本来であれば年末で猫の手も借りたいような状態になっているはずなのだが、最終レビューの日が年明けになってしまったこともあり、嵐の前のような状態になっている。というわけでさほど忙しいわけでもないのだが、越えるべきマイルストーンを越えていないような気がして、なんだか落ち着かない心持ちである。だからというわけではないのだが、半ば月間連載――にしては内容がリッチとは言えないけれども――になっている、このブログに思っていることを記しておこうと思う。
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何の脈絡もないのだが、若干時間があったので、某AIツールにJudy and Maryの”Kyoto”を英訳してもらった(我ながら何やってるんだという感じである)。ちなみに、この場合著作権上どういう扱いになるのか不明だけれども、某管理団体から連絡がくるようなことは多分ないのではと思っている。
閑話休題。上記のアウトプットは以下のとおりである(1コーラス分のみ)。
I'll journey to meet you, aboard a steam-driven dream,
Through countless dawns, when blossoms gleam.
Laughter born from tears' fatigue,
Our hands entwined, a bond we keep.
Before the season's last breath sighs,
I'll trace the clouds in your skies.
Before deep slumber claims my soul,
Your voice I'll cherish, keep it whole.
Look! As windows part their veil,
Spring's reverie rushes in, without fail.
これをざっと読んだ第一印象は、「僕には書けない」というものであった。また、そのクオリティについて確かなことはわからないけれども、少なくとも詩のエクリチュールの体を成しているように見える。少なくとも僕が原曲の元の詞を読むときに感じるはかなさ――日本人の多くが桜を観るときに感じるそれ――は、一定程度ここには表現されているように感じられる。” Our hands entwined, a bond we keep”なんて、なんとも健気でキュンとしてしまうではないか(40代にもなってこんなことを言っていていいのだろうか)。
翻って、僕は英語についてこうした種類の文をあまり読んでこなかったという反省があり、それが書くとき・話すときの表現力の乏しさにつながっているような気がする。今年も例によって冬休みはそれなりの長さがあるので、「日本語の詩的表現は英語でどう表現される(しうる)のか」については、自分なりに検証してみたいところである。個人的に気になっているのは、稲葉浩志的ダメ男は英語にうまく乗るのか、という問題系である。このあたりであれば、2週間くらい調査すれば学部の卒論に近いものくらいは書けそうな気がする。
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というわけで今年の労働日もあと数日。上記のエピソードに意図的に関連づけようと思ったわけではないのだが、年末には京都に向かう予定。結局僕はいろいろ前向きな未来を語りながらも、どこまでも過去に惹かれてしまう性質なのだろう。あるいは、40代の声を聞いたことで、センチメンタリズムに自分を浸す余裕が出てきた、というべきなのか。
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本記事でも一部言及したが、AIについてはまた年末年始に項を改めて書いてみたい。