも波の少ない日々である。特にインターネットをダラダラと見てしまうのは本当に無駄の最たるものなのだが、なかなか完全にやめることができないのは、僕という人間の弱さゆえなのだろうか。一応幽霊アカウントを残してあるfacebookに深夜にログインし、同級生の女の子のページに行って、画面の中にもはや性欲とも言えないノスタルジーを感じているのは、一人の人間として適切な行為なのだろうか。

 

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社内のAPAC地域の全体集会(All handsという)で、短時間ながら僕のビデオが使用された。お題は「あなたにとって、inspiringな人は誰ですか」、というもの。画面の中の僕は、普段よりもいくぶん良い滑舌のよい日本語で、「私の尊敬する人は、サッカー選手の三浦知良選手です」と回答していた。このインタビュー、元々は英語で行われるはずだったのだが、主催者の指示により、「地域ダイバーシティを強調するために、local languageでお願いします」という方針に変更され、結果的には日本語で行われることになった。正直、「みうらかずよしせんしゅがすきです」と日本語で言うのは、英語で同じことをいうより心理的にずいぶんハードルが高い。事実、自宅でこのビデオを録画しているとき、娘は何度も腹を抱えて笑っていた。とはいいつつ、なんとかやれてしまうのは、40前男性なりのそこそこの懐の深さによるものなのかもしれない。20代のころはそれなりにスカしていたので、「バッジョが好きです」というのは言えても、「カズが好きです」というのはなかなか難しかったんじゃないかという気がする。

 

☆☆☆

 

僕より一足先に妻が40代という新しいステージに入り、例年のごとくちょっと瀟洒なホテルでお祝いをする。子どもたちも久しぶりのブッフェに満足している様子だった。妻とは30代にあったあれこれ――その多くはもはや思い出せなくなっているのだが――について、思い出話に花が咲く。30代は仕事と子育てで終わってしまったね、云々。まあおそらくそういうものなのだろう。ともあれ、頑張ったか否かという点であれば、彼女がどれだけ頑張ってくれていたかは僕もよくわかるし、その忙しさこそが我々なりの幸せのひとつの形だったのではないかという気がする。

 

最近の彼女を見ていると、美人は40になっても美人だなとしみじみ思う。惚気ているようで恐縮ではあるのだが。

 

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もう少し戦略論のペーパーを書いて、『ルソーと方法』を読んだら寝る。企業戦略の仕事をしながら、哲学の博士論文を読んでいる人というのは、僕も自分以外にちょっと思い当たらない。

裸族、働く

久しぶりに仕事が22時前に終わった――というか4連休に大量のTODOを先送りした――のだが、まだ寝る気になれないので少し書く。一応コンスタントにこのブログを訪れてくれている人もいるので、そういう人たちに対してインプット(アウトプット?)を続けていきたいという思いのようなものはあるのである。まあ書かれることはあくまで僕の独り言なのだが。

 

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心が曇りがちな日々が続いたので、大崎善生パイロット・フィッシュ』を手に取った。目的としては、「久しぶりに本を読んで泣こう」という安直なものだったのだが、人物描写が薄っぺらすぎて全くリアリティがなく、正直興覚めであった。チェット・ベイカーのような線の細さが魅力と言えなくもないのだが、全体的に「おいなんでそこでしっぽりセックスしてんだよ」というような突っ込みどころに溢れており、無為な2時間を過ごしてしまったような気がした。男の弱さや孤独なんかがまったく書けていないのだ。どうでもいいけれど、こういうときの描写で、どうして「23時過ぎになると太郎はしかるべき処理を行うため、インターネットの海を1時間程彷徨ったが、適切なマテリアルは見つけられなかった。仕方なく、太郎は19の頃の淡い思い出を召喚し、記憶の中のくちびるに包まれた自分を思いながら一人果てた」とかはないのだろうか。

 

結局こうやってまた古典に戻っていくのだろうな、と思った。4連休は久しぶりに『ドルジュル伯』を読もうと思う。

 

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暑くなった一方で、エアコンがあまり好きではないので、最近は基本的に上半身裸で業務を行っている。会議のときだけTシャツを着るというスタイルである。一応ここに落ち着くまではそれなりの逡巡があって、真っ裸なんかも試してみたのだが、どうも仕事中に自分の性器が見えると落ち着かないので、ショートパンツくらいは掃いていたほうがよいという穏当な結論に達した。しかしながら、COVIDによってもたらされた労働環境の変化は本当に劇的なものがあるなと思う。10年前は、「自宅でノラ・ジョーンズを聴きながら、上半身裸で」業務を行うことなど想像すらできなかった。2回のワクチン接種も8月中には完了する予定だけれども、その後毎日オフィスに行くことについて、すでに腰が引けているというのは否定できない。

 

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細切れながら夏休みが来たので、今年はこれから中学受験に向かう娘に負けないようにガリガリ勉強しようと思う。受験生って向かうところが決まっているという点は最高だよな、と思う。