気がついたらもう連休の最終日になってしまった。月日が経つのは早い――と言ってしまえばそれまでなのだが、今年は特に家にいる時間が長いこともあって、例年とはやや異なった心持ちでこの時期を迎えている。歴史の転換点に立っていると言うと大げさだが、パラダイムシフトの中を生きているのだという、切実さを伴った実感とでも言えばいいのか。ただ、僕はその変化を概ね好ましいものだととらえている。もちろん、現在の状況が多くの人々に甚大な被害を出していることはわかっているので、そんなことは大きな声では言えないのだが。
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仕事の話。今年に入ってから、戦略関係の仕事に加えて、ライティング関連の業務をまとめて任されている。ビジネスの概況や課題、解決方針などを数ページでまとめて、本社CEO以下のお偉いさんに報告するというのが主たる業務である。英語のレポートはこれまでもけっこう書いてきたし、自分でも好きな部類に属する業務だとは思うけれど、どちらかというと英語を自己流で勉強してきた自分が、アメリカ人(超ハイソサエティ)を相手にしたレポーティングなんかを任せられていることを思うと、なんだかこれはちょっとしたものだなと思う。考えてみれば、曲がりなりにも哲学で修士号を取ってから、半ば自分の中で「書く」という行為を封印していたのだが、人生とは不思議なもので、ここにきてまた「書くこと」が日常の中に入り込んできたのである。もちろん、二つの世界で要求されるエクリチュールは、まったく異なるものだ。哲学の――とりわけ現代思想の――文体には一定の流麗さとレトリックが求められる一方で、ビジネスの文脈では、後期のデュラスのようなシンプルな文体で、ファクトを明晰に記載することが要求される。もちろん、ふたつの間に優劣をつけるつもりはない。興味深いのは、自分が「ビジネスのエクリチュール」を書いてしまうときにどうしても癖として出てしまう人文系育ちゆえの癖である。至る所でパラフレーズを試みようとしてしまうのが典型的だが、そういった仕草は、ビジネス文書では(というか、僕が勤める会社のレポーティング・ルールでは)あまり好まれるものではないように思う。この、「自分はわざとやっているわけではないけれども、どうしても出てしまう癖や雰囲気」というのは個人的にけっこうツボで、女の人にそういう部分があるとやたらと魅力的に見えてしまう…。とまあ話が脱線したが、「書く」ことが日常のハビトゥスとして帰ってきたという話。
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この1か月は僕も思うことが多く、あらためて家族と時間を過ごせることの素晴らしさや、時間の大切さを身に染みて実感することになった。これまで、どれだけ多くのリソースを犠牲にして働いてきたのか、ということも。どこかで時間の切り売りの連鎖を止める、あるいは緩和する必要があるということだろう。結局僕が毎日深夜まで働いてギリギリのアウトプットを出し続けても、誰の得にもならないからである。それよりももっと、実体のある、持続可能な働き方にどこかでシフトしなければならないのだ。朝早く起き、手短に朝食を済ませて、午前中一杯デスクワーク、午後はライフワークと少しばかりの趣味に取り組んで、夜は家族とゆっくり過ごす――僕も人並みにそういった暮らしに憧れるようになった。40代半ばにはそちらにシフトしたい――のだが、案外コンクリートジャングルでの殺伐とした暮らしを続けていそうな気もする。