日常としての週末

今週末も時間があると思って、平日に終わらなかった仕事をのんびりと進めていたら(こういうの本当によくないな)、 夕方から家庭内の雑事に時間をとられてしまい、あっという間に24時を回ってしまった。子どもたちが夏休みに入ったために、ロジ関係の調整が増加しており、けっこうな負担になっている。相変わらず心は痛みを発することをやめないけれども、いくつかの痛み止めの音楽を聴きながら、なんとか「普通の暮らし」を続けている。こういう家庭持ちゆえの「普通の暮らし」の閉塞感は、30代前半のころに嫌というほどに味わって、だんだんそれに慣れていったのだけれど、未消化の感情とそれが重なると、心に地縛霊を飼っているような気がしてしまい、若干辛いものがある。

 

とりあえず書きたかっただけなので、特に意味のないエントリである(まあ他の記事も大した意味はないのだが)。明日も実務がかなりしんどそうなので、あと1時間ほど明日の予習をしたら寝ようと思う。月並みも月並みなのだが、家族みんなですやすやと眠るのが、結局一番のストレス解消になっているような気がする。別に戦後核家族という形態を賛美しているわけではないのだが、地に足のついた実感として。

もっと光を

降り続く雨のためにエネルギーレベルが上がってこなかったためなのか、生産性の低い土曜日だった。何年か前に右派の政治家が「生産性のない者は無価値」のようなことを言ってちょっとした問題になっていたが、僕は日々自分に同じことを言い聞かせている。「あるんだよ、いっぱいある、できるのにやれてないことが」――そんな暮らしをもう20年以上も続けている。思えば哲学の勉強をメインにしていたときですら、自分にそんなルールを課していたのだ。二律背反もいいところである。

 

☆☆☆

 

暑くなってきたせいだろうか、また無性に胸の痛みを感じる時期に入った。どうも東アジア特有の高温多湿の時期になってくると、かつてあった透明性――結局そんなものはなかったのだが――が想起されてしまって辛い。そういうわけで、例によってブラームスと『言の葉の庭』のサントラを聴きながらこの駄文を書いている。今年は特にフランス語の学習時間を増やしているため、余計に連想してしまう要素が多いのだと思う。28になりたての僕に、何人もの友人が「すぐに楽になるよ」と励ましてくれたけれども、結局まだ治ってなどいないのである。そういえばあの頃はもっと友人に楽に会うことができていたな。何がそんなにも人と人とを遠ざけてしまうのだろう?

 

☆☆☆

 

7月より配置転換があり、僕はpeople managerから外れることになり、社長室?的な役割のポジションでいくつかのcountry initiativeを担当することになった。元上司からは「いい異動」とは言われているのだが、40という歳で人事管理から外れるというのが果たしていいのかどうなのか、僕としてはなんとも言いかねるところである。

 

まあそれはそれとして、仕事は相変わらずハードで、しばしば理不尽ではあるものの、働きやすさという点ではもうこれ以上求めようもないところまで来ている気がする。3~4あるオフィスのどこに通勤してもよく、もちろん自宅勤務でも問題ないなどという環境がこんなに早く実現するとは思っていなかった。朝起きて「今日はどのオフィスに行こう?」というチョイスができるのはなかなか贅沢だなと思う。

 

☆☆☆

 

明日は久しぶりに富士山に行く。天気が回復するとよいのだが――僕の心の中の天気も。

時代の終わりと一票の重み

子供が習い事をしている時間は、親というペルソナを一時的に離れて自分に戻ることのできる貴重な時間である。日々のハードワークのせいか、エアコンによる自律神経の不調のせいか、はたまた昨日あった銃撃事件のせいだろうか、今日は微妙に体調がすぐれないため、いつも行くカフェを避け、都会の公園の片隅でPCのキーをパタパタと叩いている。いや、理由をあいまいにするのはよそう。僕は一国の首相経験者が一介の市民に暗殺されてしまうというその事実がショックだったのだ――それが体調不良の直接の原因ではないにせよ。別に個人的に彼の信奉者であったというわけではない。彼が行ってきたいくつかの政治的判断やパフォーマンスには疑義が残ったままだし、意図的にメディアに切り取られていたとはいえ、リーダーとして不適切と思われる発言もあった。一方で、ここ10年の官製株高によって僕の資産がいくらか潤うことになったのもまた事実であり、おそらく彼でなくては外交上でのあれほど実績を残すことは難しかったのではないかと思う。賛否両論あるにせよ、影響力の大きい人物であったのは間違いないし、2010年代の日本のアイコンでもあったということだろう。そのイコンは、奈良の街頭で凶弾に倒れ彼岸へと旅立った――僕が2か月前に訪れた街だ。そこにひとつの時代の終わりを見ているのはおそらく僕だけではないだろう。

 

…と途中まで書いたところで、参議院選挙も終わってしまった。毎回のことなのだが、選挙で積極的に「ぜひこの人に投票しよう」という人に会えたことは一度もなく、今回もほとんど鉛筆転がしのような気持ちで一票を投じてきた。自分でも有権者としての自覚の乏しさや責任の欠如のようなものを感じないのではないのだが、就職活動と一緒で、候補者の側も選挙前は調子のいいことしか言わないので、僕のように判断にリソースを割きたくない人間にとっては、党派性以外の候補者間の差異が極めてわかりにくいのである。

 

結果は概ね与党の圧勝と言って差し支えないのだろうが、おそらくここには上述した悲劇への同情票も幾分かは含まれているのだろう。今日の結果からすると、今後数年間、また「増税」「検討」のオンパレードが続くのだろうなと思う。僕は15年ほど前に「日本人が東南アジアに出稼ぎに行く時代」が来るとおぼろげに予想していたが、もうそういう時代に入っているのだろうなと思った。ともあれ、人生は続く。

24時の独り言

相変わらず自動音声でこの記事を書いているのだが、今日ここに雑文を記しているのは、特に何かを書きたいというわけではなく、仕事でクタクタに疲れていることの裏返し、要するに単なる休憩である。コロナで止まっていた海外出張が解禁されたこともあり、お偉いさんが複数名シンガポールから来ていて、その応対で僕を含む下っ端はひたすらエクセルを回しているという状況である。昔に比べて職階も給与も多少上がったはずではあるのだが、相変わらず悲しくなるほど下働きをしており、自分の社会的な位置づけが変わったとは考えにくいというのが、僕の現時点の結論である。それはまあいいとして、5月にあったあの幻の10連休は遥か遠い昔にあった、移ろいやすい夢の一部のように感じられる。そして一方では、夏休みが遥か砂漠の向こうに見える――なにしろまだ2か月近く祝日もない日々が続くのだから。ともあれこの月月火水木金金がずっと続くのは望ましくないので、この金曜日あたりには有給でも取って、本を読んだり、プールで泳いだりするくらいのリフレッシュはしたいと思う。とりとめもないが今日はそんなところである。アーレントは僕のしていることを労働と呼ぶだろうか。それともこれは本来の意味での仕事なのだろうか。

在宅エトランゼ

あまりにも書いてない期間が長すぎて何から書いていいかよくわからない感じなのだが、とりあえずは久しぶりにここに文を投稿することを目標として筆を執ってみたいと思う――というのは言葉の綾で、今僕はこの記事をいわゆる音声入力を使って入力している。もちろん、 PC をカタカタと叩いて文字を入力することの利点というものを分かってはいるけれども、この利便性に慣れてしまうと、それはそれでなかなか離れがたいものがある。僕は職業柄、多くの関係者(主にシニアの偉い人々)に対して多くのショートメッセージを毎日送る必要があるのだが、この音声入力という仕組みによってずいぶんその負担は改善されたような気がする。

 

なぜこんなに記事を投稿できない期間が長くなってしまったかというと単純な話で、この1月から5月まで極度に多忙であったからである。僕のいる会社の特徴として、管理職にかかる負担が過度に大きく、成果物の管理、メンバーの管理、そしてプレイングマネージャーとして諸々の折衝や実務をこなさなければいけなければならなかったことで、余剰の時間をブログに投下する元気も湧いてこなかった。その忙しさも影響しているのだろうか、行き詰まりに近いものを感じるときも若干増えているように感じられるので、やはり何かしら変化を起こさなければならない時期が近づいているのだとは思う。

 

おそらくその気分のためだと思うのだが、最近ちょっとした空き時間にはきまってフランス語の勉強をしている。朝起きてまずフランスのラジオを聴き、シャドーイングをする、あるいはLemondeに目を通し、熟語・単語を暗記する。この歳になって改めて思うのだが、本当にフランス語というものは文句や愚痴、あるいは罵詈雑言の多い言語で、一学習者として辟易させられることが多い。一方で当地に暮らしてるときには知らなかった表現に今でも毎日のように出くわしており、今になってこの「旧・帝国の言語」の奥深さを実感している毎日である。手前味噌な話ではあるのだが、今僕はフランスにいたころよりもずいぶんフランス語が話せるようになっていると思う 。そういうこともあって、次の転機にはぜひフランス語をメインあるいは一定の割合で使うようなポジションを希望したいところだが、おそらく諸々の準備であと1年弱は必要だろう。思えば学生時代の多くの友人が、パリを中心としたフランス各地で一定の爪痕を残している一方、僕はずっとこの島国でキャリアを積んでいるので、その点での若干の劣等感のようなものが心の奥に沈殿していたのかもしれない。ともあれ、この歳になって好奇心の対象とそこに向ける一定のエネルギーを持っていられるというのはそれなりに幸せなことだと思う。そういうものが高等教育の――とりわけ人文教育の――ひとつの意味なのかもしれない。

 

明日からまた平日が始まる。相変わらず在宅が半ば義務づけられた、ともすれば色のない日々だ。それでも前に進む。現実的に前にしか道はないからである。

春を待ちわびて

また久しぶりのエントリになってしまった。結局1月も半ば記憶が飛んでいるくらいに忙しく、そこに中学受験最終フェーズのサポートが入ってきたために、ぜんぜんブログなど執筆する気になれなかった。一応それらをひとつひとつ終えてようやくひと段落という感じではあるのだが、例によってそれら各イベントに付随する疲れが体の奥のほうに積み重なっているような状態なので、今日のところは簡単なアップデートのみ記載しておく。

 

☆☆☆

 

長女の中学受験が終了した。苦戦したものの、一応第一志望群の学校から合格がもらえたのでほっとしているところである。お世辞にもトップスクールとは言えない学校ではあるけれど、今の彼女の学力や精神的成熟度を考えれば、少なくとも及第点であることは間違いない。僕自身、立地も校風も気に入っているし、進学実績だって18歳で駒場にいることを目標にするのでなければ、十分な水準である。実際僕から見ても、ここ2、3か月くらいの彼女はそれなりに熱心に勉強していたと思う。とはいえ、ここ1年を総括してみれば、僕が自分に課しているスタンダードからすると、彼女の受験に向かうスタンスについては甘さばかりが目についたというのが正直なところである。小学生には当たり前なのかもしれないけれども、自分でスケジュールや優先度をコントロールしたり、いわゆるPDCAを回せないという部分はかなりギャップを感じてしまった。そして、僕は性格的に子どもの水準に自分を合わせるのが極度に苦手ということがよくわかった。本当に教師にならなくてよかったと思う。

 

次は僕がステージを変える番である。具体的には、1.5年以内に国外で$200K水準の仕事を見つけること。ようやく本格的に自分に時間を投資できそうなのでわくわくしている。

 

☆☆☆

 

仕事の話。今年からチームの人数が増え、徐々に管理業務に割く時間が増えている。自分でも笑ってしまうのだが、わりと真面目に「外資系マネージャ」的な仕事をしているのである。年相応なのだろうか、これまで人事管理なんて領域はまったくと言っていいほど興味のない領域だったのだけれど、だんだん人を動かすことの喜びみたいなものが少しずつ分かってきた気がする。言ってみれば、「パスの面白みに目覚めた」状態と言っていいかもしれない。しかしながら、就職して15年、いろいろありつつもそれなりに充実感を感じながら仕事を続けられていることに我ながら驚いてしまう。何のオチもない感慨というだけの話ではあるのだが。

 

☆☆☆

 

春がきたら久しぶりに関西に行こうと思う。「東大寺南大門が見たい」という長女の希望と、「USJで遊びたい」という次女の希望に応えるために。そして僕は、ずいぶん前に鬼籍に入ってしまった友人に久しぶりに会うために。まさにこれは「会いに行くわ 汽車に乗って」だな。春はもうすぐそこまで近づいている。

2022

そこそこ長い文を書くのは本当に久しぶりになる。今年の冬休みは13日間と、例年に比べても長めの休暇だったのだけれど、諸々の雑事+子どもの勉強フォローで、予想していたよりもずいぶん忙しく、気がついたら終わってしまっていたというのが偽りなき実感である。一方で、一度仕事が始まってしまうと、必然的にタスクの嵐になり、先週も終了が26時以降になってしまった日がすでに3回あった。まあもうそういうものだと諦めてはいるけれど、改めてタフな仕事だなと思う。

 

年一回目のポストなので、本来であれば今年の目標などを書くのが適切なのだろうが、プライベート・仕事とも繁忙期が続いている感じで、落ち着いて長期のことをあまり考えられていないというのが正直なところである。とりあえず目の前にあるものとしては、子どもに受験を首尾よく終えてもらい、僕は来年に昇進+海外トランスファーが実現できるよう、ひとつひとつステップを踏んでいきたい。少なくもそれらは、今の僕にとってはずいぶんと現実的かつ妥当なターゲットであるように思われる――いささか視点が低いとのそしりを受ける可能性はあるにせよ。

 

☆☆☆

 

新しくフランス語の辞書を買った。Robertやらの研究者向けのものではなく、学部の頃に使っていたPetit Royalの2020年度版である。最近使用されるようになった新つづりに対応しているのが現状この辞書のみというのが表向きの理由だが、実際にはもっと直感的なもので、ただ単に「新しく辞書が買いたかった」だけというのが主たる理由である。歳を重ねたからだろうか、この頃無性に辞書という存在に心が惹かれる。もちろん、電子辞書ではなくて紙のものだ。世界を表象するする言語――それはある意味では世界そのものだ――を両の手でめくるという行為が、いかに贅沢な行為であるのかを理解するのに、僕は40年の年月を要した。4,000円で買うことのできる僕だけのアジール。株取引をしていると手数料に消えてしまうようなささやかな金額だけれども、辞書を買うという行為に付属する金額として考えると、なにかそこには重さのようなものが感じられる。社会人として学習を続けるというコミットメントのようなものがそこに付属しているからだろう。ともあれ、悪くない投資だと思う。