午前三時の地図

なんだか相変わらずこのブログを訪れてくれる人が増えているので、ちょっとしたサービスとしてデッドストックになっていたエッセイを載せる。前職のときの社内報で連載を持たせてもらっていたときのもの。このエッセイの題材となった学生時代の新聞配達でもよく働いたと思うけれど、これを書いていたときもまあよく働いていた。アンチ資本主義を標榜しながら、実際のところ僕は資本主義の世界でしか生きていけない人間ではないかという気がする。

 

☆☆☆

 

学生のころ、留学資金を貯めるため、毎日午前3時に起きて新聞配達をしていた。学校に行きながらではあったけれど、一か月に数日与えられる休日を除けばほぼ毎日5時間程度は働いていたから、実質的には仕事をしていたようなものだった。おそらく若さに伴う傲慢さと体力とがあったからこそ可能だったのだろう。もう一度同じことをやれと言われたらやはり答えに窮してしまうとは思うのだが、振り返ってみると、その時期は自分なりに社会感覚を身に着けることのできた貴重な時期だった。配達作業は社会的に一種のインフラとしてみなされているからなのだろう、良くも悪くもお客さんの種類は、少なくとも午前8時半の丸の内ビルディングなんかよりはずっとカラフルだった。そういうところに勤めているであろうスーツ姿のビジネス・パーソンから職業・生態不明の人、果てはわかりやすく危険な香りがする人まで、ありとあらゆる種類の人々がその世界には生息していた。19歳の僕は、その目に映る人一人一人を自分の鏡として、時に嫉妬し、絶望し、そしてまたあるときにはひとりよがりの優越感を覚えながら――おそらくは大多数の人々が行うように――自分を相対化する術を覚えていった。

 

もちろん今だから思えることだが、当時の僕を支えていたのは、社会に対する漠然とした反抗心であったのだと思う。工業都市に生まれ育ったという生い立ちのためだろうか、スーツを着て電車に乗るという行動様式自体を僕はどこか憎んでいたようなところがあった。想像力の著しい欠如とひねくれた本の読みすぎのためだろう、件の「スーツ」は当時の僕にとって搾取と隷属とを意味する記号でしかなかった。新聞を配りながら「大人は判ってくれない」とつぶやくことをほぼ毎日の日課にしつつ、大学という実世界から切り離された場所でヘーゲルやらマルクスやらを耽読し、一方の自宅ではレディオヘッドを四六時中聴く――そんな生活は、青年特有の健全な反社会性を僕の主観的世界の中に確実に植えつけていった。その点、午前3時にホンダ・スーパーカブを走らせていたことは、「スーツ」という社会に対する反社会性という点を適度に保ちながら、「生きた世界」を学ぶという二律背反を生きるための、自分なりの現実的な――あるいは戦略的な――妥協点であったともいえるかもしれない。ともあれ、その当時の僕の住む世界は、善悪の対立が明確という点においては水戸黄門や幼児向けの戦隊ものにも決して引けをとらなかったと思う。何しろ、スーツ=非・自己、非・スーツ=自己という、ド・モルガン的論法に身を任せれば世界を整理することができたのだから。

 

だが、熱の冷めない恋が存在しないように――当時の僕はそんなことを知るよしもなかったけれど――、解体を許さない個人的主観世界というのもまた存在しない。それを示すかのように、スーパーカブの日々から数年後、僕は髪を切り、その色を黒に戻し、あの忌み嫌っていたスーツに袖を通すようになった。企業の人事担当者に向かって、「私は新聞配達をしていました。早起きもできますし、長時間労働も平気です」と、あまつさえ過去の自分をアピールポイントにすることも厭わないようになった。そして、彼らから悪くない反応が返ってくるたびに、心の中では、「裏切り者め」とスーツ姿の自分を罵る過去の自分の声が聞こえた。「結局お前がしたかったのは、反体制をファッションにして体制の中に割り込んでくることだったんだな」、と。言い方はそれぞれ異なっていたが、当時の教師たちからも、同じような言葉を聞かされたことを覚えている(何しろ哲学畑の人たちである)。そして、残念なことに、過去の自分、そして教師たちがささやいていたことは事実だった――というか、自分が取っていた行動から考えると、事実として認めるしかなかった。もちろん今という観点から見れば、それは人が大人になっていく上での通過儀礼だと一笑に付してしまうことも可能だろう。でも当時の僕は、その「転向」を本当に恐れていた。ジャン=ジャック・ルソーのように、迫害されるものとして石を投げられることを恐れたのではない。僕が恐れたのは、自分がかつての自分からまったく異なったものになってしまい、自分がかつて追いかけていた透明な幻想を黒く塗りつぶしてしまうことだった。スーツによって、僕の魂と記憶は新しく塗り替えられてしまうのかと。

 

そんなことはない――もし今問われれば、僕は過去の自分に対してそう答えるだろう。「弁証法と同じさ。砂糖と醤油と混ぜてだしつゆを作っても、そのつゆの中には必然的に砂糖と醤油が含まれている――いわば世界の摂理として」、と。「紙の新聞を配るのも、その新聞をデジタル化するサービスを提供する会社で働くのも、同じ仕事だという意味ではそんなに違いはないんだ。僕が言いたいのはただひとつだ。変化を恐れず、正しいことをするんだ」。

 

それから数年、幸か不幸か僕の記憶はまだ塗り替えられていないものの、あの午前3時の地図は僕の脳裏でそのリアリティを失い続けている。程度の差こそあれ、時間の風化を免れない記憶など存在しないのだ。今の僕に当時の刻印が認められるとすれば、それは僕の記憶の中ではなく、体の奥に埋め込まれた奇妙な身体感覚の中においてだろう。そのハビトゥスこそが、過去が真実であったこととともに、その過去に沈殿しかけた重要な教訓を今でも僕に語りかけるのだ。「世界は複数だ。スプレッドシートじゃない、現象そのものを見ろ」、と。たった一行の、ちっぽけなその教訓の中に、僕は今でも働く上での、そして生きるうえでのヒントのようなものを探し続けている。地図は風化してしまったのではない。魂の羅針盤にその姿を変えたのだ。