ろくでもない日のブラームス

Bad hair dayというのは女性が好んでよく表現らしいのだけれど、まだ実際の会話で聞いたことがない。たぶんアメリカで暮らしたことがないせいだろう。まあそれはそれとして、今日の僕は本当に何をやっても裏目に出る、そんな日だった。仕事でいくつかのヘマを犯し、情報共有の遅れをとがめられ、帰宅したら娘に尿でスーツを濡らされる――そんなろくでもない一日だ。”Everything happens to me”の追加1コーラスにでも書けそうな日である。その追加された部分を僕のためにもし誰かが歌ってくれるのであれば、アニタ・オデイがいいなあと想像する。彼女の歌う” A Nightingale Sang In Berkeley Square”を、数年前から僕は愛聴している。甘い曲だ。

 

甘い曲といえば、今僕はこの記事を、グールドのブラームスを聴きながら書いている。グールドといえばバッハという、おそらくは人口に膾炙した先入観を僕も長く持ち続けてきたのだけれど、とある人の勧めで、この稀代の変態ピアニストの弾く晩年のブラームスを最近初めて聴いて、その世界観にすっかり魅了されてしまった。おそらくはそう人と変わらないチョイスなのだとは思うが、やはり僕もop. 118-2にもっとも心魅かれる。珍しくリンクなんか貼ってみよう。僕が聴いているグールドによる同曲の演奏だ。

 

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描かれた世界は、ポール・ユーンの文体を思わせる。決して雄弁ではなく、けれども寡黙というわけでもない。ピアノは確かにそこにある何らかの感情を語っている。おそらく、嵐はすでに過ぎ去ってしまったのだろう――怒り、嘆き、悲しみ、憂い、いやもしかしたらそれは、激しい恋愛感情だったのかもしれない。事実、老年にさしかかっていたブラームスは、生涯の思い人であり、人生と音楽の師でもあったクララに、この曲を含む6曲の間奏曲を捧げている。ある人はこの曲の中に、暖炉の前で語り合う老年のブラームスとクララを見出している――この上なく親密な二人を。身勝手に相手を束縛しようとしているわけでもなく、性的なものを求めているわけでもない。でもそれは、おそらくは共に感情の波を泳いだ男女の間でしか共有できない感情ではないかという気がする。パッセージは優しく、むやみに美しい。過ぎ去っていったものへの慈しみが痛いほどに伝わってくる。そういえば、ずいぶん秋も深まってきたけれど、こんなに秋の似合う曲もないよなあと思う。

 

久しぶりに音楽について語ってしまった。そんなろくでもない日の夜。