村上訳『グレート・ギャツビー』を読む

久しぶりの一人の夜だ。ジムでたっぷりと汗を流し、簡単に夕食を済ませ、今日するべきことを書き出す。このブログのアップデートもその中のひとつだ。というわけで、好きな音楽をちょっと大きめの音でかけながら、この記事を書いている。

 

☆☆☆

 

読んだ本。F. フィッツジェラルドグレート・ギャツビー』、村上春樹訳、中央公論社、2006年。

 

『グレイト・ギャツビー』を読むのは4回目である。一度目は野崎訳、二度目は原著(が、難しすぎて途中でリタイヤ)、三度目は小川訳でそれぞれ読んだ。三者の訳業を比較すると、村上訳は良くも悪くも訳者の色が最も強く出ており、文体がいくぶん彼の小説のそれに近づいてしまっているように思う。その点、村上春樹の文章(特に2000年以降の)を気持ちよく読むことのできる人にとっては、三つの中では最良の訳と呼べるかもしれない。僕自身は、『海辺のカフカ』より後の氏の仕事にはやや批判的ではあるものの、やはり彼一流の文章のリズム感というのは、今なお他の作家には求めがたいものであると思う。ただ、もし『グレイト・ギャツビー』を初めて読みたいのだがどの版がよいかと訊かれれば、僕はおそらく小川訳を推すと思う。賛否両論あるだろうが、小川訳が日本語として最も読みやすいと思うからだ。

 

で、肝心の内容である。僕自身馬齢を重ねたからなのだろうか、前に読んだときよりもずっとギャツビーが近しく感じられた。たぶんこの男がどこまでもバカだからである。頭も切れる、ルックスもいい、金も有り余るほどある(多少あくどいことに手を染めているせよ)。にもかかわらず「昔の女が忘れられない」の一点張りで、ダメ男全開である。たぶん僕がニックの立場だったら、「なあ、お前だったらいくらでも旬の女を抱けるだろうよ。考え直せよ」とでも言うだろう。でもギャツビーにはそれができない。過去の女、デイジーは彼にとって「陶酔に満ちた未来」の象徴であるからだ――それがすでに過去に属しているのもかかわらず。そしてそれは、世の中の決して少なくない数の男が抱いている幻想でもある。

 

そしてこの不幸な主人公は、過去であり未来であるこの女を手に入れるために、あらゆる努力を尽くしてしまう。これだけの才気がある人物が、そのエネルギーを社会のために使ったらどれだけの貢献ができただろうと思わず考えてしまうほどの努力を。だが、少なくとも本書に記されているデイジーの姿は、およそその努力に見合うものではない。彼女は上流階級の出自ではあるものの、軽薄で、気分屋で、思慮深さもかけらも感じられない人物である。今の時代だったら、連日パーティーにうつつを抜かして、インスタあたりに「ウエーイ」とか写真でも上げているだろう。正直、見ていてイライラさせられるようなタイプの女なのだが、そういう女に男性が惹かれてしまうというのはよくあるケースである(僕も経験がある)。これはもう不幸としかいえないのだが、多くの男は、人生で一度はこのファンタスムに取り付かれてしまうのだ。おそらく作者自身似たような幻想を持ちつつも、それを冷笑的に客観視することで、この優れた作品が生み出されたのだろう。

 

僕が今回気になったのは、世の中の多くの男性は(とりわけひどい失恋の経験がある男性は)、多かれ少なかれ自分をギャツビーに重ねることができると思うのだけれど、女性はこの小説をどう読むのだろうということだ。『グレイト・ギャツビー』を手に取るような、多少なりとも文学に興味のある女性が、デイジーのようなfemme fataleに自己を重ねるというのは、僕にはあまり想像がつかないのである。僕がまだ女性のことがわかっていないのかもしれないけれど。

 

 最後に、これはどの訳でもそうなのだけれど、第九章終盤の流れるような文体は本当にほれぼれとしてしまう(当然、原文も非常に美しい)。個人的には、ルソーの『夢想』、「第五の散歩」を髣髴とさせる文章である。全体を読むのはおっくうという人でも、最後の5ページくらいを味わうだけで、この非常に優れた小説の「つまみぐい」くらいはできるのはないかと思う。