人文学を遠く離れて

思えば、哲学書だとか歴史書だとか、いわゆる人文学の本をフラットな――というのも語弊があるが――目で読めるようになったのはずいぶん最近のことであるような気がする。7年間もそれなりに深くその世界にコミットしていたためだろう、テクストを読むという行為に付随する副次的な意味に、ずいぶん長い間僕は縛られていたように思う。村上春樹はジャズ喫茶をやめたあとに、「しばらくの間ジャズが聴けなかった」と幾度となくエッセイの中で述懐しているが、僕が人文モノに対して感じていた感覚も、まさに同じようなものである。あまりにも深く関わってしまったものごとについては、単純な好き嫌いでは割り切れない複雑な感情が絡み合うがゆえに、あえてその世界から遠ざかろうとする力がしばしば働く。加えて、東北の地震からしばらくの間、人文系界隈は不気味な微熱を帯びており、見るに堪えないような言説や書籍があちらこちらで生産されていた。それら諸々の理由から、ここ数年、おそらく僕は意図的に人文系の本を読むのを避けていたように思う。

 

とはいえ、一度は—―というかずいぶんと長い間――心酔した世界である。その世界を離れていながらも、大学改革の中でこの学問が格好の批判対象になっているのを耳にすると、決まって僕は複雑な気持ちになった。今の僕という人格の少なくとも数パーセントは、その制度の中に身を置かなくては得られなかったはずのものであるからだ。一方で、その世界の閉鎖性やナルシシスムに対する嫌悪感は、正直なところ今でもぬぐえずにいる。今という点から考えれば、営利企業に勤め始めてから、一心不乱に実際的な知識や経験を求めたのは、その嫌悪感に対する反動という要素が大きかったのかもしれない。事実、典型的な人文系批判者の言う、「役に立たない」という思考停止のクリシェにも、「まあ仕方ないな」と個人的に常々感じてはいた。もちろん完全に同意することはなかったにせよ。

 

そんな個人的な冷戦状態が少しずつ緩和されてきた理由のひとつは、おそらく管理職になったことである。どうすれば人にいきいきと気持ちよく働いてもらうことができるか、そのために自分はどんな努力をすべきか――そんなことを自分なりに考えるうちに、「人間とはなにか」という問いを追求する人文学の営みに、再び目が向くようになったのだと思う。そのせいか、ここ最近、僕はいわゆる古典の文学作品を、以前よりもずっと切実なものとして読むことができるようになった。『明暗』の心理描写の的確さを、身体的な実感を持って感じることができるようになったのも、『ドルジェル伯の舞踏会』におけるラディゲの天才性を理解できるようになったのも、ついここ数ヶ月の話である(恥ずかしい話ではあるが…)。そして、そうした古典作品に対する納得感は、ゆっくりと、でも確実に、僕の主観的世界に肉付きと彩りとを与え、実務家としての僕の振る舞い・態度にも少なからず変化をもたらすはずだ。その点、実際性とはもっとも対極に位置するように思われる「古典を読む」という行為――すぐれて人文学的な営み――には、きわめて純度の高い実際性が含まれているのではないかという気がする。事実、ビジネス・エグゼクティヴ教育において、世界で最も先鋭的なプログラムのひとつであるIE-Brown EMBA Programでは、人文学の知見が多分に取り入れられていると聞くが、これもその証左となりうるものだろう。

 

しかし一方で、現状の人文系コミュニティを見ていても、残念ながらあまり応援をしようという気になれないというのも事実である――少なくとも僕はそうだ。その理由のひとつは、そうしたコミュニティのうちに、変化しよう、時代のニーズを汲み取ろう、よりよい質の教育を届けようという気概のようなものがあまり感じられないからである(そういう思いを持った人は、だいたい東浩紀氏のように、半ば諦め半分で在野に下りてきてしまうパターンが多いのではないか)。逆に、狭い世界とジャーゴンの中に閉じこもり、市民革命の時代から変わらないような、古色蒼然とした価値観を振りかざしている「痛い大人」があまりにも悪目立ちしてしまっている。冷たい言い方かもしれないが、現在「改革」の名の下に行われている暴力は、そうした膿を出すという点においては悪いことばかりではないのかもしれない。もちろん、見るに堪えないものも多く見ることになるのだろうが…。

 

ともあれ、向こう一ヶ月くらいのどこかのタイミングで、「人文系学部をビジネス的に回復させるにはどうすればよいか」というテーマで一筆書いてみたいと思う。これはかなり面白いテーマだと思うのだが、僕の知る限り同じような記事・書籍は見たことがない。どこかの人文系教員が書いていてもよさそうなものだけれど、そういうものが出てこないことが、この分野の浮世離れ感を如実に物語っているような気もする。