8月9日、再び

ちょうど一年前の記事を見てみたら、その日も一年で一番暑い日だったようである。8月9日が年で一番暑くなったのは過去50年くらいで何日あったのだろう。いずれにせよ、ここ1週間くらいが今年の暑さのピークで、盆を過ぎれば秋の足音が聞こえてくるだろう。僕はそれとともに新しい生活を始めることになる。さてそれはどんな日々になるだろうか。

 

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前に書いたプロジェクトも佳境に入ってきて、相変わらずバタバタとしている。単純に考えても、通常業務に加えてプロジェクト関係の会議や作業が途切れずに入ってくるので、当然ながらワークロードは増加するわけである。こういう状態だと、成果物の質が自分でも気づかないうちに少しずつ下がってくる。スライドから重要な説明や前提条件の記載が抜けていたり、基本的な数式が間違って入力されていたりする。有能なアシスタントの人でも隣にいてチェックしてくれればいいのにと思うのだが、チームのメンバーは別の仕事があるので手伝ってもらうわけにもいかない。まあなんとかふんばるしかないのだろう。

 

ちなみにこのプロジェクトのなかなか面白いところとして、メンバーがアメリカ・イギリス・シンガポール・日本ということで、電話会議なんかでも各国の英語が同時に聴けるという点ががある。しかしながら議論が白熱してくると、ネイティブグループはどうも早口になりがちで、そこに電話ベースで入っていくのはやはりなかなか難易度が高い。こういうときよく僕は松岡洋右による国際連盟脱退時の演説を思いだすのだが、実際にはあんなふうに啖呵を切ることなどとてもできそうにない。たぶん生きているうちは英語は永遠の課題なのだろうなあとと思う。

 

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ここ数日、あらためてキャリアのことについて頭を悩ませている。To be (an employee) or not to be, that is the question、である。要するに、サラリーマン人生を続ける限り、多少の誤差はあれ、もうだいたいの行く先は見えてしまっているのだ。まあおそらくは、そこそこのポストで、そこそこの給料をもらいながら、やせ細った情熱を抱えて、そこそこの生活を送るという毎日が続くのだろう。でも果たしてそんな人生を生きるべきなのだろうか――35歳という年齢になって、改めてそんなことを思いはじめている。当然ビジネススクールに行くという選択をしたことが、そんな疑問を生んでいることは否定できないだろう。

 

幸い僕が通う学校は、とてもアントレに強く、学校側もコーポレートキャリアよりは早いうちに経営の実践ができるようなキャリアを強く推している。僕の場合、ファイナンスの仕事自体はけっこう好きなので、そこを軸足にした上で、どこまでキャリア上の広がりを出せるかを検討するのが、ここ2年くらいの課題となるだろう。今後の人生の後悔を最小化できるよう、しっかりと考えたいところである。

 

ちなみに、スペインという国が歴史的に行ってきたことを考えると、かの国は地獄に落ちそうな国トップ3くらいに入ると思うのだが、そういうところに勉強をしに行くというのもなんだか皮肉なものだなあという気がする。古代インカ人なんかからすれば、おそらくあまり推奨されない行為であるに違いない。

 

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数日間まともな運動をしていないので、ずいぶんストレスがたまっているような気がする。明日はなんとか時間を確保して、しっかりと走り込みをしたいところである。 

 

 

 

グアム

ブログというのも仕事や勉強と似たところがあって、一度書くのをやめてしまうとなかなか筆を執る気になれない。歯磨きほどに日常における優先順位が高いわけではないし、現代人はだいたいにおいて他にすることがいくらでもあるので、まあ仕方のない話ではある。ともあれ、久しぶりに少し時間と心の余裕ができたので、少しとりとめのないことでも書いてみたいと思う。

 

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予定どおりグアムに行く。乳幼児を連れていると、3時間半の飛行時間とはいえ、とても長く感じられる。今回は最初から最後までずっとレンタカーでの移動だったのだが、これは正解だった。ツアーなんかでは無視されてしまうような小さな史跡に多く寄ることができたし、ちょっとしたスーパーでの買い物も楽にすることができた。僕は東京では車にほとんど乗らないので、子どもたちも車ベースの滞在型生活はずいぶんと新鮮に感じられたようである。それと関連して、今回はいろいろなところで地元の人とちょっとした会話をすることが多かったのだが、彼らの多くは気さくで、とても話しやすい人たちであった。とはいえ、おそらく彼らは彼らで、間違いなく日本人に対しては複雑な感情を抱いているのだろう。かつて日本人はかの島を一方的に占領し、また90年代以降は当地の主要観光客として、島の景観を相当程度変えてしまったというふたつの点において、この土地にとっては歴史的に影響の大きかった存在である。そういうことを考えていると、地元の人たちと他愛のない会話を交わしていても、どこかこちらも居心地の悪さのようなものを感じてしまう。ちなみに、日本とグアムとの関係を網羅的に記述した本がないかと思い、本屋を探してしてみたのだが、ハガニアにはまともな本屋が一件しかなかった(そこもキリスト教系の書店だった)。南国では読書という習慣があまりないのだろうか。

 

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ダウも日経平均も多少の上下はあるにせよ、非常に高い水準で推移している。一方でVIXの基準価額は78円まで下落していて、世界中が過剰なリスクオンになっているような印象を受ける。あまり根拠もないのだが、おそらく今年の下半期には大暴落につながるような何かが発生するのではないか――例えば戦争や多国籍企業の倒産などが考えられるだろう。まあとりあえずできることといえば食料品の備蓄くらいなので、来週あたりに一度非常用食料の買出しをしていくつもりではある。

 

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なんというか、間の抜けたエントリだなあと思う。真夏ゆえの中だるみみたいなものかもしれない。

上流階級

いつもの日曜の終わりと同じように、今日もフラフラなのだが、気分転換がてらに少し書く。文章というのも生モノの要素がかなり強いため、明日仕事モードになってしまったら、今日書きたいと思っていることは書けなくなっている可能性が高いからである。

 

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副社長の家に行く。資産運用について奥様が知りたいということで、基本を教えてやってほしいとの由。彼の運転するポルシェで第三京浜を走ると、東京の街は電車から見るそれとずいぶん様相が異なって見える。駐車場に入ると、メルセデスランボルギーニロールスロイスが並んで停まっており、2000年代前半~中盤のレアル・マドリーのような印象を受けた。

 

自宅にお邪魔すると、笑ってしまうくらいに広い。聞くと200㎡ほどあるとのこと。いやあ、都内の一等地にこれだけの広さの自宅を構えている人もいるんだなあと関心する。ともあれ、奥様にもご挨拶し(やはりなかなか麗しい感じの方であった)、債権の種類や分散投資のことなど、投資の基礎の基礎について1~2時間ほどお話する。とはいったものの、僕が話したのはごく一般的な話なので、億単位の金を運用するケースにそのまま適用可能なのかよくわからない。当然この場合は、ペイオフ対策なんかも綿密に行う必要があるのだろうが、未経験の領域なのであまり多くは語れない。たぶんUBSのプライベートバンキング部門あたりできちんとしたコンサルティングを受けたほうがいいんじゃないかという気がする。

 

しかしながら、これだけの資産を持っていても、やはり専門分野の外になってしまうと、知識が不十分になってしまうということを実感させられた。まあ、お金というのはあるところにはちゃんとあるんだなあという話。

 

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新卒で入社した会社の同期会。僕は娘を連れて参加する。久しぶりに訪れた恵比寿の街は、なんだかますます虚飾の色を濃くしているような感じがした。歴史のある街だから、それなりの重みがないはずはないのだが、街に付与された「シック」という呪縛が、いくぶんその重みを損なってしまっているような気がする。「記述は適切な重みを持ってなされなければならない」といったのは荒川洋治だったか。街も同じようなものだと思う。

 

けっこう久しぶりに会うメンバーだったのだが、今回はあまり以前と印象が変わったメンバーはいなかった。男性陣が全員既婚で、女性陣が全員未婚というあたりが、現代の闇を感じさせる部分である。まあともあれ皆元気なのはいいことである。

 

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今日の夜ももっといろいろしようと思っていたのだが、寝かしつけに時間をとられてしまってまた不完全燃焼に終わりそうである。それでも風呂でファイナンスの本を読む時間くらいはとれそうだ。時間も睡眠もだいたいいつも不足気味なのだが、勉強すべき事柄は相変わらず乗数的に増加しており、まったく収拾のつかない状態が続いている。まあそんなものと割り切っていくしかないのだろう。

壮行会

7月も半ばなので当たり前なのだが、毎日毎日うだるような暑さである。それによって我が家のゴーヤの発育がよくなっているのはいいことなのだが、こう雨が少ないと、だいたい水不足になるか、秋口にひたすら雨が続くかというあまり好ましくない二択になってしまうので、少しは雨雲にもがんばってほしい。

 

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ビジネススクールの入学壮行会があった。この間とは別の某外資系高級ホテルの高層フロアでの開催。何人かの友人にも会えたし、これから同級生になる人とも話すことができたのはよかったのだが、正直なところあまり面白くなかった。結局、僕はお高いホテルで、舌をかみそうな名前の料理を立食で食べながら、ビジネスやら経済やらの話をするというのがあまり好きではないのだ。僕はもっと地に足が着いたものが好きなのだ。皆しかるべき苦労した上で合格を手にして、これから留学で意気揚々としているところにあまり水を差したくはないのだが、そういう高揚感みたいなものを感じると、僕はひねくれものなのか少し冷めてしまうところがある。もちろんこれは誰のせいでもないのだが。

 

全体の会が終わった後は、ビジネススクールの予備校で一緒だった友人と二軒目に行く。留学から帰ってきて戦略コンサルに転じた彼は、以前会ったときよりもずっとたくましく、楽しそうに見えた。こういうのを見ると、男性にとって仕事が充実しているということがいかに重要かということを思い知らされる。クラスメイトにジョージ・クルーニーの従兄弟がいたとか、メキシコの某資産家の息子がいたとか(ファーストクラスしか乗らないとのこと)、なかなかスケールの大きな話も聞けた。世界での相対的な経済的重要性が低下し続け、生活保護世帯が増加し続けているこの国のことを思うと、それらはおとぎ話のように感じられる。でもそれらはどちらも事実であり、平行して存在しているのだ。そんなことを考えていたら僕はまた頭が少し混乱してきた。帰りの電車では車両全体から中年男性の体臭とビールの匂いがした。この世界もまた平行して存在しているのだろう――サラリーマン・ワールドという世界だ。

 

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帰宅して、旧くからの友人に電話して一時間ほど話す。昔からの友人とゆっくり話すというのは、頭が混乱したときや、自分の立ち位置を確認したいときの特効薬みたいなものである。最近あったこと、SNSの悪口、宇多田ヒカルのアルバムの素晴らしさ、ドナルド・トランプの凄みなどについてダラダラと話す。こういう雑多な話題を雑に話せるのはやっぱり昔からの友人だよなあとしみじみ思う。社会人になってから、とりわけ30歳を超えて知り合ったような人とだと、なかなかこうはいかない。まあこの話はまた別途書こう。

 

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今日はもう少しファイナンスの本を読んだら寝る。明日は休日出勤。

統計家と生きる意味

「そもそもなんで統計の仕事を始めようと思ったんですか?」と僕は彼に訊いてみた。

 

「高校の頃だったと思うんですけど」、彼は少し照れ笑いを浮かべながら話し始めた。「人が不幸になるのは、予想できないことが起きたときじゃないかと思ったんです。災害しかり、病気しかり。いくら悪いことであっても、きちんと予想と備えができていれば、その不幸はいくらかおさえることができる。それが統計に興味を持ったきっかけだったと思います」。

 

僕は彼のことがちょっと好きになりそうになった。変な意味ではなく。

 

「で、大学で統計を専門的に勉強しようと思ったんですけど、日本の大学で統計を専門にしている学部を置いているところはない。社会的なニーズはすごく高いし、USやUKだとたくさんあるんですけどね。だから工学部に入って、副専攻のような形で統計を勉強しました」。

 

僕は彼の話を聞きながら、ほとんどロックンロールと女の子、それに自分のことしか考えていなかった高校時代の自分のことを思って、ちょっと恥ずかしくなった。愚かな自分を省みながら、僕はもうひとつ質問を投げかける。

 

「ものすごく激務だと思うんですけど(僕はこの部門の経営管理を担当しているので、残業時間なんかはよく把握している)、それを支えているモチベーションの源は何なんでしょう?」

 

「僕は生きることの意味って、なにかを遺すことだと思うんです」、彼は言う。

 

「例えばそれは…生殖とか、知的資産とか、そういうことですか?」

 

「生きることの意味」という言葉に対して、ちょっと僕は知覚過敏気味である。

 

「遺すものそれ自体は、本当に人それぞれだと思うんです。僕の場合は、仕事を通して、新薬が世に出て、それで助かる人がいるっていうのがやっぱりすごく大きいです。とはいえ、やっぱり「何で生きてるのかな」ってもやもやしちゃうことも多いですけど」

 

僕なんか毎日ですよ、と僕は続ける。ああ、この人かっこいいなあと僕は思った。

 

「生きる意味」――僕はその言葉を反芻する。ここにささやかな文を記しながら。

 

僕は何かを遺しているのだろうか?遺すとはどういうことなのか?たぶん後期のデリダだったら、このテーマだけで一冊の本を遺しただろうなあ、そんなことを考える夏の夜。

 

 

 

夏がはじまるよ

本格的に暑くなってきた。同時に予算関連の業務も始まり、年一番の繁忙期に入ろうとしている。そんなときでも家庭内労働の量は減るわけもなく、結局優先順位の低い事項をバッサバッサと切り捨てることでなんとか日常が回っている。そんな風に、慌しい夏が今年もまた始まろうとしている。

 

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結局旅行先はグアムということになった。当地を訪れるのは会計士試験のとき依頼で、実に8年ぶりということになる。いろいろ悲喜こもごもの思い出がある場所だけに、今回家族を連れて行くことができるというのはなんだかうれしい。その頃よりは多少運転技術も英語能力も向上したので、今回は島の南側をゆっくりとドライブしてみたいと思う。

 

ちなみに、行く前にかの島の歴史を知っておこうと、youtubeでいくつか関連動画を見てみたところ、現地の人が非常に多く”self-determination”という言葉を使っていたのが印象的だった。スペイン、日本、アメリカと支配者がコロコロと変わるという数奇な歴史をたどった土地であるだけに、アイデンティティというものに対する問題意識が必然的に強くなったのだろう。僕ももちろん、自己の像のゆらぎのようなものに悩んだ時期はあったし、歴史的な重層性の踏まえた上で自己のアイデンティティについて思いを巡らせたこともあったけれど、いわゆる企業で賃金をもらえるようになり、家族を持ってそこそこの暮らしをするようになると、正直そういうことにはあまり興味が持てなくなってしまう。必要以上に自己というものに対して違和感を覚える必要がなくなってしまうからだと思う(自己に対する不満は常にあるけれど)。まあ悪く言ってしまえば、これはただの知的堕落なのかもしれない。

 

ともあれ、久しぶりのリゾート地訪問なので、少しゆっくりと楽しめればいいなあと思う。

 

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長女が算数で若干つまづき気味ということで、これから土日に一時間ずつ、文字どおりの「家庭教師」をすることになった。人にモノを教えるのは学生時代に塾講師をしていたとき以来なので、かれこれ15年ぶりくらいになる。しかしながら、今回久しぶりに娘とそういう時間を持って、僕は人に何かを教えるということにあまりおそらく興味がないし、だからあまりそういうことが上手ではないのだなあとつくづく思った。本当に教師にならなくてよかったなあと思う。そんなことを職業にしていたら、人生を通して不幸の拡大再生産をするだけになってしまっていただろう。とはいえ、週末のカフェで娘と向かい合って筆算の練習をするというのは、なかなか悪くない心持ちである。きっと将来いい思い出になるのだろう、たぶん。

 

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なんだかとりとめのない記事で申し訳ないのだが(いつもだけれど)、ちょっとバタバタしているので今日はこれくらいにしておく。今日はこれからVBAの復習と統計の勉強。外国語もそうだけれど、コンピュータ言語もちょっと使わなくなるとすぐ忘れてしまう。がんばれシナプス

プロジェクト、フィリピン、ヒカルちゃん

だいたい最近いつもそうなのだが、雑事に忙殺されて更新が遅れてしまった。何人かの友人にビールを飲みに行こうとか、ご飯を食べに行こうなどと声をかけてみたはいいものの、そちらもまったく追いついていない。35歳の梅雨もまた、社内調整に明け暮れているままに過ぎていこうとしている。

 

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前回書いたプロジェクトの続き。アメリカからお偉いさんたちがやってきて、日本のお客様にプレゼンテーションを行う。先方も社長と役員数名ということで、「ああ、このくらいの人たちが10年前の僕に対して最終面接をしていたんだなあ」と妙な感慨に打たれる。この会議では、僕と同じプロジェクトメンバーである女性が全体の進行と通訳を務めていたのだが、それがあまりにもこなれていて、同僚ながら惚れぼれとしてしまった。アメリカで高校・学部を過ごした人なので、もちろん英語は非常に上手いのだが、アメリカ人のややもするとarrogantに聞こえがちな言い分を(彼らはassertiveと言うだろうが)、日本人向けに柔らかく同時通訳するというのはプロでも難しい。久しぶりに、僕にはこのレベルの仕事はまだできないなあと舌を巻いてしまった。だいたいにおいて、事務系の仕事で能力的な違いをあからさまに感じさせられることは少ないのだが、こういう驚きがあると刺激になるし、もっとがんばらなくてはいけないなあと思う。

 

ちなみにそのプロジェクトの中間打ち上げで、USの偉い人がこんなことを言っていた。「日本のお客さんのXXXに言ったらさ、『私たちはあなた方を信用していません。あなたたちが日本人ではないからです』って言うの。本当だぜ。信じられないよな」。

 

本当に信じられないし、アメリカでこんなことがあったら大問題になると思うのだが、そういうことがあってもおかしくないのかもしれないなと僕は思った。それくらい異物に対するフォビアは、特にこの国の地方においては著しいものであるからだ。でも彼にそんなことはとても言えなかった。

 

「でも、世界は変わっているんだ。グローバル化は着実に進行しているし、彼らもそう長くそんな態度ではいられくなるだろう」、彼はそう言葉を継ぎ足した。グローバリゼーションがはらんでいる問題はある程度理解しているつもりだけれど、このときばかりは、僕の間接的な上司である、この典型的なアメリカ人エリートに同意せざるを得なかった。

 

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今年の夏休みはセブ島に行って、マンゴーを食べながらのほほんと過ごそうと思っていたのだが、気がついたらフィリピンに非常事態宣言が出ているではないか。調べると、ISの勢力が当地でかなり拡大しているとのこと。フィリピンは敬虔なカトリックの印象が強いが、ちょっと調べると特に南部はイスラム系の人口がかなり多いようである。実際にテロに会う確率はそんなに高いものではないと思うのだが、貴重なお金と休みを使ってリスクを取る必然性は毛頭ないので、結果的にはキャンセルすることに。というわけで、あと夏休みまで一ヶ月しかないというのに、夏休みの計画は再度練り直しになってしまった。困ったものである。

 

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遅ればせながら、昨年発売された宇多田ヒカルのアルバムを聴く。なんだか久しぶりに音楽を聴いた気がした。できあいの工業製品ではない、プロが技術と魂をこめて編んだ芸術作品を。どのトラックも素晴らしいけれど、やはり白眉は「花束を君に」だろう。音が泣いているのだ。ある人はルノワールの遺作である「ニンフ」を見て、「画面が泣いている」と言ったそうだが(誰だったっけ?)、この曲はそれぞれの楽器はそれぞれの仕方で泣いている、そんな印象を受ける。凡百の歌謡曲と、真の芸術作品を分かつものはいったい何の要素なのだろう――そんなことを思わず考えさせられてしまった。その問いに対する答えなどもちろんわからないのだけれど、本作は間違いなく後者に属する作品である。

 

 

ちなみに、かなりどうでもいいのだが、2曲目の「俺の彼女」は歌詞の一部がフランス語になっている。その中で”Quelqu’un à trouver ma vérité”という一文があるのだが、これが、”quelqu’un qui puisse ma vérité”なのか、それとも “quelqu’un dans lequel je puisse trouver ma vérité”なのかがよくわからなかった。前者は「私の真実を見つけてくれる人」という意味で、後者は「私がその人の中に私の真実を見つけられる人」という意味である。前者だとどちらかといえば他律的なニュアンスになり、対して後者だと自律的な含みが感じられる。この曲は男性と女性の言い分の掛け合いということもあり、この一文の語り手がどちらかというのも不明である。哲学畑出身としては、どうしてもこういうものを見ると「決定不能」と言いたくなってしまうのだが、これは歌詞に重層性を付与するために意図的に行っているのだろうか。よくわからない。