なぜ男性は海外旅行好きの女性を敬遠するのか

ようやく仕事が少し落ち着いて、ビジネススクールへの出願も完了したので、少し書く。出したばかりなのでなんとも言えないところではあるが、出願はけっこうあっさりしたものだった。4年位前、最初にエッセイを書こうと思ったときは、まるでルソーが『告白』を書いたときのように、「私の真実をエクリチュールに…」みたいな調子をイメージしていたのだが、某敏腕カウンセラーと一緒に作っていく過程は、どちらかというと戦略的に学校側に刺さるエピソードを、刺さる方法で書くといったもので、当初思っていたことからするとずいぶんとギャップがあった。まあとにかく面接に呼んでくれることを祈るのみである。

 

☆☆☆

 

「海外旅行好きの女性は婚期が遅れる」という言説は、インターネットを少し覗いただけでもそういう内容の記事がよく見つかるので、そう考えている、つまり「海外旅行を頻繁にする女性を好ましくないと考えている男性」は少なくとも一定数存在するといえる。僕も、例えば自分が今24歳で独身だったとして、四半期に一回海外に行くような人を恋人、あるいは妻にしたいと思うかといったら、たぶん答えはNoなのだと思う。しかしながら、それに対する理由はなんなのだろうと思うと、正直自分でもよくわからないのである。Webの記事を見ると、「金がかかりそう」だとか、「一人でも生きていけそう」だとか、あまり分析的ではない理由ばかりが記載されており、納得感も面白みもない。

 

これに対して、この微妙な嫌悪感について僕が考えた(帰宅中の20分くらい)理由は以下のようなものである。

 

  • 外の世界(=海外)に触れることで物事を知ってしまった女性を、男性は一般的に自分の色に染めにくい女性であるとと考えるため(賢しさの敬遠)。
  • イメージの問題。男性が一般に女性に対して求めるものは、「素直さ」「優しさ」「癒し」「けなげさ」などであるが、海外旅行から連想されるイメージはそうした「男性が女性に求めるもの」と結びつきにくい(むしろ相反している)。

 

たぶん賛同してくれる男性は比較的多いのではないかと思う。①なんかを別の角度から考えると、「男って本当にみみっちい生き物だなあ」と思ってしまうのだが、おそらく日本人の男性の多くは、今でも女性に対して何らかの形での純潔性のようなものを期待しているのではないか(素直さと言い変えてもいいかもしれない)。白無垢なんてものがこの時代にもまだ存在していることがその証左ではないかという気がする。

 

自分でなかなか面白いと思ったのは、経験が純潔を奪うものであるという点において、それ自身が汚れであるという構造になっているということである。これは性的なものだけではなく、あらゆる経験を包括する概念としての経験のことだ。知識にも同じことが言えるだろう(つまり、汚れ≒経験≒知識という構造。ここでの「知識」概念は追加説明が必要だと思うが、長くなりそうなので割愛)。なんだかフェミニストの方々の怒りに勢いよく油を注いでしまいそうな話になってきたけれど、多くの日本人男性の価値観を掘り下げていくと、おそらくそう言えるのではないかと思う。「高学歴女性はモテない」なんていう言説も、そう考えると説明がつく。

 

ここから導かれる結論としては、結局、家父長制時代の価値観は、日本の男性の一定数にまだ根強く残っているということである。そして、そうした男性が「貞淑な妻」を求め、いわゆる「Very妻」に憧れる女性が存在し続ける限り、そこには相互需要があり、旧来の価値観は変わらないであろうということだ。最近では共働き世帯も増えているので、少しずつそういった傾向に変化も見られてはいるのだろうが、そうした家族形態を理想とする男性も、女性に対して一定の純潔性を期待するのはおそらく同じだろう。かくして「海外旅行の多さ」は、汚れ≒経験、もっと言えば「将来の家庭に対する潜在的なコミットメントの低さ」と解釈され、結婚が縁遠くなってしまうのではないかと思う。

 

ちなみに「高学歴女性はモテない」なんて書いたが、僕の周りにいる「えれー高学歴の女の子たち」は、みんなだいたい20代後半くらいであっさり結婚してしまった。僕なんかは、そのあたりの折り合いのつけかたに、「おお、賢い(賢しい、ではなく)」と思ってしまうのだが、いかがだろうか。

 

蛇足ながら、この話はアーレントの「活動」なんかと絡めて分析すると、面白い議論ができるのではないかという気がする(彼女はフェミニズムの文脈では否定的に見られがちではあるが)。

 

☆☆☆

 

次女がひとつ上の学年に上がり、担任の先生が保育園で一番可愛い先生になった(心の中で小さくガッツポーズ)。「子どもはちょっと預けて、今から水族館でイルカショーでも見ませんか」とか誘いたくなるような、魅力的な女の人である。とはいっても、20代前半くらいだろうから、だいたい僕より一回りくらいは年下なのだろう。まあそれはどうでもいいのだけれど、年下の女性を「先生」と呼ぶのはなんとなくエロスが感じられてとてもよい。これはおそらく、ずっと憧れていたが結局実現しなかった、「キレイな家庭教師のお姉さん」への願望が変形したものではないかという気がする。たぶんエロビデオの見すぎのせいである。