クリスマス・イヴ

またしばらく間が空いたら、書くのがずいぶんおっくうになってしまった。ブログでさえそうなのだから、論文を10年書いていない大学教授なんていうのは、正直もう使い物にならないのではないかという気がする。まあ、僕の場合は書けなかったというよりは、とてもそんな時間がとれなかったというのが正直なところだけれど、理由がどうあれ、ブランクというものは然るべき代償を伴うということではないかと思う。

 

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ちょっとGoogle翻訳を久しぶりに触ってみて、クオリティが向上しているのにびっくりしてしまった。ひとつ前のブログのエントリで試してみよう。

 

原文: 「たぶん人生の中で僕はもっといろいろな罵詈雑言にさらされてきたのだろうが、人間の持つ忘却というすばらしい能力によって、それらの多くは少なくとも記憶の表面には残っていない。それでも、いくつかの言葉は決定的に記憶される。シニフィエもレフェランも失った、純粋なシニフィアンとして。そしてそのシニフィアンは、言葉の発せられた元のコンテクストを離れて、現実の個別の状況と結びつき、暴力的に次のシニフィエをつむぎ出していく。まるで切除した悪性腫瘍がほかの部位に転移していくように。記憶された言葉の暴力が根源的に切除されることなどありえないのである。もう傷は傷として記憶されるしかないのだ。そういえば三浦和良がフランスワールドカップ前に代表を外されたときも、同じようなことを言っていたような気がする

 

Googleによる機械翻訳Perhaps in my life I would have been exposed to more abusive phrases, but due to the amazing ability of human forgetfulness, many of them are not at least remembered on the surface of memory. Still, some words are decisively remembered. As a pure signifiant, both Sinifie and Referent lost. Then, the signifiant leaves the original context from which the word was issued, tied up with the individual circumstances of reality, and violently releases the next signifie. As if the resected malignant tumor metastasizes to other parts. It is impossible that the violence of the memorized word is radically excised. The wound can only be remembered as a wound. By the way, when Mr. Kazuyoshi Miura was delegated before the French World Cup, I feel like he was saying the same thing.

 

いかがだろうか。元の文を書いた僕としても、なかなかうまく翻訳できていると思う。最後の箇所(赤字部分)の、”I feel…”は明らかに適切ではないし(僕であれば、”I feel…”を削除して、後ろに”if I remember correctly”を入れる)、”the same thing”というのも微妙だが(同質性が完全に担保されているわけではないので、”similar”の方が適切と思われる)、無料翻訳としてはかなりのクオリティであると思う。もっともこれはなかなか笑えない話で、あと5年くらいして、AIで人間が行うものと遜色ない翻訳が可能だとすれば、その手の職業が早晩社会から必要とされなくなるのは確実である。まあこれは僕が行っているような財務系の仕事にとっても笑いごとではないのだが…。

 

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学校は3週間の冬休み。この間は家族と過ごす時間が少し多めにとれそうだ。とはいえ、例によって容赦なく宿題は課されており、やはり一日3時間程度の学習は続けなければならないと思われる。おそらく重いのは、会計と経済学のレポートで、資料収集と読み込みだけかなり時間がとられてしまいそうである。1月は会社での仕事が相当な修羅場を迎えそうな状況なので、なんとか冬休みの間に貯金を作っておきたいところである。

 

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今日は一応クリスマス・イヴということで、家で子どもたちとケーキを作った。あまり手間をかける気にもなれないので、買ってきたスポンジに、フルーツを乗せて、生クリームをベタベタと塗っただけではあるのだが、これはなかなか楽しい時間だった。おそらく我が家に女の子がいなかったら、こんなことは一生やらなかっただろう。クリスマスの時期については、手作りでケーキを作ったほうが、圧倒的にROIが高いこともわかったので、来年以降もこの方法で行こうかと思っている。有名店の名前を関しただけの冷凍モノを買うよりは、こっちのほうがずっと健全ではないかと思う。

 

そして、これから子どもたちの枕元にプレゼントを置くという今日最後の仕事が残っている。サンタクロースがやってくることを信じているのだ、とても純粋に。「幻想を紡ぐ」というのは、親という職業のjob descriptionの中でもそれなりに重要度が高い項目なのだろうな、と思う。おそらくそれが、彼女たちの素直さを育むために必要不可欠な条件のひとつだからだ。少なくとも親として、ささやかな幻想を子どもたちには届けてあげたいと思うし、おそらくは彼女たちはそれを真摯に必要としているのだと思う。

 

自分という人間が立派などとは口が裂けても言えないけれど、親として彼女たちの未来や成長を考えるとき、そこには何かしら汚れなきものが含まれているような気がする。そんなことを考える、2017年のクリスマス・イヴ。