センチメンタル師走

本来であれば年末で猫の手も借りたいような状態になっているはずなのだが、最終レビューの日が年明けになってしまったこともあり、嵐の前のような状態になっている。というわけでさほど忙しいわけでもないのだが、越えるべきマイルストーンを越えていないような気がして、なんだか落ち着かない心持ちである。だからというわけではないのだが、半ば月間連載――にしては内容がリッチとは言えないけれども――になっている、このブログに思っていることを記しておこうと思う。

 

☆☆☆

 

何の脈絡もないのだが、若干時間があったので、某AIツールにJudy and Maryの”Kyoto”を英訳してもらった(我ながら何やってるんだという感じである)。ちなみに、この場合著作権上どういう扱いになるのか不明だけれども、某管理団体から連絡がくるようなことは多分ないのではと思っている。

 

閑話休題。上記のアウトプットは以下のとおりである(1コーラス分のみ)。

 

I'll journey to meet you, aboard a steam-driven dream,

Through countless dawns, when blossoms gleam.

Laughter born from tears' fatigue,

Our hands entwined, a bond we keep.

Before the season's last breath sighs,

I'll trace the clouds in your skies.

Before deep slumber claims my soul,

Your voice I'll cherish, keep it whole.

Look! As windows part their veil,

Spring's reverie rushes in, without fail.

 

これをざっと読んだ第一印象は、「僕には書けない」というものであった。また、そのクオリティについて確かなことはわからないけれども、少なくとも詩のエクリチュールの体を成しているように見える。少なくとも僕が原曲の元の詞を読むときに感じるはかなさ――日本人の多くが桜を観るときに感じるそれ――は、一定程度ここには表現されているように感じられる。” Our hands entwined, a bond we keep”なんて、なんとも健気でキュンとしてしまうではないか(40代にもなってこんなことを言っていていいのだろうか)。

 

翻って、僕は英語についてこうした種類の文をあまり読んでこなかったという反省があり、それが書くとき・話すときの表現力の乏しさにつながっているような気がする。今年も例によって冬休みはそれなりの長さがあるので、「日本語の詩的表現は英語でどう表現される(しうる)のか」については、自分なりに検証してみたいところである。個人的に気になっているのは、稲葉浩志的ダメ男は英語にうまく乗るのか、という問題系である。このあたりであれば、2週間くらい調査すれば学部の卒論に近いものくらいは書けそうな気がする。

 

☆☆☆

 

というわけで今年の労働日もあと数日。上記のエピソードに意図的に関連づけようと思ったわけではないのだが、年末には京都に向かう予定。結局僕はいろいろ前向きな未来を語りながらも、どこまでも過去に惹かれてしまう性質なのだろう。あるいは、40代の声を聞いたことで、センチメンタリズムに自分を浸す余裕が出てきた、というべきなのか。

 

☆☆☆

 

本記事でも一部言及したが、AIについてはまた年末年始に項を改めて書いてみたい。

繁忙期

まったく時間がない。というわけで、ここを見ている方々への生存証明シグナルとしてのみ、このささやかなエントリを書いている。

 

現在23:30。本日中のタスクがもうひとつ。EOD締め切りだからあと3時間中くらいに仕上げればよいと自分に言い聞かせる。しかし40代にもなってこんな働き方をしていてよいのだろうか。とかくこの世は住みにくいとは本当によく言ったものだなと思う。

 

 

 

神様のいない月

今に始まった話ではないし、毎回毎回同じようなことばかり書いているのだが、やはり文を毎日書けるような状態ではない。これは精神的にどうこうという話ではなくて、単純に現実的に処理するべきタスクとこなすべき自己研鑽(と言っていいのか)を優先すると、毎週このような文を書いている時間が現実的になくなってしまうということである。久しぶりに筆をとったというのに、こんな言い訳から記事が始まっているのはまったく情けなくはあるのだが、まあ人生というのはだいたいそんなものである。

 

というわけで、自分の人生の備忘録として、ここ1か月ほどにあったことを書き留めておく。

 

☆☆☆

 

昨年と同じく東京ヤマソンに参加。同僚と元同僚と3人、山手線に沿って約40kmほどをジョギング&ウォーキング。当日は10月とは思えない暑さだったけれども、それゆえに一日半袖で過ごすこともでき、なかなか高揚感の高い一日を過ごすことができた。新宿を通ったときにピコ太郎が踊っているシーンに出くわしたのが個人的なハイライトである。

 

☆☆☆

 

新社長がやってきた(が、公式発表はまだされていない。つくづく変な会社である)。というわけで、ここ1か月はそれにまつわるバタバタの対応に追われ気味である。少なくともここ数週間に限れば、僕のしていることにほとんど戦略的な要素などなく、総務というか雑務が生活の中心になってしまっているような感さえ受けてしまう。一方で、外資系は得てしてその手の機能が弱いことが多いので、そのあたりで小回りの利く動き方ができると重宝されるというのは、僕がキャリアの中で得たひとつの知見ではある。

 

☆☆☆

 

勉強を英語に切り替えた――というと語弊があるのだが、総合的に考えて、やはりフランス語よりは英語のほうがはるかに向こう10年ほどの自分にとっての有用性が高そうであることを鑑み、語学学習のすべての時間を当座英語に投下することにした。これについては稿を改めようと思う。

 

このトピックに関してひとつ付記しておきたいのは、Nikkei Asia News Roundupに時々ゲストとして出演しているSayumiさんの発音が素敵であることである(Let’s delve into the headlinesの”delve”あたりの発音が個人的な好みだ。あまり人には理解されそうにないが)。

☆☆☆

 

時々Twitter上で見かけていた「なまえちゃん」という女性の方が亡くなったとのことで、若干のショックを受けている。直接面識はないのだけれど、興味関心領域がほぼ同じということで――人文系の人間はおそらくはお互いをすぐに同種として認識することができる――、少なくないシンパシーを感じていた。彼女と彼女の人生を彩った周りの方々の心に早く平穏が訪れますように。「でも忘れなくてもいいんだよ」、僕ならそんな言葉をかけるだろうか。

流されゆく日々

また人生が流れ出しているのを感じる。10代や20代のころのようなドラマじみたものではない。静かに画面が移り替わる古い映画のように、人生の場面がそっと展開されてゆくような日々だ。

 

☆☆☆

 

娘が高校は英語圏で過ごしたいという。いくつかの可能性を探ったけれども、どうやら2年間はカナダもしくはアメリカに留学させるということになりそうである。もちろん親として彼女の希望を叶えてあげたいとは思うし、応援したいのだが、けっこうなさみしさを感じてしまって自分自身驚いている。無理もない、15年近くもずっと傍で暮らしてきたのだから。ここ数週間ほど、今の平凡な日常が妙にいとおしく思えてしまうようになったのは、おそらくそのせいだろう。

 

☆☆☆

 

妻がオンラインサロンという名のネット上の集まりのようなものに時間を割くようになっており、若干心配している。話を聞いた限りでは、マルチか何かにしか聞こえないのだが…。一方で、人が自分の信じたいものしか信じないというのもよくわかっているので、どう介入すればよいのか、まだ答えは見つけられていない。

 

☆☆☆

 

故郷で32年ぶりに父親と会う。そんなことがあったらおそらく自分は泣いてしまうだろうと思っていたけれども、久しぶりに友人と会うのとあまり変わらなかった。焼き肉を食べながら、32年間に起こったことについてぽつりぽつりと話す。その口調は、僕の記憶の中の父親の像よりも、いくぶん控えめなものであるように感じられた。否応のない時の流れ。「また会おう」と握手。正直、まだ幾分頭が混乱している気がする。僕はどこにいるのだろう、と。

 

☆☆☆

 

楽しみにしていたグリモーの来日は、彼女のコロナ罹患により中止に。リサイタルまで2週間以上時間があるのだから、予定変更する必要はないようにも思うのだが、おそらく彼女一流のこだわりのようなものがあるのだろう。

一人の夜

ほぼ一日一人の時間がとれたのは、いつ以来になるだろう。思い出せないのだが、そういう状況でないとできないことがあるのは確かだ。当然ながら、家族で過ごすのに比べて多くの可処分時間があるからである。とはいいつつ、今日はほぼ一日会社の仕事にリソースを割いていたので、働いているんだか休んでいるんだか、自分でもよくわからない状態である。

 

ともあれ、久しぶりにこのスペースに立ち寄る――というのが適切かどうかわからないのだが――ことができたので、ここ数日のことを簡単に振り返っておこう。

 

☆☆☆

 

昨日は山の日ということで、家族で高尾山に出かけた。自分がまさか休日に家族で山に登るような大人になるなんて、20年前にはまったく想像もできなかった。人生とはつくづく数奇なものだ。暑さのせいだろうか、リフトも山道もさほど混んでおらず、無事に家族で山頂までたどり着くことができた。なんというか、小学生があたりさわりのない絵日記を書くにはおあつらえ向けの一日という感じであった。

 

☆☆☆

 

3月に飛行機の中で見た『ドライブ・マイ・カー』がなかなか印象的だったので、久しぶりに村上春樹による同名の短編集を手にとった。『猫を棄てる』を除いて、彼の本を読むのは本当に久しぶりだったけれども、良くも悪くも文体やプロットからの印象は、僕がまだ学生だった頃に受けたそれとさほど変わらなかった。もちろん、書き手は本人にしかわからない逡巡を経て執筆に向き合っているのだろうが、一人の読み手としては、作者が大人になるというか、一生活者として生きることを拒否している――し続けている――ような印象を受けた。一方で、『猫を棄てる』の乾いた文体は、覚悟にも似た等身大としての書き手の思いや姿を見事に浮かび上がらせているから不思議なものだ。その差は、おそらくは作者がふたつの作品の間に向き合ったであろう葛藤が生み出しているものではないかという気がする。

 

☆☆☆

 

だんだんこのブログが不定期連載のようなものになりつつある。他の優先事項があるので仕方がないということもあるのだけれど、もう少し違う観点から考えてみると、おそらくはこの場所に僕が当初期待していたような役割は、もう僕にとって必要ないものになってしまったということではないかと思う。幸か不幸か、蒸し暑い夜に過去の記憶に苛まれて、何かを書かずにはいられないというような時間は、僕にはすでになくなってしまったからだ(時間は薬とはよくいったものだ)。一方で、この細々としてはいるけれども時に饒舌な(であった)自分の独白は、僕自身にとっても30代から40代にかけての貴重な記録になっている。そこにもう少し年輪を刻んでいきたいという思いはあるので、この身勝手で独りよがりな連載を、気の向くままにもう少し続けていこうと思う。

A hard day's night

書きたいことはいろいろあるのだが、なにせ時間がない。もはやOn/Offの切り替えなどというものは存在しておらず、仕事・家事(育児含む)・自己学習の3つをひたすらジャグリングして暮らしている。今年の夏はがっつりとフォークナーを読もうと思っていたのだが、来年以降の暮らしを考えると、ひたすら英語・フランス語を鍛えることで終わってしまいそうな感じだ。一方で、最近は深夜に音読をすることが人生における唯一の趣味のようなものになりつつある。昔より手元の小銭はずいぶん増えたのだけれども、物欲と呼べるようなものはすでに風前の灯のような状態なのが悲しいところである。なにしろ最近感銘を受けたものとして、やよい軒のねばとろ定食が一番に浮かんでしまうくらいだから、あとはもう推して知るべしというところである。

 

久しぶりに気の利いたエッセイでもひとつ書きたいのだが、相変わらずプライオリティの波に追われているということで、今日はここでもう失礼することにする。おやすみなさい。

あまり書くこともないのだが

例によってアップデートが滞るのもあまり望ましくないので、このページを知っている方々への生存シグナルの意味も込めて、簡単に書いておく。別に書くことがないわけではないし、もし自由な時間がじゅうぶんに与えられたのであれば、日常のあれやこれやを書き散らすことはいくらでもできるのだろうが、結局優先順位の問題で日常の雑事にかまけて、あまり深夜にキーボードをたたく気になれないことが多い。別の言い方をすれば、そうする必要がないほどに、今の僕の生活は自己充足的なものになっているとも言える。良くも悪くも。

 

来週は人生初の1日入院。別に特別な感情もないのだが、体を大事にしなければいけないなあととみに思うようになってきた今日この頃。まあ年相応ということだろう。

 

9月のグリモーのチケットが取れたのが今の心のよりどころみたいになっている。生でシャコンヌ聴いたら泣いてしまいそうである。終演後に一言二言でも会話するチャンスでもあればというのは妄想しすぎかしらん。