Customer Obsessionと分断の風景

副作用は思ったほどのものではなく、翌日に38℃を超える発熱があったあとは、ほぼいつもどおりの状態に戻っていた。考えようによっては、滅多にない「一日何もせずに寝ていられる日」を神様と家族からもらった日とさえ呼べるかもしれない。これだけ寝ていたせいか、大人数の男女で映画館に行って、なぜか広末涼子から「これが終わったら二人でどこか行こう」と誘われるというスイートな夢を見た。が、夢の中で彼女は待ち合わせ場所に現れず、妻から足の裏をポンポンと叩かれたところで目が覚める。なんだか『闇の雨』みたいな話である。まあ熱にうなされつつもそんな夢を見ていたのだから、実際にはけっこう元気だったのではないかという気がする。

 

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21世紀に入ってからの世界のビジネスが、アメリカ西海岸のTech Giantsを中心に展開してきたというのは、おそらく衆目の一致するところだろう。細かいことは措いておくとして、これらの企業群が戦略として行ってきたことのひとつは、データに基づくサービスの最適化、要するにパーソナライゼーションである。例えば、Google検索では検索者の好みや過去の検索履歴にしたがって、コンテンツの検索順位が変化するというアレである。また、Amazonでは同種の仕組みがCustomer Obsessionという社訓によって強化され、また奨励されてきた。倫理的な側面での是非は措いておくとして、現在におけるこれらの企業群の反映を鑑みると、それらの戦略が成長を牽引する上で効果的であったことは否定できない。

 

一方で、これらのパーソナライゼーションは、インターネットという空間に自分の声を強く反響させるという副作用を生み出した。いわゆるエコーチェンバー現象である。Googleがサジェストするページは、「過去における自分」が重要であると判断した情報であり、Facebookのフィードは、自分と近しい意見を持つもののポストで埋め尽くされる。こうして、インターネットという広大なスペースは、好みや信条によるクラスタに分類され、他者の存在を不可視のものとしていった。リアルな世界であれば必然的に入ってくるであろうノイズや不純物は遮断され、結果として、それはいくつものセクト排除の論理を生んでいった。例えば、俗にネット右翼と呼ばれる集団は、おそらくインターネットなくしては存在しなかったものだろう。

 

こんなことを考えると、Tech Giantsによるパーソナライゼーションは、その成長の代償として、世界における分断を必要としたのではないかという気がしてくる。ちなみに、僕がLinkedin以外のSNSをほとんど使わないのは、そうした地場から極力自由でいたいという個人的な考えによるものである。

 

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ビジネススクール時代の同級生(この前の人とは別)が、某関西のトップ大学で研究をしながら起業を目指すとのこと。任期付きのポジションではあるようだけれど、某トップコンサルのマネージャ職で活躍中と聞いていたので、これまたびっくりしてしまった。大学院での先行が実学だと、こういう道もあるのだなと羨ましく思う。僕もどこかで「シンギュラリティ時代の到来に伴う倫理的課題研究」とかで雇ってもらえないだろうかとか思うのだが、実現可能性は不明である。しかしながら、MBAを取ってしまったがゆえのピアプレッシャーが強くてちょっと困ってしまう。まあなるようにしかならないのだろうが。