神無月も走る

また2週間経ってしまった。マトモに――だといいのだが――企業人として働きながら子どものあれやこれやに対応していると一週間くらいはあっという間に過ぎてしまう。だいたい20日くらいの3日が1週間に相当するくらいの時間間隔である。年齢的にはほぼ倍になっているので、たぶんそれに応じて内的時間の過ぎるスピードも加速しているのだろう。となると、後半生というのは、自分で意識的にギアを変えない限りは、なにかの後日談のようにあっという間に終わってしまうのではないか――そんなことを思う。ただ、それに対して、今の僕は特に恐怖を抱いてはいない。それが諦めなのか、退廃なのか、それとも成熟なのかは不明である。

 

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久しぶりにオフィスに行く。3月に原則自宅勤務になって以来の出社である。半年ぶりのオフィスは人もまばらで、まるで一度退社した会社にOBとして入ったような、不思議な感覚を覚えた。ほとんど毎日通っていた食堂もカフェももちろん閉まっていたのだが、無人のスペースの中、なぜか音楽だけは半年前と変わらず50年代のジャズが流れており、そのせいか現実の次元が歪んでいくような、奇妙な感覚を覚えた。一方で、ガラガラのオフィスの働き心地は最高で、特にプリンタが使い放題なのと、トリプルモニタで作業ができることが生産性に与えるインパクトが大きいことを改めて実感した。いまの流れだと、おそらく来年以降も自宅勤務がデフォルトになる可能性が高いと思うが、できれば週に一度くらいはオフィスに来て、自宅ではできない作業を集中的にするというサイクルがよいのではないかと思う。せっかく近くに住んでいるのだから、なおさらである。

 

☆☆☆

 

先日キャンプでご一緒した、娘の友人のお父様から、僕の勤めている会社を受けたいので、ぜひいろいろ教えてほしいと依頼があった。仕事の関係で会ったことのある人たちからそういうことを言われるのは時々あるのだが、まさかそんな身近なところか仕事関係の依頼があるとは思ってもいなかったので、これはなかなか驚いた。というわけで、人もまばらな雨の週末のカフェで、レジュメを持ってきてもらって(僕より年上だし、立派な経歴の人だった)、いくつか実践的なアドバイスをした。ビザスクなんかで見てみると、こういう個人指導に1時間1万円くらいとることも珍しくないので、手前味噌な話ながら、おそらく彼からすればずいぶん得だったのではないかと思う。しかし、本当に人と人というのはどこでつながっているか、どこでつながるかわからないものだなと思う。

 

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90年代にあったいくつかの出来事について書こうと思っていたのだが、今日は遅いのでまた次回。

富士へ

結局また2週間経ってしまった。いつも書いているとおり、週に一度くらいは記事をアップしたいと思ってはいるのだが、だいたい忙殺されていることと、仕事漬けでキャッチ―なネタに乏しいというふたつの理由により、どうしてもこれくらいのペースになってしまう。まあ細々とした個人ブログだし、いきおいそんなに高い期待を寄せられているわけでもないと思うので、無理のない範囲でぼちぼちとやっていこうと思う。とはいいつつ、もう5年もここに戯言を書き続けているのだから、これはこれでちょっとしたものである。

 

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子どものリクエストに応え、連休は富士山のふもとでキャンプをした。3家族合同という、僕にとっては新しい形式の集まりである。子どもが発端となってそういう機会に恵まれたことを考えると、ああ彼女はもう彼女の社会に生きているのだなという、なんとも言えない感慨のようなものが感じられる。雨の予報ではあったものの、当日はほとんど降雨はなく、涼しい空気の中でのんびりと食事とお酒を楽しむことができた。夜は娘を含む女子小学生3人と同じテントに寝るという、これまた新しい経験だったのだが、これはもしペドフィリアの人だったら楽しくて仕方ないのだろうな、と思った。帰りは東名が今年一番の渋滞で、たかだか150kmくらいの道のりに7時間もかかってしまったが、総じてよい休日の過ごし方だったと思う。

 

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キャンプから帰ったのもつかの間、休日をつぶしてビジネスレビューの準備。3日連続で26時までかかって、なんとか木曜のレビューを首尾よく終えることができた。それはそれでまあいいのだが、この文書作成作業は、ものすごく労働集約的というか、僕の気合いだけでなんとかしている状態なので、そろそろなんとか自分なしで回る仕組みを考えないと、遅かれ早かれ限界が来てしまうだろう。実際、レビューが終わったら木曜から日曜の今日まで、疲れから昼間はほとんど何もする気が起きなかった。それくらい消耗が激しいのである。このあたりをどう改善していくかは来年の課題としたい。

 

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朝から竹内結子の訃報。僕は特に彼女のファンというわけでもないけれど、どう見てもそういうことをしそうなイメージはなかったので、朝ネットニュースを見たときはさすがに言葉を失ってしまった。人から見れば順風満帆の人生に見えただろうが、本人にしかわからない葛藤があったのかもしれない――というか、ない人などいないのだろうが。『ノルウェイの森』の世界が現実を侵食していくようなおそれを感じた。

 

いずれにせよ、死者は何も語らない。残された子どもたちのことを考えると、やはり胸が痛む。

近況

いろいろバタバタしているとはいえ、さすがに3週間何もアップしないのはブログとしてどうかと思うので、小文を載せておくことにする。わりとそういうところは生真面目なのかもしれない――が、自分のそういう生来の気質が、人生のどこかで役に立ったかというと、どうにも答えようがないというのが正直なところである。まあいい、とにかくいまは日曜の深夜で、僕はこの後発音練習をしたら寝なくてはならない。

 

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もうすでに時間がけっこう経ってしまったけれど、10日くらい前の白井聡氏の某ソーシャルメディア上での失言をめぐるやりとりは、傍で見ている者としてはなかなか興味深かった。彼の行ったことはどうみても言論テロの一種なので、社会的に許されるべきものではないけれど、まあその点は各所で叩かれていたので、ここでは特に問題にしない。僕が個人的に一番気になったのは、彼の顔である。写真に写った顔が、あまりにも幼いのに驚いてしまったのだ。人文学者としての彼の業績はさておき、顔に経験の蓄積のようなものがまったくといっていいほど見られなかったのである。矛盾、韜晦、葛藤、相克、、、その手の感情の集積は、40前後の男だったら、誰しも多かれ少なかれ顔に出ているものだ。でも僕は彼の顔に、そういった種類の陰影を感じることはできなかった。そして、そのことに若干の怖さを覚えた。

 

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また政治の季節がやってくる。とはいっても、もう次の総理大臣も事実上決まったようなものだし、そうなると大幅な路線変更はないのだろうけれども。個人的に金融緩和を続けてくれるのはウエルカムなのだが、あまりにも税金が高すぎるので、その点だけは本当にどうにかしてほしいと思う。幸いなことに、昔よりも経済的には恵まれているけれど、所得税やら社会保険料やらがわんこそば的に盛られていくので、やっぱり日常的にはサイゼリアなのである。そりゃシンガポールに人も流れるよなあ、と思う。

 

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もう遅いのでこれくらいにしておく。今週は社内研修講師業。僕は古文がセンター試験5点だったのだが、そんな自分が「ビジネスライティング基礎講座」を教える立場になったことを考えると、人生は本当に何が起こるかわからないなと思う。

摂理としての落日

先週はお盆ということもあって、海外関係の仕事以外は軒並みオペレーションが止まっており、いきおい非常にゆっくりとした一週間であった。昨年のお盆に、CEO Review用の資料作りでヒイヒイ言いながら仕事をしていたのが嘘のようである。さらに、明日からは自分の夏休みが5日間続くので、今月はほぼ半分休みのようなものである。とはいったものの、暑さとウィルスのせいで外に行くのも億劫なので、例によってほとんど自宅待機という、色気にも面白みにも乏しい一週間になりそうだ。考えてみると、社会人になってから、夏に一週間まとめて休めた年はこれまでなかったし、それらのささやかな休みはほぼ家族と過ごしていたので、自分でその中身をデザインできる――今年は制限が多いが――休みというのは、大学院生のとき以来なのである。もちろん家庭のオペレーションを回しながらなので時間的な制約はあるけれども、この神様からもらった時間を大切に使いたいと思う。

 

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先週日経で面白かった、EconomistによるGoogleに関する記事。ちょっと冒頭の原文を引用してみる。

 

It may be just 21 years old, but Google is in the midst of a mid-life crisis. As so often in such cases, all seems well on the surface 

 

記事の主旨としては、従来のエスタブリッシュメントを否定し、創造性に根差した企業文化を作り上げてきたGoogleも、組織の硬直化やマンネリの波には抗えなくなってきている、というような話である。これはこれで読ませる記事なのだが、それ以上に、この冒頭の主語をGoogleから自分に変えても違和感なく読めることに笑ってしまった(”HE MAY BE just 38 years old, but fightpoverty is in the midst of a mid-life crisis. As so often in such cases, all seems well on the surface”)。おそらくは、企業であれ個人であれ、成長の勢いに陰りが出始め、第2・第3の方向性を見定めなければならないときがあり、僕にとっては今の時期がそれにあたるということなのだろう。その意味では、いま繁栄の絶頂を謳歌しているように見えるアメリカの大手IT企業群も、その最良な時期はすでに過ぎてしまったのかもしれない。ローマ帝国であれ、平家であれ、ブルボン朝であれ、栄華を極めたものが衰退しなかった例など、歴史上にただの一つもないのだ。無論、それは個人のレベルでも同様である。

 

この困難な課題について、記事はこう締めくくられている。"Google’s best way forward is to follow the advice often given to victims of a mid-life crisis: slim down, decide what matters and follow the dream"――なんというか、とても他人事には思えない。

 

それにしても、久しぶりにEconomistの英語を読んだけれども、相変わらず知的かつ重厚で、普段仕事では満たされない部分の知的好奇心が刺激されるのを感じる。もう少し日常的に読むことができればよいのだが。

 

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来週は休みなので、できれば平日に一度くらいは更新したいところである。繰り返しになるが、ほぼ自宅待機で一週間休みというのは本当に妙なものだ。外の強烈な暑さとも相まって、ちょっとしたディストピアではないかという気さえする。

一路西伊豆

前のポストからそろそろ一週間になるので、先週のことを中心に記録をしておく。

 

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久しぶりに西伊豆に行く。そう遠くに行ったわけでもないのだが、4か月間の引きこもり生活を経て久しぶりに東名を走ると、やはり相応の開放感が感じられる。当地ではのんびりと温泉に浸かり、海辺で子どもとの水遊びに興じた。いつの季節に来ても温泉はいい。こういう時期なので、もしかしたら軽く迫害されるかもと若干懸念があったのだが、杞憂に終わってなによりである。暑いうちにできればもう一度海に遊びに行きたい。

 

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世間は盆ということで、仕事がやや落ち着き気味になっているからだろうか、中だるみ感のようなものを強く感じている。ささやかな旅行をしたとはいえ、極度に人とのかかわりが少ない日々が続いていることで、その傾向に拍車がかかってしまっているのだろう。あまり好ましくない状態だが、幸いお盆開けの週は僕も丸一週間の休みがとれそうなので、自分なりにここ数年のことをしっかりと整理したいと思っている。何しろ日々の雑事に追われて、その手のメンテナンスをずっと後回しにしてきたからだ。中国語とPythonの学習にもある程度まとめてリソースを投下したいところである。あとは久しぶりにマトモな学術書が読みたい――自分の中にもまだ欲求と思しきものが残っているのだな、と思う。

 

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今日はもう遅いのでこれくらいで筆をおくことにする。ざっと書くと、なんだか文体も夏バテしているような気がする。たぶんあまりにも暑いので、ややこしいことや高尚なことを脳が拒否しているのではないかと思う。そう考えると、よく会計士試験をグアムなんかで受けていたなあと思う(いま思い出してもなかなかしんどかった)。

ケ・ケ・ケ・ハレ

前の投稿からしばらく経ってしまった。ゆっくりと過ごすはずだった4連休は、急なビジネスレビュー対応のために怒涛のレポート書きに追われて慌ただしく終わっていった(休んでいてもなぜか26時コース)。挙句の果てには、当該レビューが当日朝9時にキャンセルされるという、シーシュポスもびっくりのマッチポンプな結末であった。前日26時まで、約150箇所の修正を行ったにもかかわらず、である。こういうことをしているから、メディアにブラック企業とか糾弾されるのだ。僕が担当しているこのドキュメント、所要時間や僕の時間単価を考えると、外部に発注したら軽く100~200万くらいはとれると思うのだが、読まれない・使われない限りはそれも単なるサンクコストである。というわけで、なけなしの4連休のアウトプットとして残ったのものは、結果的に深い疲れと残尿感だけであった。

 

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上記の宿題があったのと巣ごもり奨励期間ということで、連休は基本的に地味に過ごしたのだが(マッサージと歯医者)、妻の誕生日であった最終日だけは、ちょっとお高めのレストランで食事をした。自宅仕事続きで最近Tシャツ(あるいは上半身裸)ばかりだったので、夕方から髭を剃って、シャツにアイロンをかけ、革靴を履くだけでも気分が高揚する。こういう種類のハレも、やはり人生には必要なのだろうなと思った。テーブルまで運んでくるタイプのブッフェだったのだが、たぶん今後数年間はこういうスタイルが主流になるのだろう。それにしても、まだフルコースは難しいにせよ、子どもを連れてそういうところに行けるようになったことを思うと、妙な感慨のようなものを感じずにはいられないものがあった。

 

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日曜からようやく夏休み前半で、久しぶりに東京を出られるので楽しみである。もちろん疲れというのもあるのだけれど、けっこう真摯に僕はいま外部の刺激に飢えているのだと思う。まだ見ぬ景色、聞きなれない言葉、魅力的な女性…そういうもののすべてに。外に出るのが日常であったことは、もちろん不十分ではあったけれども、そういった要素は日常のそこかしこに散りばめられていた。でも残念ながら、それらが持つ重層的な魅力を、五感をフルに使って味わうには、PCのモニタでは役不足なのだろうと思う。

 

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若いころの工藤静香、雅である。こういう色気のある女の人、最近あんまり見ないですね。家にいるせいかもしれない。

 


Ice Rain / 工藤静香

透明と障害 2020

雨続きである。それがすべての理由ではないのだろうが、せっかくの週末だというのに若干体調が崩れ気味である。例によって週末も仕事(作文)をしなければいけない状態なのだが、書けるところまで書いたら今日くらいはさっさと床に就こうと思う。

 

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「あれさ、politically correctってあるじゃん」、社長が言う。

 

「あれと同じなんだけどさ、正しいことを言うのと、伝わることを言うのは違うわけ。あなたの仕事は後者なのね、わかってると思うけどさ。事実として正しくても、伝わんなきゃ意味がないの」

 

本社に出す毎月の報告書のレビュー中言われた一言である。なんだか考えさせられてしまった。というのも、どちらかと言えば、僕は「事実を明晰に記述すること」を重視して、その報告書をこれまで書いてきたからである。もっと言ってしまえば、「事実を明晰に記述すれば、こちら側の意図は伝わるはずである」という前提で書いてきた。結論から言ってしまえば、これは誤ったアプローチであったと思う。ジャーナリズムの世界ならいざ知らず、媒体がビジネスの報告書である以上、「ビジネスオーナーである社長の意図」を明晰に伝えることを一義に考えなければならなかったのだ。もちろん、事実関係の確認は必須だけれども。社長の意図=戦略であり、戦略が事象に先行しているのでなければ、彼の存在意義自体がなくなる恐れがあるからである。そう思うと、自分はずいぶん政治的な仕事を担当しているのだなと思って若干げんなりしてしまったが、まあそういうものなのだろう。

 

考えてみると、正しいこと=伝わるという前提は、いかにも教養主義的な、ナイーブな幻想だったのかもしれない。スタロバンスキーが『透明と障害』で描いた、ルソーの「内部」と「外部」のハーモニーにも似た幻想を、僕自身も38歳の今まで抱えていたのだ。あるいはシニフィアンシニフィエの同一化と言ってもいいかもしれない。そう思うと、自分のナイーブさを恥じるとともに、その素直さを与えてくれたであろう、自分が生きてきたこれまでの環境になんだか感謝したくなった。

 

おそらく、営利企業に勤める限りにおいては、僕は「シニフィエの世界」を生きなければならないのだろう。けれどもそれは、自分の内部や事実を否定することではないはずだ――そう信じたい。そんなことを思った。

 

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大学院時代の友人とZoomで話す。久しぶりに話す彼は、大学教員の仕事もずいぶんと板についてきている様子だった。自分の同級生がすでに大学で正規職員として教鞭を採っているという事実には、時の流れの残酷さを否が応でも感じさせられる。おそらく彼は彼で、僕の子どもの年齢を聞いて、同じような感慨を抱いたのだろう。

 

「彼女、まだ結婚していないみたいだよ」、と友人。僕は顔が引きつる。

 

「そういえば、この間Nさんに、俺の相手として彼女はどうってからかわれたよ」。

 

たぶん彼は、僕が10年以上の前のことなんか気にも留めていないと思っているのだろう。しかし実際には、ピーク時よりは幾分楽になったにせよ、現在進行形で僕は痛みを反芻し続けている。これまでに僕はいくつかの現世的な幸福を手にしたとは思うけれども、その点に関して、これまでのところ特効薬は見つかっていない。そういうわけで、t僕は束の間の慰めとしてブラームスのop. 118-2を聴く。それ以外にどうすればいいというのだ?

 

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また作文の世界に帰る。自宅勤務になってからというもの、こんな週末ばかりである。