どうしようもない悲しみを癒すにはどうすればよいか

 

今まで誰にも訊かれたことはないけれど、「あなたがこれまでに人生で経験した最も辛かったことを3つ挙げてください」と言われたら、僕はすぐに答えることができる。①親の離婚、②友人の死、③最後の失恋の3つである。この中でも③のダメージは本当に重く、本当に当時は死ぬことを毎日のように考えていた(当時のブログに「MajiでKubi吊る5秒前」とか書いていた)。それからも7年くらいの時が過ぎた今でも、当時の記憶が夢に出てきて、泣きながら目を覚ますことがあるくらいだから、我ながらこれはやはりちょっとしたものである。実を言うと、当時自分がどうやって生きていたかについては、正直ほとんど記憶がない。たぶん日常生活に支障がないように、脳が記憶を制御して、意識の表面に浮かび上がってこないようにしているのだと思う。

 

で、本題に移る。悲しみを抱えながら生きるにはどうすればよいかという話である。よくグリーフケアなんかの文脈でも議論されるいささか硬い論点ではあるのだが、ここでは理論的な話はすっとばして(そういう場ではない)、僕がなんとか生きるために役に立ったものを記す。かつての僕と同じように、どうしようもない哀しみや痛みにさいなまれている人には、少しは参考になるかもしれない。

 

役に立ったもの

 

1. 書く

  • ノートにひたすら書く。Fワードだろうが、あのやろう死ねだろうが、心のありったけすべて書き出す。不思議なのだが、それを繰り返していくと、頭の中にあった不快感の塊みたいなものが概念として整理されて、凝固した痰がのどの奥のほうから吐き出されるような感覚を得られることがある。
    • 理由はわからないのだが、キーボードでタイプするよりは、フィジカルにノートに書くという行為のほうが治癒効果は高い気がする。また、ブログなど公開を前提した場所に書くよりも、あくまで閉じられた場所で、自分のために書いたほうがよい。
  • そして、だいたい吐き出したら、自分が欲しかった言葉をこれまたノートに書いて、自分に与えていく。「がんばったね」とか、「もう大丈夫」だよ、とか。要するに自己完結的な言葉によるオナニーなのだが、これは治癒効果が高いと思う。自分が最も必要としている言葉を知っているのは、たいてい自分だからである。
    • 少し話がズレるが、ジャン=ジャック・ルソーは、妄想に苛まれていた晩年に『対話』という非常にメンヘラ色の強い作品を残している(かつて僕はこの作品を中心にして論文を書いた)。僕が学生だったときには気づかなかったのだが、彼は何よりも自分に対するセラピーとしてそれを書いたのではないかという気がする。
    • また話がズレるが、NAVERまとめにある「失恋したときのビタミン言葉」にも助けられた。「恋を失ったわけじゃない、卒業したんだよ。卒業おめでとう」という一文を見て、深夜に泣いた記憶がある。

2. 話す

  • 要するに友人にひたすら聞いてもらう。僕の場合は、昔の友人を総動員して話を聞いてもらった。そのために岩手県遠野市に住む友人に会いに行ったことは今でも鮮明に覚えている。
    • ただデメリットとしては、そうした友人たちに大量の負のパワーを浴びせることになるというものがある。なので、あまりやりすぎると大切な友人を失うとまではいかなくとも、距離を置かれてしまう可能性がある。
    • 当時深夜まで話を聞いてもらった友人たちには、本当に感謝のしようもない。

3. 抜く

  •  これは男性が失恋したとき特有なのかもしれないが、失恋の辛さ・痛みは性的欲求ととても密接に結びついている。少なくともその痛みの一部は、失恋したことそのものではなく、今抱えているセクシュアルな欲求の対象の不在によって引き起こされるものであるからである。行き先を失ったリビドーは著しい精神的な痛みとして表出する。この痛みを軽減するために、辛くなったら、なるべくさっさと抜く。オカズはなんでもいいと思う。
    • 僕はそういう趣味がないので利用しなかったが、風俗やらソープやらに行くのもアリだと思う。空しくなりそうだけれど。

4. 運動

  • これは当たり前か。僕の場合はランニングと水泳をよくしていた。

 

あまり役に立たなかったもの

 

1. 心療内科

  • 「死にそうなので看て下さい」と行ったら、なぜか説教された。それでパキシルデパスを渡されて終わり。こんなの治療でもなんでもない。もちろん薬は飲まなかった。既得権益ファック、と思った。

2. 読書

3. あまり自分のことを知らない人に話す

  • インターネットで知り合ったお姉さま方にいろいろ話を聞いてもらったのだけれど、結局僕のことをよく知らない人たちなので、どうしても話が一般的なことに終始してしまい、傷を癒されるような感覚はなかった。
    • 神戸の主婦の人に夜話を聞いてもらっていたら、「ねえ、これからテレフォンセックスしない…?」という妙な流れになったことがあった。僕は冬の寒空の中、公園からジャージ姿で電話していたので、もちろん丁重にお断りした。

 

するべきではないこと

 

1 . インターネット(とりわけSNS

  • 相手の名前を検索したり、相手のSNSの個人ページを見ることは当然ながらご法度である。見てしまったが最後、妄想と嫉妬で脂汗が出そうになるからである。
    • これも男性特有かもしれないのだが、僕の場合はその彼女が他の男とセックスしているイメージが繰り返し繰り返し脳内で再生されて、それが本当に辛かった。こういう場合は、前述したとおり、さっさと抜くのが一番良いと思う。
  • これも深夜にやってしまいがちなのだが、自分が求めている言葉を捜して、深夜にインターネット徘徊するのもあまりよくない。たまに珠玉のような言葉に会えることもあるのだが、時間対効果で見ると、あまり効率がよいとは言えない。それなら、自分の深いところにある気持ちとノートを通して自己対話するほうが健全だし、効率がいい。

2. 共通の友人に会う

  • 100%話題に出てくるので、なるべく会わないほうがよい。彼女と会ったよ、みたいな話だと、だいたい嫉妬に苦しむことになる。

 

 

最後にひとつ付け加えておきたいのだが、上記は悲しみを忘れることを意図したものではない。というのも、悲しみというのは、それが純粋なものであればあるほど、おそらく忘れられることのない種類のものだからである。したがって、そうした悲しみを抱えてなんとか生きていくために、具体的にどうすればいいかという問題意識で書かれたのが上記である。

 

ただ振り返ってみると、悲しみを生きるという経験は僕にとって――おそらく誰にとっても――これ以上ない人生勉強の場であったような気がする。たぶん、それを通して僕はいくらか大人になったのだとは思う――人生の有限性や、人の痛みがわかるくらいには。「人生に無駄なことはない」なんて僕にはとても言えないけれど、経験したことからいくらかの学びは得るべきだと思うし、きっとそれが生きることのひとつの意味なのではないかという気がする。

 

僕の知らない、今絶望に打ちひしがれている誰かの参考になれば。