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35の夜 (reprise)

­­もう少し早く書きたかったのだけれど、いつものとおり日々の雑事に忙殺されてしまっていた。そうなると、夜にあまりPCを開こうという気になれなくなり、いきおいブログを書くということもなくなってしまう。まあ昼間10時間くらいPCを見ているのだから、そのほうが自然と言えば自然である。

 

そういえば、先日尾崎豊の映像を観ているときに、今の僕の状況は「35の夜」なんてふうに歌えそうだなと思ったら(「退屈な授業」を「退屈な会議」に変えるわけだ)、やはり同じようなことを考えた人がいたようである(以下のリンク先を参照)。でも「盗んだパンツ」というのはあまりリアリティがないような気がする。「盗む」というのは盗む対象が存在しているという点において少年的であり、35歳にはあまりそぐわないように思う。もう盗もうと思うようなものさえ、多くの35歳には存在していないのではないか――かといって満たされているというわけでもないのだろうけれど。

 

http://blog.livedoor.jp/n_mina/archives/1130662.html

 

☆☆☆

 

会社で席替えがあり、僕の四方がすべて女の人になった。座席表を見た瞬間、どぶろっくの「女女女」が頭から離れなくなってしまい苦笑してしまった。女性が多い会社なので、まあそんなに不思議なことでもないのだけれど、これはなかなかのプレッシャーだな…と思っていたら、働きはじめるとこれがなかなか心地よい。女の人が周りに多いと、それなりに紳士的に振舞おうという気になるので、なんというか業務中の生活態度にハリが出るのである。これは僕の個人的な傾向なのだろうが、女の人のほうが話しやすいという点もある。それにしても久しぶりに香水をつけて会社に行ってしまったりしていることを考えると、男というのは本質的にコドモでありバカなんだなあとしみじみ思う。

 

☆☆☆

 

久しぶりに『断片的なものの社会学』を風呂でぱらぱらと読む。『街の人生』もよかったけれど、個人的にはこちらのほうが好みだ。著者がおそらくはこれまでの人生で感じてきた痛みや矛盾と、対象に対する優しいまなざしが、そのまま文章の息づかいとして表れている。流麗な文章や卓越した比喩があるわけではないけれど、文体が素朴なぶんだけ、そこには人生の重みのようなものが感じられる。個人的には、「手のひらのスイッチ」が一番好きだ――というか読んでいて少し苦しくなってしまうのだけれど。僕はこれまでの人生で、どれだけのものを捨てて、どれだけの人を傷つけてきたんだろうな。文章を追いながら、そんな答えのない問いについて僕はしばらく思いをめぐらせていた。いい本だなあとしみじみ思う。

 

☆☆☆

 

今週は久しぶりの出張。お客様のところに謝罪と説明に行くということで、今説明のロジックをガチガチに作りこんでいるところである。それにしても、調整・説得・説明が仕事のうちで相当な比重を占めるようになったなあと思う。まあ35歳を生きるとはそういうことなのだろう。でもやはり、盗むようなものはもう存在していない。

SNSはなぜ孤独感を生むのか

旧い友人がこの春に一冊の本を出版し、僕がかつて属していた世界(思想村)はそのことでちょっとした盛り上がりを見せた。まあ哲学書の類と言っていいだろう。狭い世界なので、世間で話題になるというようなレベルではなかったけれど、少なくともその世界では、彼はちょっとした有名人になった。それを遠くから横目で見ていて、なんだか僕はその彼がずいぶんと遠くに行ってしまったような気がした。10年前にはよく二人で飲みに行っていたのになあ、と。

 

☆☆☆

 

SNSが孤独感の温床になるという現象については、すでに多くのウェブサイトで論じられているし、専門家による統計的な調査結果も多く報告されているので、その現象が実際に生じていることについて疑いの余地はないだろう。なにより僕も実際にそういう孤独感を体験したことがある――というかむしろそういう感情にさいなまれていたし、それが5年ほど前にSNSから足を洗った理由のひとつである。しかしながら、「なぜSNSの使用により孤独感が増すのか」という現象については、少なくともWebに上がっている記事で、僕に説得力のある説明をしてくれているものはこれまで存在していなかった(専門家による先行研究はしっかりと追っていないが、ブログなのでご容赦されたい)。そういうわけで、その理由について少し考えてみようというのがこの記事の主眼である。

 

ここでは分析の対象を「友だち」という関係に限定しよう。「恋人」という極めて複雑な関係についてなにかを述べるには、このスペースはあまりにささやかにすぎるように思われるからだ。

 

ある友人と関係を築いていくとき、通常その関係は一定のカテゴリの中に収斂する。高校時代からの友人だったら「高校の友だち」、テニスを一緒にする友人だったら「テニス仲間」というように。話す話題も、友人ごとにだいたい決まっているのが普通だろう。僕の場合、高校時代一緒にバンドをやっていた友人とは、今でもメタリカなんかの話をするし、サッカー仲間とはやはり今でもサッカーの話をする(ちなみに女の子についての話は誰とでもする)。要するに、現実の人間関係を築いていくときには、お互いにすべてを見せ合うというよりは、お互いの趣味の合う部分同士をすり寄せあう中で、互いを知っていくというのが一般的であるという話だ。少し哲学の文脈に近づけてみると、そうした関係性の構築過程においては、友人がこちらに見せている顔の一面性において、主体がかかる関係を一定のカテゴリの中に位置づけているという意味で、友人は主体に対する即自存在として表象されているといえる。ある意味では主体の暴力によって、友人は主体に対するその役割を決定されており、主体にとって友人の横顔や後ろ姿が問題になることはない。サルトルの文脈でいえば、一面性をベースとした友人関係という「本質が実存に先立」っているのである。意味は前もって与えられている(Pre-sens)のだ。バンド仲間はバンド仲間なのである。

 

ここでその友人とSNSで友人になった場合を想起してみよう。スクリーンを通して映される彼の姿は、なによりもその全方位性によって特徴づけられる。主体にとって「バンド仲間」であった彼は、同時に父親であり、ベンチャー企業の社長であり、この週末は熊本でボランティアをしている…。SNSが人を描くとき、程度の差はあれ、それは必然的にキュビズム的な要素を伴う。SNSに映された彼の姿は、原則的に360度に対して公開されているからである。これは、現実の友人関係が一点透視図法的な構図によって特徴づけられるのときわめて対照的だ。

 

では画面の中に映される友人の姿は、その彼が現実の世界に対してそう意味されるような、しかるべき姿として表象されるだろうか?答えはもちろん否である。SNSが映し出すのは、現実の彼の全体像ではなく、彼が世界に対して自分をそう認識させたいと欲望する像の全体像であり、したがって、その像には必然的に一定の虚飾が含まれる。ここではすでに友人の実存は問題ではない。サルトルの金言に倣えば、SNSにおいては、「欲望が本質に先立」っているのである。生きるために必要なものだとはいえ、欲望というのはお世辞にもあまり美しいものとはいえない。ましてそれが全方位的な目くばせのもとに欲望される欲望であるとすればなおさらである。

 

そして主体はSNSにおいて彼の友人であった人物を、いや、かかる友人の公開されたものとしての欲望を見る。欲望というものが現実の社会生活においてあらわになっていないことが、ますますそのいびつさを際立たせ、主体にとっての友人の像と、スクリーンに映し出されている友人の欲望との間に決定的なずれを引き起こす。主体にとっての「それは=かつて=あった」は棄却され、主体にとっての友人のシニフィエであるPre-sensは、友人のいびつな欲望によって「上書き保存」されることで、不在のものとなる。結局、SNSが表象するのは、友人の存在ではなく、その彼との現在における距離であり、彼の不在であり、そして主体の疎外である。それがおそらくは、SNSという世界の根本的な性質、限界であり、主体がそこに孤独感を覚えるのは必然なのである。

 

☆☆☆

 

冒頭の旧い友人が出したその本をやや粗めに一読し、彼にメールで感想を送る。「久しぶり、ありがとう!」との返事。なんだ、距離は10年前と何も変わっていないじゃないかと思った。「今度金沢で呑もうよ」と僕。

 

孤独感へのささやかな癒しと、しかるべき距離の回復。人間関係はこうでなくちゃな、と思った。

 

B’zの”calling”的な構成で書いてみた)

 

村上訳『グレート・ギャツビー』を読む

久しぶりの一人の夜だ。ジムでたっぷりと汗を流し、簡単に夕食を済ませ、今日するべきことを書き出す。このブログのアップデートもその中のひとつだ。というわけで、好きな音楽をちょっと大きめの音でかけながら、この記事を書いている。

 

☆☆☆

 

読んだ本。F. フィッツジェラルドグレート・ギャツビー』、村上春樹訳、中央公論社、2006年。

 

『グレイト・ギャツビー』を読むのは4回目である。一度目は野崎訳、二度目は原著(が、難しすぎて途中でリタイヤ)、三度目は小川訳でそれぞれ読んだ。三者の訳業を比較すると、村上訳は良くも悪くも訳者の色が最も強く出ており、文体がいくぶん彼の小説のそれに近づいてしまっているように思う。その点、村上春樹の文章(特に2000年以降の)を気持ちよく読むことのできる人にとっては、三つの中では最良の訳と呼べるかもしれない。僕自身は、『海辺のカフカ』より後の氏の仕事にはやや批判的ではあるものの、やはり彼一流の文章のリズム感というのは、今なお他の作家には求めがたいものであると思う。ただ、もし『グレイト・ギャツビー』を初めて読みたいのだがどの版がよいかと訊かれれば、僕はおそらく小川訳を推すと思う。賛否両論あるだろうが、小川訳が日本語として最も読みやすいと思うからだ。

 

で、肝心の内容である。僕自身馬齢を重ねたからなのだろうか、前に読んだときよりもずっとギャツビーが近しく感じられた。たぶんこの男がどこまでもバカだからである。頭も切れる、ルックスもいい、金も有り余るほどある(多少あくどいことに手を染めているせよ)。にもかかわらず「昔の女が忘れられない」の一点張りで、ダメ男全開である。たぶん僕がニックの立場だったら、「なあ、お前だったらいくらでも旬の女を抱けるだろうよ。考え直せよ」とでも言うだろう。でもギャツビーにはそれができない。過去の女、デイジーは彼にとって「陶酔に満ちた未来」の象徴であるからだ――それがすでに過去に属しているのもかかわらず。そしてそれは、世の中の決して少なくない数の男が抱いている幻想でもある。

 

そしてこの不幸な主人公は、過去であり未来であるこの女を手に入れるために、あらゆる努力を尽くしてしまう。これだけの才気がある人物が、そのエネルギーを社会のために使ったらどれだけの貢献ができただろうと思わず考えてしまうほどの努力を。だが、少なくとも本書に記されているデイジーの姿は、およそその努力に見合うものではない。彼女は上流階級の出自ではあるものの、軽薄で、気分屋で、思慮深さもかけらも感じられない人物である。今の時代だったら、連日パーティーにうつつを抜かして、インスタあたりに「ウエーイ」とか写真でも上げているだろう。正直、見ていてイライラさせられるようなタイプの女なのだが、そういう女に男性が惹かれてしまうというのはよくあるケースである(僕も経験がある)。これはもう不幸としかいえないのだが、多くの男は、人生で一度はこのファンタスムに取り付かれてしまうのだ。おそらく作者自身似たような幻想を持ちつつも、それを冷笑的に客観視することで、この優れた作品が生み出されたのだろう。

 

僕が今回気になったのは、世の中の多くの男性は(とりわけひどい失恋の経験がある男性は)、多かれ少なかれ自分をギャツビーに重ねることができると思うのだけれど、女性はこの小説をどう読むのだろうということだ。『グレイト・ギャツビー』を手に取るような、多少なりとも文学に興味のある女性が、デイジーのようなfemme fataleに自己を重ねるというのは、僕にはあまり想像がつかないのである。僕がまだ女性のことがわかっていないのかもしれないけれど。

 

 最後に、これはどの訳でもそうなのだけれど、第九章終盤の流れるような文体は本当にほれぼれとしてしまう(当然、原文も非常に美しい)。個人的には、ルソーの『夢想』、「第五の散歩」を髣髴とさせる文章である。全体を読むのはおっくうという人でも、最後の5ページくらいを味わうだけで、この非常に優れた小説の「つまみぐい」くらいはできるのはないかと思う。

 

アフリカ料理

連休である。とはいっても相変わらずの平常運転であるどころか、例によって休日出勤も入っている。日本で鯉のぼりが上がっていようと、アメリカ人もシンガポール人もそんなことには構ってくれないので、まあこのあたりは宿命として受け入れるしかないのだろう。もう少し早くここに記事を書きたかったのだが、あまり精神状態がよくない状態が何日か続き、半ば失語症のようになっていたので、少し遅くなってしまった。例によって疲れているのだろう――その言葉の持つあらゆる意味において。

 

☆☆☆

 

連休前ということで、渋谷にある、こじんまりとアフリカ料理の店で友人と呑む。こういう料理文化の区分においても、アフリカ諸国についてはだいたい十把ひとからげに「アフリカ」の一語で括られてしまう。結局かの大陸は、まだサイードが批判したような、「他者のへのまなざし」から逃れられていないのだろう。まあ僕は僕で、「すいません、コンゴについては、モケーレ・ムベンベくらいしか知りません」とか話していたので、無意識の差別に加担しているのかもしれない。

 

こういうとき、久しぶりに会う友人と話すのはだいたいいつも同じだ。最近あったこと、昔の友人と会った、あいつらは今…している、等々。僕の同年代あたりで研究の道に進んだ人たちは、このくらいの年代がアカデミック・ポストを得られるかどうかの瀬戸際なので、そういう話が多くなる。でもまあ、僕にとってはすべてが過ぎ去ってしまったものなので、正直あまり興味が持てない。10年会っていない旧友がどこで働いていようが、僕としてはどうでもいいのである。彼らがそこそこ幸せに暮らしてくれていれば、それでいいのだ。

 

だんだん酔いが回ってくると、饒舌になってくる。「お前、酔っ払うといつも昔の女の話ばっかりしてるよなあ」と呆れられる。相変わらずどうしようもない。どうしようもないなりに、濃く苦いコーヒーをぐっと飲み干して、なんとか正気を保つ。

 

「きっと働きすぎなんだよ」、友人が言う。そんなことはわかっているよ、と思う。

「同年代の女友達がほしいなあ。一緒にカラオケに行って、「白いカイト」歌ってくれる子。どっかにいないかなあ」

「お前相変わらずアホだな」

 

そんな感じで渋谷の夜は更けていった。連休前の街は人でごった返していたが、残念ながら雑踏は僕の心の隙間を埋めてはくれなかった。

 

☆☆☆

 

連休なので、ずっと読みたかった村上訳の『グレイト・ギャツビー』を読もうと思う。ここ3年くらい時間ができたら読もうと思っていたのだが、読み始めたらしばらくその世界から返ってこられなくなるという思いから、ずっと読むのを避けていたのである。おそらくこれを読んでまた僕は泣いてしまうのだろう。なにしろ冒頭の一行で胸が震えそうになってしまうくらいなのだから。読み終わったら例によってここに感想でも書こうと思う。

 

ちなみに、Amazonのレビューで、この本を「失恋した男のための本」と評している人がいた。さもありなん、と思った。

ちょっと遅れてサクラサク

というわけで、合格通知がやってきて、秋から予定どおりビジネススクールに通うことになった。このご時勢にMBAを取得することの意義やら、自分なりの考えなんかはまた近々この欄で論じてみたいのだが、春のパワポ祭りでちょっと疲れているので、また日を改めてゆっくり書いてみたいと思う。まあプログラムが始まるまでまだ半年くらいはあるので、それまでにしっかり準備をしっかりしておきたい。さしあたってするべきこととしては以下のとおり。

 

  • 奨学金申し込み(エッセイ書く。またかよ)
  • 学費振込み(局地的円高求む)
  • 英語強化。そろそろWSJあたりの年間購読でも申し込んでもいいかもしれない。日本語を読むように英語を読む必要がある。
  • 主要科目予習。会計系の科目は問題ないと思うが、統計と定量分析はしっかり予習をしておく必要がある(と思う)
  • 日本文化(とりわけ会社文化)についての本を読む

 

いつも思うのだが、こう書き出しても結局いつも同じことを書いている。おそらくこのあたりが、僕の人生における基礎トレーニングのようなものなのだろう。

 

それにしても、35歳にして人生で初めてプライベートスクールに通うことになったというのは、なんだかとても不思議な気分だ。私立の学校というのは、ずっと僕には縁のないものだと考えていたし、どちらといえばネガティヴなイメージがあったからだ(今でもKO大学なんかにつきまとう、キラキラっとしたイメージなんかは苦手だ)。まああどうでもいいのだけど。

 

ともあれ、僕にとっては新しいチャレンジである。きっと11月のマドリードは悲しくなってしまうほどに美しいのだろう。マドリードというと、どうしても僕はプラド美術館→ベラスケス→「ラス・メニーナス」→フーコーという連想をしてしまうのだが、もうこの思考回路自体が病気の一種なのではないかという気がする。

 

面接終了

とりあえず志望校との面接は終わった。面接官はアメリカ人の女性。東海岸系のアクセントの人で、やわらかな物腰の中にもインテリジェンスが感じられた。レジュメを見る限りでは僕より3、4歳若い人だと思うのだけれど、欧米の女性で30歳を超えている人だと、自分よりはずいぶん年上に見える。

 

相手がどう思ったかはよくわからないけど、僕としてはまあ短い期間でよく準備して、なかなかよいパフォーマンスができたと思う。内容としては、まあ定番の”Why MBA?”やら、”Why our school?”あたりの質問が7割程度で、あと3割がちょっと変わり種系のものだったと思う。具体的には、

 

  • 子どもをテクノロジーに慣れさせるのは大事なことだと思うけれど、同時に人間らしい感情を育むのもすごく大事なことだと思うの。子どもを育てる中で、そのためにあなたが心がけていることはある?
  • 自然に触れるのは人間としてすごく大事なことだと思うけれど、あなたは週末に東京を離れてそういうところに行くようにしてる?東京はもちろんすごく都会だと思うんだけれど、そういうところにすぐにアクセスできる?
  • 最近、旅はしている?あなたがこれまで訪れた中で一番好きな国は?その理由も教えて。

 

あたりである。どれも予期していなかった質問ではあったものの、まあなんとか適切に回答はできたと思う。たぶん人間としてのバランス感覚のようなものを見ているのだろう。その点、面接というよりはちょっとお見合いめいたところがあった。ちなみに、僕の経歴に関しては、「あなたはユニークなキャリアね…フランス哲学からテクノロジー、ファイナンスで製薬…たぶんあなたとバックグラウンドが重なる人はあまりいないと思う」とのこと。ちなみに、僕もこれまでの人生の中で同じような人には会ったことがない。

 

☆☆☆

 

一校しか受けていないということもあって、結果が出るまで次の動きもとれないのだが、一週間くらいは体をゆっくりやすめようと思っている。というわけで、しばらくはジムで長めのジョグをしたり、鍼治療に行ったりして、地に足の着いた生活を送ろうと思う。しかしながら、グローバル・リーダーシップなんかの大仰な言葉で自分を語った後に、そそくさと鍼治療の予約を入れているあたりが、なんとも僕の人生らしいなあという気がする。

 

とりあえず今日はもう早く寝よう。

町内会という名のカオス

雨の中、地元の――というか今住んでいるところの――町内会に参加する。「桜まつり」という名目だったのだが、残念ながらその日は一日中雨が降り続いていたので、実際には「周辺住民が集まって飲み食いをする会」とでも呼ぶべき様相を呈していた。自分の人生を振り返ってみると、こうした有象無象の老若男女が集まる場というのは中学時代くらいを最後に日常の中に登場しなくなっていたのだが、一定の場所に根を張って子どもを育てていると、土着的な人間関係に最低限のリソースを割くことは避けられなくなってくる。この町内会もそういったもののひとつと呼んでいいだろう。そういうわけで、この局地的な坩堝が20年ぶりくらいに僕の目の前に現れてくるようになったのである。

 

僕の前には80歳くらいのおばあさんが座る。『千と千尋』の湯婆婆を気持ち優しげにしたような感じの人だ。彼女が僕に話しかける。

 

 「あなた、どこに住んでるの?」

 「クリーニング屋とコンビニの間のあたりです」

 「日比野さんの家のアパート?」

 「いえ、アパートじゃないです」

 「日比野さんの家の旦那さんね、外に女作って逃げ出したのよ」

 「はあ」

 「それでね、日比野さん…(以下略。覚えてない)」

 

とまあ、午後1時というのにショットでウオッカ5杯飲んでます、くらいにドライブがかかっている。隣の奥様からは、「娘が隣のクラスでお世話になっています」と丁寧に挨拶される。僕も当然「いやはや、こちらこそお世話になっています」と返すが、本当にそうなのかさえ不明である。湯婆婆は相変わらず「向こうに座っている人がこのあたりの地主さんなのよ」とか、独り言なのか僕に対する言明なのか判別できないことを口走っている。よくわからないままにスーパードライをちびちびを飲んでいると、国会議員の人がやってきて握手を求められる。もうドストエフスキーポリフォニーとでも呼びたくなるような状況である。

 

改めてこういう場に着てみると、自分が日常的に生活している場ではある程度の同質性が担保されているのだなあとしみじみと思う。どっちがいいとか悪いとか言う話ではないけれど、多数の世界が同時に存在しているというのは、厳然たる事実なのだ、と。35歳になった今でも、その単純な事実には驚かずにはいられないものがある。いや、35歳になったからこそ、世界が複数であることの素晴らしさも、そしてそのことのおぞましさも理解できるようになったということかもしれない。

 

☆☆☆

 

もうすぐ面接日なのだが、若干間延びしてしまっている感があり、あまり練習に身が入らない。直前になってしまうと、なぜかモチベーションが落ち気味になってくるのは、昔からの僕の悪い癖である。まあもう少しだ、がんばろう。