失われた感性と日常のNice to haveたち

また前回のエントリから2週間が経過してしまった。いつも書いていることだが、時間の流れは本当に早い。大人の暮らしはただでさえルーティンに陥りやすいのに、例によって行動範囲が極端に制限されているせいで、生活全体がマンネリ気味になっているのは如何ともしがたい。元々はこれくらいの年齢でキャリアの舵を大胆に切ろうと思っていたのだが、どうにも動きがとりづらい状態になってしまい今に至っている。正確に言えば、今でも無理すれば動きを起こせないこともないのだろうが、リスク・リターンを冷静に考えると、今という状況はあまりにも分が悪い。そういうわけで、いささかの飽和感を感じながらも、少なくとも平日の5日間は、しばしば睡眠時間を削りながらPCを叩き続けている。状況が状況なので、仕事があって、報酬にも特に影響が出ていないことがどんなに恵まれていることかというのは僕もよくわかっているのだが、今の状態を維持することが自分にとって是かと言えば、僕としての答えは否ということになる。

 

とはいえ、だんだん子どもたちも大きくなってきて、少しずつ自分の時間と呼ぶべきことが日常に返ってきはじめているのは喜ばしいことだ。子どもが親離れしていくのに寂しいという気持ちがないわけではないけれども、ここ10年ほど、自分を尖らせるための時間を確保することは著しく困難だったから、自分を健全な孤独に追い込めることのありがたみは身に染みてわかっているつもりである。一回のサラリーマンとして働いている自分でもそこに一定の葛藤があったのだから、創造的な仕事を生業としている人であれば、こうした日常の雑事が足かせになってしまうという感覚はより大きいのではないかと思う。

 

それにしても暗く、重苦しい世の中だ。いや、重苦しいというのは正確ではない――大東京という街にはあまりにも不似合いなほど、街が閑散としているのだ。空白といってもいいかもしれない。1929年のニューヨークもこんな感じだったのだろうか。しばらくして、この歴史的な事態が収まったあと、僕はいつか懐かしくこのカフカ的な街の風景を思い出すのだろう。そして、人もまばらなその風景の中でも、僕は地味に日常のnice to haveを改善していく――Philips電動歯ブラシを導入したり、作業スペースにホワイトボードを導入したり。それらは決してめくるめくような体験ではない。でもそうしたささやかなnice to haveを実践する以外に、今の我々に何ができるというのだ?