また落ち着かない

そんなに忙しかったというわけでもないのだが、あまり精神的に余裕がなく、どうしても一週間ほど文章を書く気になれなかった。それほど対して自分が置かれている状況が1ヶ月前と変わったわけではないのだが、向こう半年くらいのシナリオが複数存在している状況だと、どうしても落ち着かない。

 

☆☆☆

 

この間声をかけられた会社についての話。リクルーターの人が現場の人との面談をセッティングしてくれたので、40分ほど先方オフィスでその従業員の人と話す。オフィスの雰囲気は懐かしい…の一言だった。外資系のIT企業というのはだいたいどこも雰囲気が似ていて、まあ一言で言ってしまうと洒落ている。社内の雰囲気などについての話も当然聞いたのだが、おそらくは僕が前に働いていた環境にとても近いのではないかという印象だった。話してくれた人はとてもフレンドリーだった。業界が違うといる人もずいぶん違う。

 

で、いろいろ迷いはあるのだが、せっかくのチャンスなので正式に面接を受けることにした。僕だって転職なんてまったく好きではないし、できればしたくないのだが、世界に数社しかない「働きたい会社」がピンポイントで声をかけてくれたのだから、挑戦してみるかという思いはやはりある。リクルーターの人曰く、「一時面接はケース面接です」とのこと。おお、懐かしい…。昔コンサルを受けたときに練習したっけなあ。というわけで、35にして、久しぶりに参考書を引っ張り出し、「東京にはラーメン屋がいくつあるか」とか、「日本のクリーニング屋の市場規模はどれくらいか」とか、就活学生チックな問題の練習をしている。さてどうなることやら。

 

☆☆☆

 

なにかの寓意のような夢を立て続けに見る。一つ目は、浴室のバスタブで巨大な金魚が死んでいるのを発見する夢。これはかなり怖かった。起床後、念のため飼っている金魚たちの状態を確認したが、特に問題はなさそうで、いつもどおり僕にエサをねだってきた。らんちゅうのチビは相変わらず一匹だけのんきに水槽の底のほうでぼーっとしていた。

 

もうひとつは、知らない女性と浮気する夢。布団の中で僕はその女性の胸をまさぐっていた。これは自分自身かなり驚いた。ここ最近、女の人に対する強い性的欲求を自分自身感じたことがなかったからである。

 

大人になってからあまり夢を見なくなったので、これだけリアルな夢が続くと、なにかの予兆なのかと思ってしまう。別に何の脈絡もない話なのだが。

 

☆☆☆

 

僕の家族は僕以外が全員女性ということもあり、家族で休日を過ごすとどうしても女の子的な過ごし方が中心になる。百貨店やら量販店やらに行くときなんかが典型的で、僕は買うものを買ったらさっさと帰って自分のことをしたいのだが、彼女たちはいつまで経っても飽きもせずに、所狭しと並んだ商品を眺めている。IKEAなんかに行くと、買い物にかかる時間が本当に10倍くらい違って笑ってしまう。たぶん脳のつくりが根本的に違うのだろう。

 

ひとつ上記に関していいところを挙げるとすれば、「著名どころの買い物スポットの座れる場所・休憩できる場所に詳しくなれる」ということくらいである。もう出かけるときは、待っているときに読む本を事前に決めておいたほうがいいのかもしれない。

 

☆☆☆

 

寒くなってきた。明日は雪だそうである。それにしても、なぜアメリカがThanksgivingのときに、この国ではクリスマスソングを流しているのだろうか。11月なんだから七五三ネタか何かをもっと盛り上げればいいと思うのだが。

清掃飢餓

今週末もあっという間に終わってしまった。世の中の多くの人々が週末をどのように過ごしているかというのは僕の計り知らないところだけど、少なくともここ5年ほどの僕に関しては、土曜日は片付けと子ども関係の雑事、日曜日は買い出しと子ども関係の雑事、それに多少の行楽(とはいっても、駅まわりやら公園やらに行くだけ)を加えて終わりという感じである。月月火水木金金なのだ。こういう日常で何が一番困難かというと、本格的な清掃――というか、モノを捨てるという作業――を行うチャンスがほとんどないということである。もちろん、日常生活に問題がない程度の片付けは日常的に行っているのだが、「本当に必要なものだけを選別する」という作業は、振り返ると5年以上行えていないということになる。というわけで、12月におそらくは外部サービスの助けを借りて、いわゆる断捨離というものを行ってみるつもり。おそらく、我が家にあるもののうちの半分くらいは今この瞬間にこの世からなくなってもまったく困らないものなので、向こう2か月くらいで、もう少し家庭を筋肉質にするというか、経営的に言えば在庫回転率を上げるようにしたい。会社では毎月そういう指標を見ているにもかかわらず、家での管理はほとんどできていないので、これからの目標としたいと思う。

 

☆☆☆

 

香港の書店で哲学のコーナーを見たら、70%くらいは中華思想に関するものだった。老荘あたりから始まって毛沢東あたりまで、原書と解説書の類がこれでもかというくらいに置かれている。現代の中国人がそういったものをどれくらい読んでいるのかというのはよくわからないのだが、書店での存在感からすると、例えば一般的な日本人の親鸞に対する感覚よりは、中国の人たちはいわゆる中華思想をずっと近しいものとして感じているのではないかという気がする。ちなみに、残りの30%のほとんどは西洋哲学で、プラトンからロールズあたりまで有名どころはだいたいそろっていたのだが、フランス現代思想の類はフーコー以外ほとんど見当たらなかった。このあたりは、今でもデリダの訳書が刊行されると局所的な盛り上がりが見られたりする日本なんかと比べると、ずいぶん異なっているような気がする。どちらがいいとか悪いとかいう話ではないと思うのだが、今でもフランス現代思想という領域が一種のヘゲモニーを形作っている日本のほうがどちらかといえばいびつなのではないかと思う。このあたりは戦後日本における思想的なトレンドに加えて、東大駒場の政治的な話も絡んでいるのでずいぶんややこしいのだろうが、追及すればそれなりに面白いテーマなのではないかと思う。

 

いずれにせよ、西洋思想という借り物のことをずっと勉強してきた身としては、中華思想という屋台骨を持つ中国のことを少しうらやましく思った。たぶん漱石もイギリスで同じようなことを考えすぎて、頭がちょっとパンクしてしまったのではないかと思う。

 

☆☆☆

 

ずいぶん前、オフィスのデスクに備え付けてあるホワイトボードに、『グレイト・ギャツビー』のラストの一文を書いておいたら、上司(UK出身)とその取り巻きがやってきて、"Very deep"やらなんやら小学生みたいな感想を連発していた。二人ともきちんとした教育を受けた人なのだけれど、そんなものなのだろうか。英国の人は米国のものは邪道だからあんまり読まないのだろうか。日本人の大人が『草枕』の冒頭を知らなかったらやっぱり結構恥ずかしいと思うのだけれど、それは僕の出自ゆえの凝り固まった価値観なのだろうか。よくわからないけれど、世界的に教養というものが危機にさらされていることを実感したエピソードである。まあずいぶん前の話なのだが。

 

☆☆☆

 

月曜からかなりバタつきそうだが、気合を入れて乗り切っていきたい。

サラリーマン的デタッチメント

選挙のことはあちらこちらでいろんな人がいろんなことを言っているのでまあどうでもいい。アホみたいな結果ではあるが、結果は結果である。これから、いろんな業界・ジャンルの解説屋が分かりきったような解説やら講釈やらをするかと思うと、想像するだけで若干食傷気味になる。長期的に見ていろいろ日本にも影響は出てくるだろうけれど、ひとつ言えることは、株やらETFやらを買うのであれば、この一時的なトレンドは逆にチャンスであるとも言える。僕も明日ポートフォリオに少し手を入れる予定。

 

☆☆☆

 

「もう3年くらいして、この会社でいいポジションが空いたらぜひ受けてみたいなあ」と思っていた某企業からスカウトメールが届く。「是非会いたい…云々」と、典型的なリクルーター決まり文句が記載してある。その会社のオープンポジションを調べたら、僕と似たようなポジションがその会社で少なくとも2~3は空いているというちょっと異常な状態である。まあ多分内部事情がいろいろあるのだろう(実にありそう)。この会社に限らず、この職種はいろいろな会社で「人がいない」と言われているようで、若干バブルの感がある。

 

ともあれ、別に転職を積極的に考えているわけではないのだが、まあ先方が興味を持ってくれているということで、来週担当者と一度会ってくる予定。

 

☆☆☆

 

仕事、家庭、スクーリング、興味のある会社からのメール、住宅ローンの借り換えに伴う雑務…そういった諸々が重なり、あまり集中できない状況になっている。元々この11月~12月はそつなく年を終えようというくらいしか考えていなかったのだけれど、急にいろんな方向にベクトルが動き出して、頭が若干混乱しているというのが正直なところだ。ちょっとしたイベントのようなものもところどころにあり、腰を落ち着けてものを考えるというのが極めて行いにくい。

 

まあある程度は大きな流れに身を任せて、自分がやるべきことをひとつひとつこなしていくしかないのだろう。2017年の年明けを晴れやかな気分で迎えられるように、まずは目の前に来るボールたちを必死に打ち返そうと思う。

 

 

 

 

 

 

混沌の風景

混沌であって、フランス語のcontentではない。というわけで、家族で香港に行って、しけたビルのしけたホテルのしけた一室に宿泊する。いきなり「予約入ってない」という海外安ホテルにお決まりの洗礼を浴びて、「おお久しぶりだな、こういうの」と思っていたが、今回は家族を連れているので笑いごとではない。ともあれ、なんとか部屋を確保し、予定どおりに結婚式に出席する。新婦は「えれーべっぴんさん」という表現がぴったりのChinese Ladyだった。頭もよさそうだし、愛嬌もたっぷりだ(ここ重要)。友人にいいパートナーが見つかってよかったなあと思った。前職の偉いひとたちがたくさん来ていたので、ずっとサラリーマン的に恐縮してばかりだったのだけれど、まあみんな元気そうでなによりである。

 

細かいことを書こうとすればいくらでも書けるのだろうが、一点だけ触れておくと、とにかく香港では赤ちゃんを連れているというだけで特別扱いされた。子どもは宝だという価値観が、「太陽は東から登る」という普遍の法則のように人々の間に行き渡っているような印象を受けた。

 

日本に帰ってきて翌日、案の定体調が悪くなる。体は体なりにいろいろ気を遣っていたのだろうなあと思う。それに油ものばっかり食べていたので(ほとんどそれしか選択肢がない)、まあある程度は仕方ないのかと思う。

 

☆☆☆

 

英語で”Are you happy?”と訊かれると、すぐに”Yes, I’m enjoying my job and have a gorgeous wife and two adorable daughters”とか答えられるのだが、日本語だと「うーん…」となってしまうのはなぜなのだろう(僕だけかもしれない)。日本語についての僕の持つ業があまりに深いせいなのか、あるいは、日本語という言語を通して経験した感情が英語のそれよりもはるかに多いせいで、「幸せ」という原色の感情が心の中に発色しにくくなっているのかもしれない。英語のほうを日本語に近づけるという観点だと、英語でもわりと根暗なテーマ(例えばabyss of the existenceなんかのハイデガー的な話)について話す友人がいないことはないのだが、やはり数は相当限られてしまう。まあまずはもっと英語を読めということなのだろう。読めば読むほど闇は深くなるのだろうが。

 

☆☆☆

 

というわけで35歳になった。ここ数年誕生日にはほとんど感慨がなかったが、例によって今年も何の感慨もない。35歳を自分の中のマイルストーンにしているわけでもないので、ひとつ自分の満年齢が上がったという事実が僕の前にあるだけに過ぎない。このくらいの年代のマイルストーンという意味では、僕はどちらかといえば37歳という年齢に重きを置いている。たぶん以下の記事に影響されているのだと思う。実体験としても、その人の人生が総体としてよいものであったか否かというのがいろいろなところに出てくる(出てきてしまう)のは、37歳前後からではないかと思う。

 

最後通告は37歳 - Chikirinの日記

 

まあとりあえず、僕は僕の人生をひたすらに走るだけである。

 

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今年もあと2ヶ月だが、終盤までいろいろと慌しい日々が続きそうである。気合…といいたいところだが、年齢に応じた賢さを持って乗り切っていきたい。Let’s play wisely.

エリートたちの横顔

とても偉い人たちがそろって日本にやってきたので、会議の末席に出させてもらう。やってきた面々を見ると、絵に描いたようなエリートばかりで思わず笑いそうになってしまった。おそらく一般的には一番派手に見られるであろうハーヴァードのPhDを筆頭に、アイヴィー・リーグの出身者ばかりである。こう考えると、アメリカの会社は多様性が重要とか標榜しながら、実のところは相当なモノカルチャーだなあとしみじみ思う。要するに役員なんかの重要ポジションに就くのは、高学歴で(学部でサイエンス系の学位、修士でMBAが多い)、リーダーシップのある白人の男性(いわゆるWASP)であるべきであるというのが、社会的に認められた不文律なのではないかという話である。IT業界だとインド系だったり、もう少しバックグラウンドに面白みがある人がいたりもするのだが、業界的に古ければ古いほどそういったモノカルチャー傾向は強いのではないかという気がする。

 

ちなみに、上記エリートたちのうちの一人のプロフィールをbloombergで見てみたら、年間給与$2.4m(約2.4億円)とあった。日本人男性の生涯賃金とほぼ変わらんではないか。こういう数字を目の当たりにすると、ピケティのr>gなんか当たり前じゃねえかとか言いたくなってしまう。たぶんこういう人たちは、「給料日前で金がないから、今日はささみと玉ねぎでチキンライスにしよう」とかあまり考えたりしないのではないか。どうでもいい話ではあるのだが。

 

☆☆☆

 

広島から友人が上京したので、5年ぶりに会う。久しぶりに会った彼はすっかり父親の顔になっていた。

 

「子どもと過ごす時間を削って、なんとか読書やら勉強やらの時間をひねり出して、でも一日一時間くらいがやっと。そうなるとさ、もうそんなのやめちゃって子どもにその時間も捧げたほうがいいんじゃないかって気がするんだ」、と彼。

 

少し感じ方は違うのだが、僕もその気持ちはよくわかる。まあ30代中盤にはつきものの悩みなのだろう。僕はハンドドリップで淹れられたとても濃いコーヒーを一口飲む。その後、広島のカキの美味しさやベーシックインカムの実現可能性についてああでもないこうでもないと議論し、しばしの沈黙の後で彼は言う。

 

「なんというか、精神的なクライシスの意味がわかってきた気がする。それがどういう形をとるのかはわからない。でもどこかで精神的にパンクしてもおかしくないなと思う」

 

客観的に見て、彼はとても頭のよい人で経歴も立派だし、おそらくは仕事でもしかるべき評価を得て、幸せな家庭を築いているのだろう。でもそんなこととは無関係に、彼は彼なりに心の中に住む魔物と必死に闘っているのだ。その気持ちは僕にも本当によくわかる。いや、自分が自分の人生をなんとかそれなりのものとして送れているという気持ちがあるほど、そうした内面の地獄というのは底の見えない、救いがたいものになっていくのかもしれない。

 

「40代、50代とどこを見て生きていくべきかな」、僕が言う。

 

「それがよくわからないんだな」

 

そんな感じで月曜の夜は終わっていった。

 

ろくでもない日のブラームス

Bad hair dayというのは女性が好んでよく表現らしいのだけれど、まだ実際の会話で聞いたことがない。たぶんアメリカで暮らしたことがないせいだろう。まあそれはそれとして、今日の僕は本当に何をやっても裏目に出る、そんな日だった。仕事でいくつかのヘマを犯し、情報共有の遅れをとがめられ、帰宅したら娘に尿でスーツを濡らされる――そんなろくでもない一日だ。”Everything happens to me”の追加1コーラスにでも書けそうな日である。その追加された部分を僕のためにもし誰かが歌ってくれるのであれば、アニタ・オデイがいいなあと想像する。彼女の歌う” A Nightingale Sang In Berkeley Square”を、数年前から僕は愛聴している。甘い曲だ。

 

甘い曲といえば、今僕はこの記事を、グールドのブラームスを聴きながら書いている。グールドといえばバッハという、おそらくは人口に膾炙した先入観を僕も長く持ち続けてきたのだけれど、とある人の勧めで、この稀代の変態ピアニストの弾く晩年のブラームスを最近初めて聴いて、その世界観にすっかり魅了されてしまった。おそらくはそう人と変わらないチョイスなのだとは思うが、やはり僕もop. 118-2にもっとも心魅かれる。珍しくリンクなんか貼ってみよう。僕が聴いているグールドによる同曲の演奏だ。

 

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描かれた世界は、ポール・ユーンの文体を思わせる。決して雄弁ではなく、けれども寡黙というわけでもない。ピアノは確かにそこにある何らかの感情を語っている。おそらく、嵐はすでに過ぎ去ってしまったのだろう――怒り、嘆き、悲しみ、憂い、いやもしかしたらそれは、激しい恋愛感情だったのかもしれない。事実、老年にさしかかっていたブラームスは、生涯の思い人であり、人生と音楽の師でもあったクララに、この曲を含む6曲の間奏曲を捧げている。ある人はこの曲の中に、暖炉の前で語り合う老年のブラームスとクララを見出している――この上なく親密な二人を。身勝手に相手を束縛しようとしているわけでもなく、性的なものを求めているわけでもない。でもそれは、おそらくは共に感情の波を泳いだ男女の間でしか共有できない感情ではないかという気がする。パッセージは優しく、むやみに美しい。過ぎ去っていったものへの慈しみが痛いほどに伝わってくる。そういえば、ずいぶん秋も深まってきたけれど、こんなに秋の似合う曲もないよなあと思う。

 

久しぶりに音楽について語ってしまった。そんなろくでもない日の夜。

なんじゃもんじゃ

木曜ということで疲れもずいぶんたまっているのだが、気分転換に少し書く。秋が深まってきたせいだろうか、ここ一週間ほど夜はジャズばかり聴いている。19世紀のクラシック、50年代のジャズ、70年代のロック、そして90年代のポップス。だいたいその4カテゴリを、ヤッターマンがマシンを選ぶときみたいにローテーションするわけである。別にどうでもいい話なのだが。

 

☆☆☆

 

友人と月島までドライブに出かける。ドライブといってもわが家から30分もかからないので、最寄の駅の喫茶店で喋るのと感覚的にはあまり変わらない。当地では例によってもんじゃを食べる。すでにほぼ半生を都会で暮らしているというのに、これまでこの粉モノのメッカに足を運んだことがなかったというのは若干不思議である。しかしながら、粉のわりにもんじゃというのはなかなか強気な価格設定をしている。まあ観光地だから、売り手側も若干のプレミアムを乗せているのだろう。

 

もんじゃの後はどこにでもあるファミレスでぺちゃくちゃとどうでもいいことを深夜まで話す。僕はSNSが人間関係をどれだけ粗末なものにしたかを熱弁する。

 

「あれは孤独の装置なんだ。見れば見るほど自分が希薄化していくんだ」

「じゃあもし子どもがSNSを使いたいっていったら?」

「『ダメに決まってる』だな」

「ははは」

 

かくして夜は更けていく。

 

☆☆☆

 

よく言われることだが、インターネット、わけてもSNSは多くの現代人を奴隷化してしまった。まったく利益にならない情報のために大量の時間を使い、ときには感情を乱され、それでもなお人は情報の波に飛び込んでいく…これを中毒、あるいは奴隷と言わずしてなんと呼べばいいのか。昼は会社で奴隷で、夜はネットで奴隷をしていたら、起床している時間のほとんどを奴隷として過ごしていることになる。オンライン奴隷化について、僕はそれほど多くの先行研究にあたったわけではないが、おそらく同じような議論は枚挙に暇がないだろう。

 

というわけで、やはり家では極力PCを見ないようにする。代わりに遠くをみたり、本を読んだり、子どもたちの顔をみたりすればいいのだ。Not rocket scienceである。

 

☆☆☆

 

塩狩峠』は2日ほどかけて読んだが、偽善臭さばかりが鼻についてどうもダメだった。あれで感動する人はたぶんあまり読書経験がない人ではないかと思う。マルクスなんかを読んで「すべてを疑え」とか言っているような人間には不向きの本である。三浦綾子という人は結局「文学」ではなくて「説教」をしたかったんだろうな、と思った。