英字新聞はどれを読めばいいのか

英語の/による学習や情報収集のために、何を読んだらいいのかということを時々訊かれるのだけど、これの質問に正直に答えると「何でもいいんじゃない?」ということになってしまう。だいたいそういう質問をする人は、どの媒体が云々とかいう話以前に、根本的な学習量が不足している場合が多いからである。とはいえ、それだけだと実もフタもなくなってしまうし、僕自身、最近また定期購読する媒体を選んでいるところでもあるので、英語のクオリティ・ペーパーについて整理したものを以下に記す(個人的な偏見が多分に混じっているので注意されたい)。

 

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いきなり結論から入ってしまうと、とりあえずEconomistを読んでおけばOKということになってしまう。記事がカバーしているジャンルも広いし、掲示板での議論も非常に活発で面白い。ビジネス関係でも、「Economistさえ読んどけば、とりあえずセーフ」というような感じさえある。問題は、英文が硬く晦渋なので、長く読んでいるとどうにも疲れてしまうことである。お金を払って読む価値のあるものだとは思うけれど、ちょっと毎日読むと胃がもたれてくるようなところがある。それと、EconomistによるMBAランキングには相当の瑕疵があるような気がする。

 

価格に着目すると、まず目を引くのがTimeの安さである。一ヶ月500円でプリント版も着いてくるので、これはまあ相当安い。たぶん月4回送られてくるのだろうが、問題はとてもそんな量は読みきれないということである。業務が多忙になってくると、英字紙を読むどころか、天気予報とyahooニュースしか見ないという情けない状態にすぐなってしまうくらいなので、ちょっとそんなに宅配されても辛いんではないかという気がする。そもそもタイムリーに受け取れるのかさえ怪しい。

 

もう少し価格を見てみると、JTと日経の値段の高さが目立つ。この高さの理由はよくわからないのだけれど、まあ一度ダンピングをしてしまったら、もう顧客はお金を払ってくれなくなるだろうから、価格戦略としては概ね正しいのではないかという気がする。ちなみに、Japan timesについては、僕は毎週日曜日に発行されるJapan times on Sundayが好きなのだけれど、最近あまり置いている店がなく残念である。STはよく見るのだけれど、このあたりは日本人の平均的な英語能力を反映しているのだろう。

 

ちなみに、日・英に加えて、フランス語の高級紙もL’ObsだとかL’Expressだとかいろいろあって面白いのだけれど、日本で仕事をしているととてもそこまで読んではいられない。このあたりは日常的にフランスに関わる、あるいはフランス語を使用している人でないと、なかなか手が回らないだろう。僕は哲学の世界では、ほぼ100%大陸式で育ったけれど、ジャーナリズムについては最近英米系一辺倒である。どちらがいいとかいう話ではないのだが。

 

しかしながら、ここ20年くらいで、人類の目にかかる負担というのはとんでもなく大きくなっているのではないか。人間はせっかく5種類も感覚があるのに、なぜ目への負担だけが突出して大きくなってしまっているのだろう?効率性を追い求めた結果なのだろうか。個人的には鼻あたりにもう少しがんばってほしいと思うのだが。

 

少し話が脱線したが、まとめると、日本人の国際志向ビジネスパーソンであれば、日経+Economistが王道なのではないかと思う。ただし、ランニングコストが月々7,500円くらいかかってしまうので、ROIを重視するようであれば、日経+Timeというのもいいかもしれない。

タイフーン

三連休の真ん中の日曜日。西日本ほどではないにせよ、都内も天気が悪く、なんだか無為な一日を過ごしてしまった。何しろこういう日だと、子どもの遊びの種類が限られたものになってしまうため、彼女たちのストレスもだんだんたまってきて、その解消だけでもずいぶんとエネルギーをとられてしまう(おままごとやら、絵本読みやらに延々つきあうわけだ)。それでも、夕方に小一時間ほど時間がとれたので、なんとかジムに行く時間くらいは確保することができた。20分ほどランニングしたら、体中のもやもや感がいくぶん和らいだような気がした。

 

☆☆

 

いろいろなところで話題になっているが、WantedlyIPOがなんだかいろいろと凄まじい。上場決定→DMCA申請→当然炎上→株価暴騰(PER7,000という戦闘力的インフレ)→CEO上場会見キャンセルという意味不明な流れになっている。しかも、会見のキャンセルはCEOの「都合がつかなかったため」であるという。創業者による上場会見より重要なことなんて何があるんだよと、さすがにここは部外者でも突っ込みを入れたくなってくる。

 

かの社をめぐる議論(というか、ネガティヴな評判)はWebのいろいろなところですでに行われているのでここでは特に触れないが、個人的に気になるのが、仲CEOの顔である(だいたいどこでも人の顔ばかり見ている)。当然手腕は敏腕だろうし、まったく個人的な恨みもないのだが、どうにも彼女からは重み――一般に経営者から感じられるようなそれ――のようなものが伝わってこないのだ。まだ32歳の女性だから当たり前といえば当たり前なのだが、人の人生を預かることの重みや、人生の機微、どうにもならなさを抱え込んだことはおそらくないのだろうなと、彼女の顔を見ていると思ってしまう。そしておそらく、少なくない数の個人投資家が、僕と似たような感想を持つのではないか。

 

ともあれ、この上場にはいろいろ問題があると思うけれど、そういうものが許容されてしまう、今の新規株式公開のルール自体にいろいろ問題があるのだろうと思う。また実務の中でも証券取引というのものがどうあるべきかを僕なりに整理しておく必要がある、そんなことを考えさせられた一件である。

 

☆☆☆

 

紀尾井町シベリウスの2番を聴く。よく演奏されるレパートリーではあるけれど、オケを聴くのは初めてである。最前列のほう­で聴いていたので、フルートの音がよく聴こえて気持ちよかったのだが、残念ながら、どうにも曲の世界に入りこめなかった。第2楽章を聴いているときなんか、暖房の入らないオフィスで延々とエクセルと格闘している自分を想像してしまって疲れてしまったくらいである。それでも第3楽章終盤~第4楽章はなかなか聴かせた。あまり聴きこんだことのない曲なので、またぜひ別のオケで聴いてみたい。

 

☆☆☆

 

「結局さ、組織を大きくするために、女の視点なんか邪魔なんだよ」、学生時代の友人(女性)が言う。「細かいところが気になりすぎるから」。

 

僕はそれを聞いて何も言わない――というか何も言えない。それの是非を判断できるほどの経験を僕はまだ持っていないし、何を言っても不正解であるような気がするからだ。それでも、社会人生活が10年を超える女性が、女性一般に対してそうしたレッテルを貼ってしまっていることの意味は重い。当然ながら、フェミニズムの観点からすれば一発退場モノの言説だろう。もちろん多数決が正しいというわけではないけれど、この彼女の意見は多くの女性にとって支持されるものなのだろうか。

 

それはそうと、この彼女に「君は15年前よりずっと素敵に見える」と言ったら、なんだか照れていて可愛かった。こういう台詞を吐いてしまうのは、たぶん村上春樹を読みすぎたからだと思う。

 

☆☆☆

 

どうも今年は雨が多い。明日は晴れてくれるといいのだが。

「バリバリ働く」という幻想

「バリバリ働く」というのは、おそらく日本語として公正妥当として認められたコロケーションであるように思われる。しかしながら、残念なことに僕は、「バリバリ働いているね」とかそういうことは言われたことがないし(ヘロヘロになるまで、とかはよく言われる)、まわりで「バリバリ働」いている人と言われても、そのイメージに合致する人はあまり見当たらない。戦略コンサルを生業としている友人のことなんかを考えても、「バリバリ」というよりは、「一心不乱」というような言葉のほうがニュアンスとしては近いような気がする。

 

おそらくその理由は、「バリバリ」という言葉が一定の犠牲を含意しているからではないかと思う。どうも僕には、この言葉が「プライベートを省みずに働く」とか、「子どもとの時間を犠牲にして働く」とかいうような、ネガティヴな意味を含んでいるように思えてならないのである。太平洋戦争なんかの例を持ち出すまでもなく、日本人は犠牲の構造が大好きである。犠牲は美化され­、個人の生き方を尊重させようとする時代の気分もあいまって、「バリバリ」は社会的に肯定される。どちらかというと、この言葉は女性が用いることが多いような気がするが、そのことは、相対的に女性のほうが労働という行為に際して犠牲を強いられているという事実と決して無関係ではないだろう。

 

少し話が脱線するが、ここ数年僕が気になっている人として、株式会社ビザスク代表の端羽英子さんがいる。なぜ気になるかと言われれば単純で、この人の顔が好きだからである。率直に言ってとても素敵な顔をしている。なんというか、地に足を着けて悩んで、現実的に、真摯に人と向きあってきた――話したこともないので、もちろん想像するしかないのだが――のが一目でわかる、そんな顔をしている。とても魅力的だ。そして僕には、この人の顔には「バリバリ」という形容詞は極めて似つかわしくないように感じられる。Goldman→あなたにはその価値(以下略)→MIT→投資ファンド→アントレという、おそらくは人が羨むようなキャリアを経てきたにもかかわらず、である。なぜなのだろう?

 

それはおそらく、彼女が何かを犠牲に働いているわけではない(ように見える)からではないかと思う。彼女の顔から伝わってくるのは、日々の仕事、従業員との関わり、家族との日常のそれぞれを、バランスをとりながら楽しんでいる一人の女性の姿だ。持続可能性と言ってもいいかもしれない。結局バランスを欠いた生き方は長続きするものではないし、経済成長が全てではないこの時代に、限られたリソースを仕事だけにつぎ込んでしまうのは、人生のポートフォリオとしてちょっとリスクが高すぎるのではないかという気がする。

 

ともあれ、「バリバリ」もいいけれど、やっぱりトータルで幸せになるにはバランスが必要ではないのか、という話である。もちろん万人が納得する人生の効率的フロンティアなんて存在するはずがないので、そのあたりの配分は一人一人悩みながら試行錯誤するしかないのだと思う。男性であろうと、女性であろうと。

 

ちなみに僕の人生のポートフォリオには「哲学」というなかなかエッジの利いた不良債権がある。「人生の意味が定期的にわからなくなる」という優待特典付き。皆さんもおひとついかがでしょう。

カリアゲ狂騒曲

急に気温が下がったせいか、なんだか微妙に体調がすぐれなかったので、この週末は意識して疲れをとるようにした。8時間ほどの睡眠をとって、外出を控え、栄養のあるものを摂る――とまあ、コンサバながらも教科書的な週末を過ごしたわけである。空き時間には金魚用の水槽を洗い、回転率の低い書籍を処分し、ふるさと納税の処理と生活必需品の発注を行った。不思議なのだが、こういう日常の面倒なことを整理していくと、体の中から疲れが抜けていくような気がする。もはや僕にとって、家の掃除(および雑事の処理)は数少ない趣味のひとつと呼んでもいいかと思うのだが、それは清掃という行為がこの疲労回復というポジティヴな副作用を持っていることと無縁ではないような気がする。

 

☆☆☆

 

11月のスペインでの授業に向けた航空券・ホテルの手配が完了。全部でだいたい18万円くらい。当地でもネットワーキングなんかがいろいろあるだろうから、たぶん全部で25万円くらいはかかるのだろう。フルタイムのMBAにかかる費用に比べたらなんてことのない金額ではあるけれど、鶏ムネ肉の底値を気にしているような日常から考えると(要するにケチなのだ)、やはりけっこうな出費である。正直な話、ビジネススクールというところにずっと行ってみたかったし、それなりの期待値もあるのだが、そこで得られるものという点では、僕はかなり懐疑的である。そもそもの出発点が、「生きるか死ぬかのビジネスが学校のお勉強でわかるのかよ」という極めて健全な批判的立場なので、まあこれは仕方ないだろう。そう思うと、「じゃなんでお前行くんだよ」となってしまうのだが、まあそれは「どうしても一度行っておきたかった」というふうにしか説明できないのかもしれない。

 

☆☆☆

 

北のカリアゲ君はだいぶアタマに血が上っているようで、戦争前夜ムードもずいぶん高まっているような印象を受ける。正直、東京に核ミサイルなんか飛んできたらもう祈るしかないと思うのだが、内閣官房サイトのガイドラインでは「地面に伏せて頭部を守る」なんていうずいぶんとおめでたいことが書いてある。八紘一宇時代と何も変わっていないではないか。

 

ともあれ、気休めながら、インフラが止まったときのことを想定して、数日分の食料を買いに行く。アルファ化米とレトルトおかずに、インスタントラーメン、そして水。「核の冬」状態になった場合でも、とりあえずこれで2、3日は生き延びることができるると思う――というのは少し楽観的に過ぎるかもしれないけれど。まあ前々から地震対策もしなければいけないと思っていたので、変な話だが一石二鳥といえるのかもしれない。

 

☆☆☆

 

帰りの新宿からの電車、魅力的な女性と目が合う。25歳くらいだろうか。その艶やかさは、僕の心の深いところにある、密やかな欲望と絶望をそっと呼び起こす。思い出すのはだいたい過去の後悔のことだ。語られなかった言葉と、触れられなかった髪、唇、乳房――思い返すのはいつもそんなことである。時が過ぎても、精神が成熟のほうへと向かおうとも、そうした思いが心の中から消えたことはないし、これからも未来永劫消えることはないだろう。

 

密やかな絶望――おそらくそんな満たされない思いを抱えながら、僕は繰り返される明日を、そして平坦な未来を生きるのだろう。カリアゲ、僕の記憶装置を君のミサイルでぶっ壊してくれないかな、と思う。でも僕の心の声は届かない。カリアゲに届く前に社会的に抹殺されるからだ。

いつかの街へ

娘2人を連れて帰省する。このブログの一年前の記事を見ると、どうやら昨年もこの8月4週に子供連れで帰省していたようだ。とはいえ、去年は長女だけだったのに対して、今年は僕一人で長女・次女をケアしながらの帰省だったので、かなり難易度は上がったような気がする。実際、この文を書きながら、新幹線の中でどんなことがあったか思い出そうとしているのだが、たった3日前のことにもかかわらず、記憶は脳のかなり奥のほうに沈殿している。

 

地元の駅に着くと、大河ドラマ関係の掲示がずいぶん目立つ。どうも当地の今年の目玉は、この大河効果による観光客誘致であるようだ。まあ儲かるのはいいことなのだろうが、だいたいそういう一過性のネタで数字が上がると、売上や経費がリニアでなくなってしまうことが多く、実際には経営上リスクとなってしまうことが多い(出版社のベストセラー倒産と同じ)。当地の行政や経営者には、一過性の外部要因に期待するのではなく、地域経済を底上げするような投資をぜひ積極的に行ってほしいところである。

 

ともあれ、実家に帰る。ここ数年、帰省するたびに思うのは、「ああ、僕はもうこの街に住むこともないし、おそらくは住むことができないだろうな」ということだ。もちろん、生まれ育った街だし、思い出もものすごくたくさんあるので、それなりの愛着は当然あるのだけれど、それらは僕にとってすべて過去に属するものである。事実、数日間当地にいるだけで、当地の受動的な――という表現が適切かどうかはよくわからないのだが――生活スタイルが息苦しくなってきてしまう。だいたい東京にいるときは、週あたり50時間働いて、15時間勉強するというのを大まかな目安にしているのだけれど、地元の街でこういう生活をしていたら、おそらく煙たがられるだけである。

 

とはいえ、僕もそれなりに大人になったからなのか、自分の育った街を多様な視点から見られるようになったなとは思う。昔はまったく興味のなかった史跡や、人口動態、地元企業のPERなどなど、今見るとなかなか興味深いものが多い。大河ドラマフィーバーが終わったあとに、ゆっくりと車で地元めぐりをするのも悪くなさそうである。

 

☆☆☆

 

地元つながりの話。そういえば、本田宗一郎が東京にいたときの家は、僕が今管理しているビジネスのオフィスから徒歩数分のところにあって、こういうのも因果めいたものを感じさせる。この間、たまたまその付近でうなぎをご馳走になる機会があって、「この店に彼もよく来ていたんだよ」と言われて初めて知った話である。

 

そういえばもうずいぶんと長く乗っていないけれど、やはりバイクはホンダが好きだ。ホーネット、スーパーフォア、クラブマンスーパーカブと、特に選んだわけでもないけれど、なぜかこれまでホンダのバイクにしか乗ったことがない。特にホーネットの機械的なキューンというエンジン音を聞くと、都会に出てきたころの暮らしを思い出して、なんとも言えない気持ちになる。もう少し歳を重ねたらトライアンフのボンネビルに乗ってみたいなあと思わなくもないのだが、そういう機会があっても結局はホンダに戻ってしまうような気がする。

 

やりたいことがないことについて

やりたいことがない。いや、そういう言い方は適切でないのかもしれない。情熱の行き場がないと言ったほうがより表現としては正しいような気もする。

 

同年代の周りの人々を見ると、どうもこの35歳あたりというのはそういう意味での分岐点であるようだ。だいたい教科書的な人生を送ると、28歳~35歳あたりでライフイベント(結婚・転職・子育て・住宅購入・近しい人の死別)がいくつか発生して、20代のころと比較すると忙しく生活に追われるようになる。「やりたいこと」ではなく、「すべきこと」を優先しなければならないようになるわけだ。会社が休みだろうと子どもの面倒は見なくてはならないし、住宅ローンと税金の支払いがない月というのは原則として存在しない。そういう生活を送ってくると、内的な欲求――要するに「やりたいこと」――というものが自分に存在するのかさえもだんだん疑わしくなってくる。

 

そう書くと、賢明な読者はこう疑問に思うだろう。「それはただあなたが今忙しすぎるだけではないのか。子育てがひと段落したら、昔からやりたいと思っていたこと思い出して、それらを存分にすればいいじゃないか」、と。

 

それは一見納得感のある反論のようにも聞こえるが、実際のところはそう単純ではない。理由は主に次のふたつだ。

 

ひとつめの理由は、人が求めるものは年齢や環境によって変化するからである。事実、10年前、あるいは5年前の自分に存在した欲求、もっと言えば征服欲や顕示欲は、もうほとんど存在しなくなってしまった。例えば10代のころは、それこそギターを弾くのが何よりも楽しかった。お金もなかったし、それで女の子にモテたような記憶もなかったけれど、ロックンロールが鳴っていて、チョーキングがうまく決まったら、もうそれだけでけっこう幸せな気分になることができた。けれども、既婚子持ちの35歳になってそうも言ってはいられない。残念ながら、現実の生活においては、音楽に慰め以上の価値が認められることは極めて少ないのである。それに、Youtubeなんかを見れば、ものすごいテクニックを持っているにもかかわらず、おそらくはそれをほとんど社会的・金銭的価値に還元できていないと思われる人々が大量にいることは、容易に実感できる。そういうものを観ていると、音楽にリソースをつぎ込むということがどうしてもバカらしくなってきてしまう。音楽だけではなく、僕の場合は哲学についても同じような感じであまりのめりこめなくなった。

 

ふたつめの理由は、最低限の経済的安定性を、おそらく僕はすでに手にしてしまったからである。そうなると、生活の質は自然に向上し、良くも悪くも、日常にある程度の自己充足性がつきまとってくる。それと同時に、社会でお金がどのように回っているかというのも、ある程度わかってしまってしまうようになる。だいたいこのくらいの会社で、このくらいの仕事をすれば一年で1,500万円くらい、このくらいの仕事だと800万円だとか、一ヶ月にこのくらいの貯金を続けて、年間利回り5%くらいで運用できれば、55歳で1億円くらいの資産は作れそうだとか、そういうことだ。同時に、大人になるにつれて、ひとつめの理由で挙げたような、もともとの「やりたかったこと」に対して与えられている社会的価値の低さについても、否が応にも知ってしまうことになる。ミュージシャンの多くはフリーター同然の生活をしていることは周知の事実だし、哲学の研究者を目指すことは、少なくとも一定期間ニートになることと同義である(それが終わっても、まともなアカデミックポストがなければ非常勤で糊口を凌ぐのが関の山だ)。 

 

とはいえ、今現在、人生の先がまったく見えないというような袋小路にいるわけではないことを考えれば、僕はそれなりに妥当な選択をしてきたのだと思う。もっと言えば、「こうはなりたくないな」というものを徹底的に避けた結果、今いる小市民の自分が結果として生まれたとも言えるかもしれない。まあそういう意味では、足元の生活自体はそこそこまともに送れているので(たぶん)、これから人生の後半生に向けて、おそらく自分の「やりたいこと」を再発見するという課題が与えられているということなのだろう。言ってみれば、30代後半でもう一度「自分探し」をしろと言われているようなものだ。明らかにオッサンのコアゾーンに足を踏み入れつつ中で「自分探し」をするというのはいささか気恥ずかしいものがあるが、たぶんやってみたらなかなか面白いものなのではないかという気がする。僕は中田さんのように日本酒ハンターにまでなる自信はないけれども。

 

最後に、「やりたいことがない」ことは、一見するとネガティヴにも聞こえてしまいがちだけれど、逆に言えばある程度現状に満足できているという点において、100%否定すべきものではない。そして、この状態は極めて正常というか、誤解を恐れずに言えば、「普通」である。少なくとも、先進国で一定水準以上の生活をしている状態であれば、それはそう珍しい状態ではない。その場合はたいてい、欲求の表出がマズローの第三段階から始まる(シード扱い)されるので、対象を見つけることも、それを実現するのも困難なのは当然なのである。

 

というわけで、ここまでおつきあいいただいた読者へのささやかなアドバイスして、僭越ながら一言言っておこう。やりたいことなんか後で探せばいい、まずは消去法でいいんだ、と。人生の選択の段階では、やりたくないことを除いていって、その中で自分がやれることで、かつ世の中が認めてくれることをある程度やってみればいいのである。少なくとも30歳くらいまではそれくらい柔軟な考えでもまったく構わないと思う。そうやってしていたことが、結果的に自分というものを形作っていって、結果的に昔の自分が思い描いていたところに到達できた――なんて話は、枚挙に暇がない。

 

そういうわけで、「やりたいこと」なんかほっとけばいいのである。結局のところそれは「他者の欲望」の繰り返しに過ぎないのだから。

8月の長い雨、代償の風景

連日の雨で夏であることをすっかり忘れてしまいそうになるけれど、その分だけ東京の街は少しだけ僕に親密になってくれているような気がする。そぼ降る雨というのは、少なくとも僕にとっては、intimacyの象徴みたいなものだ。昔からデートはそういう日にするのが好きだった。そういう意味での甘さは、僕の日常生活からはすっかりなくなってしまったけれど、雨がもたらしてくれる安心感は、今でも小さな心のよりどころのようなものになっている。

 

でも来月あたりから野菜の価格は上がるのだろうなあ。まあそういうものである。

 

☆☆☆

 

会社の後輩の女の子と話す。彼女の推薦状を書いてから、もう一年半になる。晴れてビジネススクールを卒業して日本に帰ってきたばかりだ。

 

「もう楽しかったです!オランダも、イタリアも、フランスも、(以下略)旅行に行って、すごく世界が広がった感じで!」

 

と、初めてテレビでプロレスを観た昭和30年代の人々のような口ぶりでいろいろと話してくれる。しかしながら、僕は彼女がどこに言って何を食べようと、そんなことに大した興味はない。僕が聞きたかったのは、そうした広がりに伴う葛藤や困難に対して、彼女が何を思い、どう行動したかということだった。僕は彼女を推薦した人間として、そういうところに彼女の成長を発見することを求めていた。しかしながら、話題こそビジネスに移ったものの、その後の話も大半は彼女の武勇伝に過ぎなかった。ビジネス系のバスワードを口数大目に並べられると、それだけでだんだん食傷気味になって、「もういいよ」という気分になってしまう。

 

話終わってから、なんだかずいぶんと考えさせられてしまった。留学なんかよりも、肉体労働でもするか、『プロ倫』でも読んだほうが、彼女みたいなタイプにはよっぽど勉強になるんじゃないかという気がした。

 

☆☆☆

 

ここ数日は若干小康状態だが、ずいぶんグアム周りが騒がしい。2週間前に当地にいたときには、新聞のトップニュースがグアム大学教授のセクハラ問題だったのに、いまやミサイル攻撃の話題で持ちきりである。まあ北はあのとおりの狂った国家だが、本当にアメリカを叩くほどバカでもないだろう。しばらくはこの「やるやる詐欺」が続くのではないかと思う。まあでもこういう状態だと、やはり日本の安全保障というのは相当な政治的イシューにならざるを得ないよなあと思わされる。

 

☆☆☆

 

ビットコインがあまりにも暴騰しているので、いささか驚いている。おそらくこの8月に、日本でも少なくない数の億万長者が誕生したはずだ。 でもまあ、こういう水物のテーマに対する投資は当然しかるべきリスクを伴っており、僕は極力そうしたリスクをとることを好まない。それにeasy come easy goと言われるだけあって、あぶく銭はすぐに消えてしまうものだ。というわけで僕は地道にS&Pに積み立てをする。

 

☆☆☆

 

ここ2ヶ月ほどの当ブログの閲覧データを見ると、だいたい60%人のほどが女性の海外旅行に関する記事を見にきており、8月に入って閲覧者数が対前月比で20%ほど増加している。たぶん旅行なんかに出掛けて手持ち無沙汰な人が、スマホやらタブレットやらで見ているのだろう。ともあれ、このブログをはじめたころは、読む人がそんなにいるとはとても思えなかったので、なんだか不思議な気がする。そういえば、いつのまにか記事の数も100を超えていた。

 

しかしながら、10月からはあまり書くネタも時間もなくなってしまいそうなので、なかなかそれはそれで困りものである。よくあるMBAブログのような見聞録めいたものを書く気は毛頭ないし、第一特定でもされたら厄介である。まああまり気負わずに、そのときに書きたいと思ったことを書くしかないのだろうが。