統計家と生きる意味

「そもそもなんで統計の仕事を始めようと思ったんですか?」と僕は彼に訊いてみた。

 

「高校の頃だったと思うんですけど」、彼は少し照れ笑いを浮かべながら話し始めた。「人が不幸になるのは、予想できないことが起きたときじゃないかと思ったんです。災害しかり、病気しかり。いくら悪いことであっても、きちんと予想と備えができていれば、その不幸はいくらかおさえることができる。それが統計に興味を持ったきっかけだったと思います」。

 

僕は彼のことがちょっと好きになりそうになった。変な意味ではなく。

 

「で、大学で統計を専門的に勉強しようと思ったんですけど、日本の大学で統計を専門にしている学部を置いているところはない。社会的なニーズはすごく高いし、USやUKだとたくさんあるんですけどね。だから工学部に入って、副専攻のような形で統計を勉強しました」。

 

僕は彼の話を聞きながら、ほとんどロックンロールと女の子、それに自分のことしか考えていなかった高校時代の自分のことを思って、ちょっと恥ずかしくなった。愚かな自分を省みながら、僕はもうひとつ質問を投げかける。

 

「ものすごく激務だと思うんですけど(僕はこの部門の経営管理を担当しているので、残業時間なんかはよく把握している)、それを支えているモチベーションの源は何なんでしょう?」

 

「僕は生きることの意味って、なにかを遺すことだと思うんです」、彼は言う。

 

「例えばそれは…生殖とか、知的資産とか、そういうことですか?」

 

「生きることの意味」という言葉に対して、ちょっと僕は知覚過敏気味である。

 

「遺すものそれ自体は、本当に人それぞれだと思うんです。僕の場合は、仕事を通して、新薬が世に出て、それで助かる人がいるっていうのがやっぱりすごく大きいです。とはいえ、やっぱり「何で生きてるのかな」ってもやもやしちゃうことも多いですけど」

 

僕なんか毎日ですよ、と僕は続ける。ああ、この人かっこいいなあと僕は思った。

 

「生きる意味」――僕はその言葉を反芻する。ここにささやかな文を記しながら。

 

僕は何かを遺しているのだろうか?遺すとはどういうことなのか?たぶん後期のデリダだったら、このテーマだけで一冊の本を遺しただろうなあ、そんなことを考える夏の夜。