37歳の打算

3連休は個人的な作業をいろいろ進める予定だったのだけれど、日ごろの疲れと子どものフォローに追われ、やはりこの二日の作業進捗は好ましくない。「とにかく30代はアクティヴに」ということを意識して、都内でも最も交通の便にすぐれたエリアに居を定めたはずなのだが、沼のような日常の中に僕はどっぷりとはまり込んでしまっている。そんな中で、チームの女性が――彼女はまだ独り身だが――ベラルーシやらスリランカやらに軽々と出かけていくのを見ていると、羨ましいとは思わないにせよ、なかなかうまくいかないものだなと思う。

 

☆☆☆

 

だんだん中学受験周りが騒がしくなってきた。明日も予備校?の話を聞きにいく予定。正直言って、自分がまったく経験していない分野なのでほとんど手探りなのだが、どの業者に話を聞いてもホラーストーリーで攻めてくるので、聞いていて疲れてしまう。一方の僕は僕で、フーコーなんかかじって、教育とは国家的訓練のシステムであり…とか言っていたわりに、やっぱり子どもにはそれなりのところには行ってほしいという思いはあるわけである。結局これは予備校と親との打算の上に成り立つビジネスなのだろうな。

 

☆☆☆

 

マウスをトラックボール式のものに変更した。かなり素晴らしい。

伊勢

久しぶりに伊勢に行く。前に行ったのはもう何年前になるだろう?家族をかの地に連れていくのは、ここ5年ほど僕の目標のひとだっただけに、妻と子どもを連れて早朝の外宮の鳥居をくぐった時には、なかなか感慨深いものがあった。神社を訪れるのは元々好きなほうなのだが、今回このタイミングで伊勢を訪れたくなったのは、どこかしら出口のないように思われる日々に救いのようなものを求めていたのかもしれない。それくらい僕は資本主義の檻のなかに深く入りこんでしまっている――何しろ、資本主義を推進していくのが仕事なのだから。

 

帰りは名古屋に寄ったのだが、こちらではあまり動けず。都会の観光は子ども連れだとなかなか難しい。

 

☆☆☆

 

相変わらず疲れているのでこのくらいにしておく。明日は横浜でオフサイト。毎日毎日追われ続けたままで、僕は本当にどこかに行けるのだろうか。サラリーマンというフィールドでは、程度の差はあれば結局似たような人生なのではないかという気がする。だからこそ次の舞台へ。

時間泥棒

いつの間にか夏が終わろうとしている。ピークの時の暑さはそれなりではあったけれど、夏と呼ぶのが憚られるくらい、短く、ささやかな夏だった。北海道へ家族旅行に行った時間を別にすれば、僕はコンクリートジャングルの真ん中で嫌になるほど仕事をしていた。これまでのキャリアの中でも、盆の時期にこれだけ集中的に仕事をしたのは初めてだと思う。なにしろ毎晩毎晩25~26時まで毎日PCを叩いていたくらいなのだから。会社が求めているものなので仕方ないのだが、こんな時期に丑三つ時近くまでしゃかりきになって働いていると、さすがの僕もご先祖様に申し訳ない気持ちになってくる。ともあれ、そういうドタバタした日々が、37歳の僕のリアリティであり、日常である。会社の人々は、いつも僕に「頭を使え、それがお前の仕事だ」と言ってくるけれども、そういう環境で本当に頭を働かせたら、「なぜ働くのか?」とかそういうメタな方向にばかり行ってしまいそうな気がするのだが、それは僕があまりにも疲れているだけかもしれない。

 

 閑話休題。我ながら、相変わらず仕事の話題が多く、面白みのない人間になっているような気がする。たぶん実際そうなのだろう。なけなしのプライベートの時間はほとんど家族とのそれに充てているから、深い部分の自分と向き合うなんていう贅沢は今の僕にはほとんど許されていないのだ。考えてみればこれはとても残念なことである。ベートーヴェンピアノソナタ31番を聴いて、「ああ…」とようやく思えるようになった自分に、じっくりとひざを突き合わせて話合うことを放棄しているにも等しいからだ。おそらく自分の内面は、何年も人が住まなくなった家の庭のように、雑草だらけの状態になってしまっている――子どもが生まれて以来、僕はそれを放棄してきたのだ、人生における宿命的な優先順位付けのために。そして、おそらくは、僕は少しずつその手入れを始めねばならない。手のかかる作業だ。

 

たぶん必要なのは、まとまった一人きりの時間だ。21歳の夏、南仏の熱い太陽の下では、そんなものは本当に掃いて捨てるほどあった。そして、その余剰は、多少いびつな形をとりながらも、僕という人間に人間としての陰影を与えてくれた。それから16年、日常のあらゆる時間を奪われ、文字どおり時間を買うようになった自分がここにいる。なんだか『モモ』みたいな話だ。そして、その中で自分という人間がだんたんと失われつつあるのが、自分でも感じられる。知らないうちに、僕は自分を工業製品化し、また商品化しているのだ。

 

抵抗せよ、と自分に向かってささやく。敵があまりにも巨大なのを知りつつも。そういう人間の一縷の可能性みたいなものに掛ける、そういうのも悪くないんじゃないかなという気がする。そんなことを書いていたら、なんだかハイデガーなんかが読みたくなってきたけれど、あの巨大な会社にはとても対抗する気にはなれない。ハイデガーのナチ問題なんかも、実は構図としては同じなのでは…というのはちょっと筋の悪い読みだろうな。

現代のシーシュポス

ずいぶん疲れている。仕事が多いことによる肉体的・精神的なものがその原因であることは疑いようもないが、ちょっともう少し視野を広げてみると、会社に勤めることや東京に住み続けること自体にやや限界を感じ始めているのかもしれないなとも思う。会社は変われど、根本では同じライフスタイルをもう13年も続けているのだから、まあそれは不思議なことではないだろう。もしかしたら、一種のミッドライフクライシスみたいなものなのかもしれない。現に最近、昔欲しかったものが気になることが増えた。例えば、「久しぶりにバイクに乗りたいな」だとか、「ゆっくりギターを弾きたいな」だとか、そういう話だ。週末にまた『グレート・ギャツビー』を手にとってしまったのもそのひとつと言えるかもしれない。郊外でのキャンプなんかにも最近無性に惹かれる。たぶん人生を大きな流れで見ると、また大きな価値観の変化の時期に来ているのだろうなと思う。

 

そんなことを思いながらも、明日は明日で、また連休明けの現実が待っている。とりあえずなんとかそれをやりすごしつつ、long termの人生をデザインしなければならない。空気の薄くなっているところで人が暮らし続けるのは健全とは言えないからだ。40歳まであと2年半。残された時間はあまり多くないのでは、という気がする。

なんとか生きているのだが

さすがに金曜の深夜に2時間半ぶっ続けで説教されるのは辛い(10:00~12:30)…。"Don't take it personally"とよく言うけれど、150分に渡る説教を個人的に受け取らない人がいたらぜひ会ってみたいところである。誰かにグチのひとつも言いたいのだけれど、ここしか書くところがないのでここに書く。本当にどうすればいいのだろうな。こういうのを日本の労働文化として片付けてしまうのは、おそらく短絡的でよくないんじゃないかと思う。卑屈にならないっていうのもなかなか難しい。うーん。

 

アウトプットをしなくては

最近あまり更新できていない。無駄に忙しいせいである。新しい会社にきて9か月ということで、ほぼ完全になじんだ一方で、だんだん成果物の質を担保できないタスク量になりつつある。相変わらず深夜も働いているので、プライベートとのバランスも良くない。自分のパフォーマンスについてのネガティヴなフィードバックも耳に挟んだ。仕方ないと思いつつも、やはりブルーになってしまう。棚卸しと休みが必要な時期なのだろう。まあ夏休みも近いのでちょうどいいと言えるかもしれない。

 

それはそうと、もうひとつ別にビジネス、あるいは特定のテーマに特化したブログを始めようかなとふと思いはじめている。自分のビジネスを始めるにあたっての助走としてよい取り組みではないかなと思ったためである―—とても小さな一歩ではあるけれど。

 

考えてみると、これまで僕は「読み手のためにコンテンツ」を発信したことがない。このブログなんて徹頭徹尾僕の戯言で、お客様視点みたいなものは猫の額ほどにもないし、実際意識したこともない。まあそれはそれでいいと思うのだが、もういい大人だし、それだけじゃマズイよなというのが問題意識である。また自己認識として、自分が世の中で偏差値70である能力は自分の中にないと思うのだが、60くらいのものだったらたぶんいくつかあるし、その掛け算がけっこう面白いのでは、という仮説もある。たぶん、哲学系MBA外資系IT経営企画というプロファイルだけでもけっこうデビルマンな感じでいいんじゃないかという気がする…気のせいかもしれないが。

 

しかしながらこう見ると、これらの文は本当にどうでもいい独り言だな。こんなのでも定期的な読者がいるというのは驚いてしまう一方で、そういうviewのひとつひとつが自分の書く力、ひいては生きる力になっているという点でありがたく思っている。

 

というわけでまた次回。そのときには夏らしい日々になっているとよいのだが。

二律背反

週末というのにまた作文に追われているのだが、さすがに疲れたのでちょっとこちらに書く。日本語だとあまり頭を使わないで書ける――というのは語弊があるが、横文字を書く時と、使っている頭の部分が違うのだと思う。なんといっても半生を共に生きてきた言語なので、腐れ縁的な安心感もある。まあ例によってどうでもいい話なのだが。

 

☆☆☆

 

ちょっと恥ずかしい話なのだが、「どうにかして生産性を上げねば」という自分の問題意識に基づき、10年前の自分だったら絶対に手に取らなかったような俗流のビジネス書を片っ端から読んでいる。もっとも、こういうものは本とはとても呼べない代物で、「資本主義の世の中でそれなりに成功した人に30分くらい話を聞く」程度の内容であることが多い。僕はアカデミズムの世界を離れてずいぶん経つけれども、さすがに注も参考文献もなしで、個人の処世術だけが延々と書き連ねられているものを本と呼ぶのはさすがに気が引ける。一方で、それなりに得るものもあって、会社でいろいろな人にチクチク言われていることを、ある程度帰納的に、言語化された形で整理できるというのがその最たるものである。

 

とはいえ、参考にはしつつも、心の底ではそういった書籍類にまったく賛同できていない。理由は、それらの言説がほぼ100%ネオリベ的価値観に基づく強者の論理だからである。要するに、時間であれ、労力であれ、要するにリソースをかけずに最大の利益を得たものが最も偉い、というアレだ。事実、僕も、仕事で行う分析であれば、5分くらいでだいたいの仮説や結論を決めてしまうので、あんまり人のことは言えない部分もあるのだが…。まあリソースの制限がある以上、実務上それ以外のアプローチは採りようがないのである。けれどもその方法には――いうまでもないけれど――根本的な問題というか、欠陥がある。それは、個人性だとか、固有性なんかの、19世紀的というか、まあ人文の世界に属する概念たちを捨象してしまうことである。

 

そういう視点で、自分の30代を振り返ってみると、やはりここ数年はあまりにも実利のほうに傾きすぎてしまった気がする。そのことは僕にいくばくかの富、悪くない評判、そして有名経営大学院の学位を与えてくれた。でもそれによって僕が人として救われたかといえば、おそらくそれはノーだ。逆説的ではあるけれども、僕は自分なりの立身出世を経ることで(まだ途中も途中だが)、それが痛いほどわかるようになった。たぶん僕は、これから40代という年代を迎えるにあたって、自分の中のそういう部分を少しずつ取り戻していかなければならないのだろうと思う。その先にどんな世界が待っているのかは、自分でもよくわからないのだけど。

 

☆☆☆

 

ちょっと書くつもりが、1,000文字を超えてしまった。こういう話だったら、昔の恋愛の未練と同じくらいに、いくらでも書くことができる。まあいい、そろそろ資本の世界に戻る時間だ。