在宅エトランゼ

あまりにも書いてない期間が長すぎて何から書いていいかよくわからない感じなのだが、とりあえずは久しぶりにここに文を投稿することを目標として筆を執ってみたいと思う――というのは言葉の綾で、今僕はこの記事をいわゆる音声入力を使って入力している。もちろん、 PC をカタカタと叩いて文字を入力することの利点というものを分かってはいるけれども、この利便性に慣れてしまうと、それはそれでなかなか離れがたいものがある。僕は職業柄、多くの関係者(主にシニアの偉い人々)に対して多くのショートメッセージを毎日送る必要があるのだが、この音声入力という仕組みによってずいぶんその負担は改善されたような気がする。

 

なぜこんなに記事を投稿できない期間が長くなってしまったかというと単純な話で、この1月から5月まで極度に多忙であったからである。僕のいる会社の特徴として、管理職にかかる負担が過度に大きく、成果物の管理、メンバーの管理、そしてプレイングマネージャーとして諸々の折衝や実務をこなさなければいけなければならなかったことで、余剰の時間をブログに投下する元気も湧いてこなかった。その忙しさも影響しているのだろうか、行き詰まりに近いものを感じるときも若干増えているように感じられるので、やはり何かしら変化を起こさなければならない時期が近づいているのだとは思う。

 

おそらくその気分のためだと思うのだが、最近ちょっとした空き時間にはきまってフランス語の勉強をしている。朝起きてまずフランスのラジオを聴き、シャドーイングをする、あるいはLemondeに目を通し、熟語・単語を暗記する。この歳になって改めて思うのだが、本当にフランス語というものは文句や愚痴、あるいは罵詈雑言の多い言語で、一学習者として辟易させられることが多い。一方で当地に暮らしてるときには知らなかった表現に今でも毎日のように出くわしており、今になってこの「旧・帝国の言語」の奥深さを実感している毎日である。手前味噌な話ではあるのだが、今僕はフランスにいたころよりもずいぶんフランス語が話せるようになっていると思う 。そういうこともあって、次の転機にはぜひフランス語をメインあるいは一定の割合で使うようなポジションを希望したいところだが、おそらく諸々の準備であと1年弱は必要だろう。思えば学生時代の多くの友人が、パリを中心としたフランス各地で一定の爪痕を残している一方、僕はずっとこの島国でキャリアを積んでいるので、その点での若干の劣等感のようなものが心の奥に沈殿していたのかもしれない。ともあれ、この歳になって好奇心の対象とそこに向ける一定のエネルギーを持っていられるというのはそれなりに幸せなことだと思う。そういうものが高等教育の――とりわけ人文教育の――ひとつの意味なのかもしれない。

 

明日からまた平日が始まる。相変わらず在宅が半ば義務づけられた、ともすれば色のない日々だ。それでも前に進む。現実的に前にしか道はないからである。