日本人とリーダーシップ

ずいぶんと暖かい日が多くなり、春特有の濃密な香り――あれはなんの花から香るものなのだろう?――が、朝の通勤中の鼻をくすぐるようになった。暖かいのはうれしいのだけれど、僕にとっては地獄の一ヶ月の始まりでもある。去年の秋、雑務に忙殺されて舌下治療を始められなかったことが今さらながら悔やまれる。

 

☆☆☆

 

一応、リーダーシップのエッセイも完成し、残りひとつを仕上げれば出願できるところまで来た。結果的にこのエッセイは一ヶ月足らずで仕上がったものの、その間何度も何度もエッセイカウンセラーにダメ出しをされていたので、ほっとしているところである。家族が寝静まった深夜に、ウンウンと唸りながら自分の人生と向き合い、なんとか捻り出された文章が、翌朝昼くらいに「インパクトがない」「リーダーシップが感じられない」と添削されて返ってくるのは、なかなか辛いものがあった。最後に残されたエッセイのテーマは、「向こう10年のテクノロジの進歩によって、人々のつきあい方はどのように変化するか」というものなのだが、さて何を書いたものか。

 

ところで、このリーダーシップというものについて悶々と考えてみてつくづく思ったのだが、この日本という国ではリーダーシップというものが極めて涵養されにくいのではないかということである。そうだとすれば理由はなんなのだろう?僕が考えた理由は以下のようのものだ。

 

  • いわゆる戦後民主主義の価値観の下、太平洋戦争時の反省から、強力な指導者・指導力が否定的に見られるようになったこと。
  • ①のためか、とりわけ組織においては異論を排除する空気が蔓延していること(要するに「出る杭は打たれる」)。このため、会議なんかをしても、ほとんどの場合は予定調和的な結論を確認するだけに終わる。
  • 価値観の多様化により、社会が中心を必要としなくなったこと。より大きな文脈では政治の形骸化。文化論的には、メインカルチャーサブカルチャーという二項対立の解消も同じ文脈で論ずることが可能だろう。

 

もちろん、上記のようなことを説明したからといって、まさにリーダーシップを学ぶための場所であるビジネススクールが入学を許可してくれるわけではないので、多くの日本人受験生は、なけなしの経験にたっぷりの化粧をして(要するに「盛る」)、自分を売り込む必要があるというわけである。

 

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僕の年間評価のセッションがあった。評点は昨年と変わらなかったが、今年はわりと厳しい言葉が多かった。「コミュニケーションが弱い」との由。「もっと強固なロジックや、適切な説明・反論が見たかった」とのこと。

  

月並みだが、もう職階的にイエスマンでは評価されないのだなと思った。3年前とはロールが完全に変わっているのである。そりゃ管理者がイエスマンじゃダメだ、不平等条約を結ばされてはい終了、である。おそらくもう少し広い文脈で考えると、ここで求められているのもまたリーダーシップなのだろうなあと思う。

 

というわけで、ここ1年くらいは、どっぷりリーダーシップについて考え、そしてそれを実践しなければならない時期になりそうである。まあ35歳男性の発達課題としては、真っ当すぎるくらいに真っ当だと思う。

 

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読んだ本。

 

本多静六本多静六自伝 体験八十五年』、実業之日本社、2016年。

 

実はこの人のことは最近まで知らなかったのだが、公園設計の専門家として、また投資家として著名な人ということなので、どんな人なのかと思い自伝を手にとった。アカデミック・ビジネスの両方で成功したという点に惹かれているのだろう。内容は、武勇伝の連続で若干食傷気味になるが、努力家で実直な人柄が文章の端々に感じられた。後藤新平との交流のエピソードも面白い。それにしても、明治人の気が狂ったような努力っぷりとスケール感の大きさには正直平伏してしまう。

 

最後に本書から、僕が気に入った一説を引用しよう。

 

「毎日学校で学んだ筆記を、帰ってからひと通り修正した上、さらに通読して、どこが一番重要な個所であるかを見極め、[…]別紙に細字で書き抜く。[…]これをポケットに入れて散歩に出掛け、歩きながら全体の趣旨を口内または口頭でいってみるのである。ただ一つ困ったことは、夢中で考えながら野道を歩くのでときどき牛や馬に衝突することであった」。(前掲書、55頁)

 

きわめて示唆的であり、それでいてユーモラスである。