徹夜でマグマ

久しぶりに徹夜をした。経済学のレポートの仕上げを朝までしていたのが理由である。前にしたのがいつだったかはっきりとは思い出せないけれど、ずいぶん前であることは確かだ。このレポートについては、5人のグループでの提出という体裁で、僕は全体の編集という役割になっていたため、どうしても最後まで時間がかかってしまう。それにしても、高等教育をきちんと受けたネイティヴの読みに耐えうる質の英語を書くというのは、やはりノン・ネイティヴにとって相当ハードルが高い。僕が修正した英語は、提出前に(夜中の1時くらいから)、チームのシンガポールの女の子にメタメタに直され、結局その作業は朝の5時半くらいまで続いた。ずっとSkypeをつないで、「ここはどういう意味?」「これは…ってことなんだけど」というようなやり取りをしていたので、ぶっ続けで説教をされているような気がした。夜通し説明を求められた上に、必死こいて書いた英語を修正され続けるというのは、やはりなかなか辛いものがある。しかも年下の女の子にである。そういうわけで、この日も「こんなの日本語だったら瞬殺してやるのに…」と何度も悔しい思いをした。ライティングももっと鍛えなければならないなあ。とりあえず、Grammerlyにはすぐに登録することにした。

 

翌朝は例によって活蔘28を一本飲んでから出勤した。眠気のピークを超えたからなのか、勤務中はほとんど眠気を感じなかった。人間ってすげえなと思った。

 

☆☆☆

 

久しぶりに「マグマ」を聴く。中3から定期的に聴き続けている数少ない音楽である。単純に計算すると、21年間自分のプレイリストから一度も漏れたことがないということになる。ちなみにCDは2枚を聴き潰してしまったので、今手元にあるものは3回目に購入したものである。僕はこれまでそれなりにいろいろな音楽を聴いてきたと思うけれど、人生でこのアルバムを超える音楽というか、自分という人間の内部にダイレクトにくい込んでくる音楽にはまだめぐり合えていない。よしんばこれからそうしたものにめぐり合う機会があったとしても、それが自分の中でこのアルバムと同じような地位を獲得するかといえば、そういうことはまずないだろう。10代の特権であるスポンジのような感性を、僕は当の昔に過去に置いてきてしまったからである。それに、なんといっても、失意のとき、悲嘆のとき、失恋のとき、いつもこのアルバムは僕の傍にあって、生きることの意味を教えて続けてくれた。おそらくは十代のうちにそんな音楽にめぐり合うことができたという事実に感謝すべきなのだろう。1曲の「冷血」は、個人的には人生のテーマソングとすら呼べるものである。

 

それにしても、音楽にせよ、小説にせよ、結局昔通ったものばかり繰り返している。感性の幅みたいものも、その大枠は20代前半くらいまでに決定されてしまうのかもしれない。単なる感性の堕落と呼ぶべきなのかもしれないけれど。まあ仕方ない、時間のない世の30代に、もっと感性に投資せよというのは、あまりに酷ではないかという気がする。

 

☆☆☆

 

この週末も片付けと勉強。3月末くらいまでの予習をまとめてしておきたいところ。春が僕に、花粉のほかにもいくばくかの希望でも運んできてくれればいいのだが。生きろ、生きろ、もっとひたすらに。