Gloomy Weekend

土曜日だというのにまた仕事をしている。週明けの火曜が最終レビューなのだが、ここまで作りこんできた資料に、金曜夜に50件ほどのフィードバック・修正依頼が入ったために、正直途方に暮れているところである。おそらくは明日もほぼ一日作業になるだろう。なんとも気の滅入る状態ではあるが、Spotifyからひたすら流れ続ける音楽はこんな日も僕に優しい。例えば、All the things you are古今東西の名演をあれこれひたすら流し続けるなんてことが1クリックでできるというのは、四六時中音楽を必要としている僕にとって夢のような話である。

 

☆☆☆

 

秋の気配が感じられてきたからだろうか、またフィッツジェラルドを読み始めている。昨晩は『冬の夢』を初めて読んだのだが(自分としても意外である)、主人公と自分を重ねて泣きそうになってしまった。現代の小説よりも、100年前の物語のほうがずっと迫ってくるものがあるというのは、本当に不思議なものである。おそらく、僕自身があの不幸なギャツビーが信じた、いや、生きるために信じるしかなかった「緑の灯火」を追い続けているからなのだろう。考えてみれば、ジャン=ジャック・ルソーも晩年、同じように無為ともいえる努力をしていた。では、彼らがそこに費やした膨大なエネルギーと思いは、どこに行ってしまったのだろう?現代人の目から彼らをドライに見ると、「ROIの低いことにリソースをかけても無駄」ということになるのだろうが、そうした部分を合理的に割り切れない愚かさにこそ惹かれてしまうのもまた人間だろうし、だからこそ優れた作品が生み出されてきたのだろう。では僕は信仰にも似たその思いを何に昇華すべきなのだろうか?

 

☆☆☆

 

[ここから日曜分。昨晩もう少し書こうと思ったのだが、どうも乗り切れなかった。]先週の大阪での幼児虐待死のニュースは本当に目を覆いたくなるようなものだった。亡くなった子にご冥福を、加害者には厳罰を、などという紋切型の反応で片付けられるようなものではない。自らで自らを救う手段を持たない子どもに対する暴力を、エコノミーの言葉で整理するのはそれ自体が暴力の一種である。ソンタグRegarding the Pain of Othersの中でそんなことを言っていたような気がする。いずれにせよ、僕がどういったことを考えようと、またどんな言葉を重ねようとも、ひとつの小さな命が理不尽に奪われてしまったという事実は不可逆である。おそらく僕ができることは三つだ――祈ること、自分の子どもを守ること、あまねく子どもたちが守られる社会制度に思いを馳せること。最後のはもう少し具体的なアクションプランに落とせるとよいのだが。

 

☆☆☆

 

30代もあと1か月と少しで終わってしまうので、次回あたりでこの10年を振り返る記事を書いてみたい。公私ともに大変な10年だったけれども、さすがにその一言で済ませるのはあまりにも乱暴だし、自分の中で一種の儀式として整理をしておきたいからだ。