それぞれのローマたち

ずいぶんと暖かくなってきたのはいいのだが、だんだん花粉飛散量が上がってきており、また不安定な天気も続いているので、春を迎える喜びのようなものはあまり感じられない。それでもだんだん気温が上がってくると、やはり頭の中にはGLAYの”Soul Love”が流れてくるから不思議なものだ。ど真ん中のメジャー・ダイアトニックの曲なので、恥ずかしくてとても人前で歌う気などにはなれないのだが、なぜか啓蟄を過ぎるころになると、毎年頭の中にはこの曲が流れることになる。ちなみに連想するものはルーズソックス。90年代の亡霊に取り付かれているのだろう。

 

☆☆☆

 

経済学の成績について、クラスの何人かから「項目ごとのスコアを開示してくれるよう、先生に言ってくれないか」とリクエストがあったので、僕から依頼を出したところ、なんとクラス全員分の細かい成績表が僕に送られてきて、「君から送っておいてくれるかな」とのこと。ムチャクチャである。「ちょっと僕からは…」と返すと、なんとクラス全員に対して、全員分の成績を開示してしまった。さらにムチャクチャである。経歴を見る限り、この先生は国家戦略のアドバイザリなんかを担当してきた相当なエリートのようなのだが、授業の質も生徒への気配りも、おいマジかよと言いたくなるようなレベルである。人間的に嫌いな人というわけではないのだが、700万円の学費となけなしの時間を投資しているだけに、こういうことがあると本当においおいと言いたくなってしまう。ちなみにその後で、プログラム・ディレクターからは僕に対して正式な謝罪の連絡があった。

 

☆☆☆

 

先週から、Grammerlyを使い出したのだが、これがかなり素晴らしい。時制や冠詞をかなりの精度でチェックしてくれる上に、類義語の提案もしてくれるので、パラフレーズをしなければならない際にはかなり助かる。例えば、「大成功」という意味のいい表現がないかを探していたら、”colossal success”という言い方を提案してくれたのが、これは僕一人ではちょっと思いつかない表現である。1年で15,000円くらいなので、業務で英語を多様する人であれば、かなり費用対効果の高い投資ではないかと思う。

 

ただし、ここまでで気づいた限り、このアプリケーションには弱点が少なくともふたつある。①あくまで文法のチェックが主眼であり、コロケーションの自然さは判定項目に入っていない、②Dangling modifierが文法上のチェック対象に入っていない、の2点である。したがって、①については別途Googleで調べて対応、②については自分で気をつけるしかないということになる。まあ②に関しては、結構ネイティヴの書く文にも見られるので(Based my observation, I think..とか)、許容範囲だとしているのかもしれない。日本語での「全然」の肯定用法みたいなものだろうか。

 

☆☆☆

 

20年来、Bon Joviの”These Days”のブリッジ部分に前のところの歌詞、”I know Rome’s still burning”という部分の意味がわからなかったのだが、ようやく納得のできる説明に出会うことができた。以下のサイト。

 

http://a-puri-a-puri.hatenablog.com/entry/2016/12/10/100300

 

曰く、「fiddle while Roma is burning: 大切なものが破壊されそうになっているのをよそ目に、何も手を打たない」という成語のもじりとのこと。つまりここでは、自分にとって重要な何かが失われていっているということを言いたかったわけで、これなら曲のテーマにも合致する。僕が昔読んだCD付属の歌詞カードには、「今も燃え盛るロメオの心」なんていうムチャクチャな和訳が添えられており、中学生ながらに「なんじゃこりゃ」と思ったものだ。

 

30代も半ばになった今だからこそよくわかる。この「ローマ」は、紛れもなく、歌の主人公にとっての自分自身であり、自分の実存であり、魂であったのだと。青年と呼ばれる時期を過ぎ、自分が夢見ていたもの、信じていたものが現実の前で力をなくしていく中で、自分の中の葛藤と必死に戦っている、そんな男のことを歌っていたのだ。Bon Joviはその立ち位置と、決してインテリジェントとは言えない音楽性のために嘲笑の対象となることも多いけれど、こういうところを抑えているあたり、やはり時の試練を耐えた一流のバンドであったのだなと思う。

 

さて、果たして僕にとっての「ローマ」は何なのだろう?それを自分の中に再発見するのが、僕にとっての差し当たっての課題である。

全国放送

例によって疲れている。だいたい子育て世代は月月火水木金金になるのが宿命なのだが、それに加えて、今年は絶え間なく学校の課題が入ってくるので、本当に気の休まる暇がない。今日も2時くらいまでレポートを書く予定である。本当は3月くらいから就職活動を本格的に始めようと思っていたのだけれど、今の状態の自分にもっと精力的になれというのはさすがにちょっと酷なのではないかと思う。

 

☆☆☆

 

僕を含めた家族がとあるテレビの番組に出演した。僕が出たのはほんの10~20秒くらいの間だったけれど、妻と子どもを合わせるとおそらく5分以上の尺をもらっていたので、全国放送ということを考えると、これはなかなかちょっとしたものである。興味深かったのはそれに対する周りの反応で、ごく身近な人たちは概ねポジティヴな反応をしてくれたのだが(特に僕の妻に対して)、Twitterなんかで感想を見てみたところ、批判的な意見の方が目立った(僕も批判されていた。正確には、映像化された僕の一部が、ということだが)。個人的にも、編集方針には若干の疑問があり、イデオロギーめいたものを感じなくもなかったので、この点については稿を改めてもう一度ゆっくり論じてみたい。

 

ちなみに、僕はこの番組に、今行っている学校のスウェットを着て出演した。多少のプロモーション効果を狙ったのだが、効果のほどは不明である。

 

☆☆☆

 

1学期(とでも言えばいいのだろうか)の学校の成績が返ってきた。ここまでの累計GDPは3.55で、まあ平均よりはやや良しという程度である。学校のランキングと英語力のハンデを考えると、なかなか検討しているのではないかと思う。早いもので、もう全プログラムの30%くらいが終わりつつある。目の前の課題をこなすだけで精一杯という毎日ではあるけれど、少しでもこの喧騒を楽しんでいきたいものである。

 

一方で、現時点での率直な実感として、やはりMBAはまったくアカデミックなものではない。例えば、僕が哲学の分野でやっていたような、”public”という言葉の用法を200年分遡って、その射程を検証する――なんてことは絶対に求められないし、そんな時間もない。あくまで、MBAは仕事に必要なフレームワークをおおまかに知るためのものであり、その意味で結局Cash drivenなのである。この点についてもいろいろ思うところはあるが、詳細を論じるのはもっと後までとっておこうと思う。

 

☆☆☆

 

とりあえず、3月末の一週間は授業が休みの予定なので、そこまではなんとか気合でがんばりたい。それを過ぎると次の給水所は5月の連休になるが、子どもも休みになるのであまりゆっくりはできないような気がする。たまにはゆっくりしたいなあ…と思いつつも、たぶん僕はそういう生き方はできないのではないかと思う。どうでもいい話ではあるのだが。

医療テクノロジーの風景

一週間が終わった。授業が休みだったので、時間的にはそれなりに余裕があったけれど、あまりぱっとしない週だった。どうも追われていないと無駄なことばかり考えてしまっていけない。やることなんかいくらでもあるのに、それらにエネルギーを100%注げないのは人間としての弱さゆえのものなのだろうか。それとも人間はそもそもそういうものと考えて、平常運行時の生産性は最大値の70%であるという前提で動いたほうがいいのだろうか。

 

☆☆☆

 

製薬業界にいるにもかかわらず、相変わらず業界オンチが続いているのだが、そんな素人でもこれはすげえなあと思ったものが最近ふたつあったので、それらについて少し書く。

 

ひとつは、血液検査によるアルツハイマーの早期発見手法の実用化。2月初旬に各誌で報道されたもの。これが本格的に実用化されると、おそらくアルツハイマー・リスクは健康診断の必須項目になり、マイナンバーなんかに「認知症リスク高」とか記載されるようになるのだろう。差別を助長しかねない部分もあるとは思うけれど、これから高齢化がますます進んでいくことを考えると、非常に社会貢献度の高いイノベーションであると思う。

 

もうひとつは、経口インスリンの開発。この分野の横綱であるNovo Nordisk、それにLillyあたりが開発をしているようである。Webで確認する限り、Novoのほうは開発が止まってしまっているようだけれど、毎日の注射の辛さは僕も想像できるので(経験はないけれど)、ぜひ早期に実用化されてほしいもののひとつである。

                                                                                             

あとは、少し話がズレるけれど、ここ数ヶ月、ITの大手による医療分野への進出が目立ってきている(例えば、Google/Alphabetによる手術ロボット開発)。まあこれだけリスクの高い分野だと、大手じゃないと手が出せないよなあ…というのは措いておいて、これは両方の業界での経験がある僕にとっては結構なチャンスとなるような気がする。ちょうど転職活動を始めようとしている時期なので、このあたりの動きも注視していきたい。

 

それにしても、本当にテクノロジーの進歩はすさまじいものがあり、これはもうフーコーの描いた生政治の世界そのものだよなあという思いを強くしている。そうした健康に関する種々の制度を、現代人はどのように内面化しているのだろう?そういえば彼の遺作が刊行されるとのことだけれど、日本ではまた新潮社から出るのだろうか。

 

☆☆☆

 

これから1時間ほどファイナンスの勉強。金曜日なので少しリラックスしてRegina Carterを聴きながら。結局アメリカ人の作った音楽を聴いて、アメリカ人が作った分野の勉強をしている。51番目の州とはよく言ったものだなあと思う。いいか悪いかは別として。

徹夜でマグマ

久しぶりに徹夜をした。経済学のレポートの仕上げを朝までしていたのが理由である。前にしたのがいつだったかはっきりとは思い出せないけれど、ずいぶん前であることは確かだ。このレポートについては、5人のグループでの提出という体裁で、僕は全体の編集という役割になっていたため、どうしても最後まで時間がかかってしまう。それにしても、高等教育をきちんと受けたネイティヴの読みに耐えうる質の英語を書くというのは、やはりノン・ネイティヴにとって相当ハードルが高い。僕が修正した英語は、提出前に(夜中の1時くらいから)、チームのシンガポールの女の子にメタメタに直され、結局その作業は朝の5時半くらいまで続いた。ずっとSkypeをつないで、「ここはどういう意味?」「これは…ってことなんだけど」というようなやり取りをしていたので、ぶっ続けで説教をされているような気がした。夜通し説明を求められた上に、必死こいて書いた英語を修正され続けるというのは、やはりなかなか辛いものがある。しかも年下の女の子にである。そういうわけで、この日も「こんなの日本語だったら瞬殺してやるのに…」と何度も悔しい思いをした。ライティングももっと鍛えなければならないなあ。とりあえず、Grammerlyにはすぐに登録することにした。

 

翌朝は例によって活蔘28を一本飲んでから出勤した。眠気のピークを超えたからなのか、勤務中はほとんど眠気を感じなかった。人間ってすげえなと思った。

 

☆☆☆

 

久しぶりに「マグマ」を聴く。中3から定期的に聴き続けている数少ない音楽である。単純に計算すると、21年間自分のプレイリストから一度も漏れたことがないということになる。ちなみにCDは2枚を聴き潰してしまったので、今手元にあるものは3回目に購入したものである。僕はこれまでそれなりにいろいろな音楽を聴いてきたと思うけれど、人生でこのアルバムを超える音楽というか、自分という人間の内部にダイレクトにくい込んでくる音楽にはまだめぐり合えていない。よしんばこれからそうしたものにめぐり合う機会があったとしても、それが自分の中でこのアルバムと同じような地位を獲得するかといえば、そういうことはまずないだろう。10代の特権であるスポンジのような感性を、僕は当の昔に過去に置いてきてしまったからである。それに、なんといっても、失意のとき、悲嘆のとき、失恋のとき、いつもこのアルバムは僕の傍にあって、生きることの意味を教えて続けてくれた。おそらくは十代のうちにそんな音楽にめぐり合うことができたという事実に感謝すべきなのだろう。1曲の「冷血」は、個人的には人生のテーマソングとすら呼べるものである。

 

それにしても、音楽にせよ、小説にせよ、結局昔通ったものばかり繰り返している。感性の幅みたいものも、その大枠は20代前半くらいまでに決定されてしまうのかもしれない。単なる感性の堕落と呼ぶべきなのかもしれないけれど。まあ仕方ない、時間のない世の30代に、もっと感性に投資せよというのは、あまりに酷ではないかという気がする。

 

☆☆☆

 

この週末も片付けと勉強。3月末くらいまでの予習をまとめてしておきたいところ。春が僕に、花粉のほかにもいくばくかの希望でも運んできてくれればいいのだが。生きろ、生きろ、もっとひたすらに。

シンガポール

チャンギで成田への飛行機を待っている。時刻は朝の5時で、とても眠い。ボーディングまで1時間強の時間があるので、この3日間のことを少し詳しく記載する。

 

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というわけで、久しぶりにシンガポールにやってくる。前に来たのは4年くらい前のことなので、それなりの懐かしさみたいなものがあってもよさそうなものだが、そういった感慨のようなものはほとんど感じない。日本から最も訪れやすい都市のひとつであるということが、旅行につきものの感傷のようなものを薄くしているのかもしれない。実際、少なくとも数日間の滞在であれば、シンガポールの生活と東京での生活は、正直ほとんど変わらない。というか、例えば、思いつきでランチに誘えるような友人の数なんかを比べたら、僕の場合はおそらくシンガポールのほうが多いのではないかという気がする。一般的な傾向として、日本はどうしても結婚というイベントを機に、個人間の距離が遠くなってしまう傾向があると思う。

 

ともあれ、クラスメイトたちとも無事再会し、プログラム・ディレクターにも挨拶する。「いやあ、大変ですけど、なんとかやってますよ」と言うと、彼女は僕にこう言う。

 

”This programme is very intense. It is how it was designed. This programme crushes you, and mold you.”

 

要するに、今までのあなたを一度粉々にして、作り直しますよということだろう。Moldってこういうふうに使うんだなあと思った。果たして新たに形作られる自分の姿はどんなものになるのだろうか。

 

☆☆☆

 

今回の目的である3日間の集中講義を受ける。受講した科目についてそれぞれ感想を記す(おお、なんかMBAブログみたいだ)。

 

Corporate finance

 

いわゆる投資判断の授業で、DCFとマルチプルの実践的な使用方法を勉強する授業。個人的にはずいぶん前に勉強した内容だし、実務でも使っているのであまり目新しさはなかったが、多くのクラスメイトは感銘を受けていたようだった。まあ確かに、このあたりの内容は「まさにMBA」と言えるものだと思うし、日常生活レベルでも非常に役に立つので、彼ら・彼女らの感想はもっともだなと思う。このブログを読んでいる人で、このあたりの議論に興味のある方がいれば、グロービズから出ている『MBAファイナンス』を一読することをお勧めする。通常のMBAで習う以上の内容をカバーしている名著だと思う。

 

Marketing

 

いわゆるマーケティングの授業で、今回はStarbucks・新興のピザチェーン・Doveと3つのケースについて議論した。議論のフレームワークは5Pだとか4Cなんかの古典的なものが多く、正直あまり目新しいところはなかった。財務なんかだと、結局は数字でのインプット・アウトプットになることが多いので、英語力の差が議論の質に影響するのは比較的少ないのだが、マーケティングのように感覚的な要素が入ってくると、どうしても英語力がモノを言ってしまうところがあって、若干の歯がゆさを覚えた。DoveのCM分析はなかなか面白かった。

 

Critical thinking

 

いわゆるロジカルシンキングの授業かと思ったのだが、どちらかといえばクライシス・マネジメントに近い内容であった。会社にとって損失になりうる事象が発生したときに、CEOとしてどう対応すればよいか、判断を早く行うにはどうすればよいかなどが論点であったが、おそらくは僕の英語力不足で、あいまいな理解に終わってしまった。例えば、ApologiesとSorryの違いなどは興味深く聞いていたのだが、いまいち理解できなかった。

 

だいたい講義はそのあたりで、あとはプロジェクト関係の打ち合わせとキャリアカウンセリングで今回は終わり。毎日の宿題は前よりも少なかったのだが、そのかわりに毎日夜中まで派手に飲んでいたので、前に劣らず疲労感は濃い。それにしても、36にもなって、「男女の友情は成立するか」なんてことを話していることを考えると、どこもmoldなんかされてねえよと、我ながら突っ込みを入れたくなってしまう。

 

というわけで、2月の遠征はこれで終わり。明日提出予定の宿題がひとつあるので、まずはなんとか今日中にそちらを終えてしまいたいところである。

暴落

明日にはシンガポールに発つ予定なのだが、なぜかこのタイミングで会社の基幹システムが止まってしまい、仕事にならないのでブログを書くことにする。

 

☆☆☆

 

ずっと来るといわれていた暴落がついに来てしまった。いろいろ読んでみると、FEB議長の交代やら、利上げやらが理由として挙げられているものの、根本的な原因を特定できていないという点では各誌共通している。今年はあまり株に時間をかけられないということで、ETF中心のポートフォリオを組んでいたこともあり、今のところ僕の資産への影響は限定的である。とはいえ、あくまでこれは「今のところ」の話であって、今後どうなるかは誰にもわからない。まあ、どちらかといえば今心配なのはジョブマーケットの冷え込みで、もしこの傾向が続いた場合、僕の次の仕事探しへの影響はおそらく避けられないことになる。これにより、消費税を上げる時期が変更されるのかどうかも当然注視しなければならない。

 

☆☆☆

 

先週末のWeb上での「あたしおかあさんだから」をめぐる議論は、子育て真っ最中の当事者として、非常に興味深いものであった。まあいろいろな意見があるだろうし、イラっとくる人の気持ちもわからなくはないのだが、僕としては歌ひとつのことをそこまで嫌うことができるエネルギーというか、偏向性のほうがよほど怖かった。これはまさに、昨年ムーニーのCMで炎上が起きたときに感じたこととまったく同じ感想である。インターネットの怖いところはまさにこういうところで、負の感情は多くの場合、熟成されないままに排出され、反響し、局地的なノイズを引き起こす。このノイズは短時間であれ、コンピュータの画面を埋め尽くすので、あたかもそれが世界の中心であるように錯覚してしまいかねない。そしてそれによって、現実に対する認知は多かれ少なかれ歪められてしまう(僕がSNSを好まないのは、この「認知の歪み」を嫌っているという点によるものが大きい)。

 

個人的には、このあたりの議論は、ちょうど18世紀のフランスで公衆・公論が生まれたころ状況と重なるものがあるように感じられる。その意味ではルソーの『対話』はもっと現代の状況に照らし合わせて読まれてもいいのではという気がする。

 

☆☆☆

 

冒頭に記載したとおり、明日から講義のためにシンガポールに行く。Whatsappを見る限り、クラスメイトの多くはもう当地について観光やら何やらを楽しんでいるようなのだが、こちらは深夜便で、到着二時間後から授業がはじまるという弾丸スケジュールで、なかなか悲哀を感じさせるものがある。まあ飛行機ではそこそこ寝られるだろうから、たぶん大丈夫だろう。やるしかないのだ。

 

そういえば、昔会計士試験を受けにグアムに行ったとき、離陸準備に入ったところで、機内の放送でマイラバの”Hello, Again”が流れてきて、運命的なものを感じたことがあった。「自分の限界がどこまでかを知るために僕は生きてるわけじゃない」という一節は、翌日に試験を控えて不安を感じていた僕に、少なからず力を与えてくれたのではないかという気がする。2009年5月28日の話。

マイ・ファニー・バースデイ

たまたま昔の記事のデットストックが見つかったので、ここに転載することにする。これも、当時勤めていた会社の社内報に掲載していたもの。毎度のことながら、よくもこんな超個人的なことを社内誌に書いていたなあと思ってしまう。それはそうと、読み直すと、社会的責任が増えていく中での葛藤が随所に見られて、「ああ、この頃はしんどかったなあ」という思いを感じずにはいられないものがある。おそらく女の人だと、子どもを生んで、社会から隔絶した生活を一定期間送ると、同じような思いを抱くのではないだろうか。ともあれ、このときに感じていたキツさは、今という地点から見ると、大人になるための通過儀礼であったのだろうなという気がする。

 

☆☆☆

 

33歳になった。もう少し数字が小さかったころは、歳を重ねるたびにそれなりの感慨があったり、とりあえずの目標のようなものをでっち上げてみたものだが、自分でもツッコミを入れてしまいたくなってしまうほどに平日めいた誕生日だった。「おい、お前もうちょっとありがたがれよ」なんて言うもう一人の自分の声が聞こえそうなくらいだった。まあ確かに、僕という入れ物がいかにポンコツであるにせよ、ポンコツなりにまともな(たぶん)人生を送ることができていることを感謝するべきなのだろうとは思う。仕事はいささかハードであるにせよ、今のところ体はまだ動くし、食べること自体に困ることはあまりない。ほんの数時間飛行機に乗れば、前時代的な恐怖政治で抑圧されている人々がいたり、流行病によるバイオハザードなんかが起きていることを考えれば、昼過ぎに思いつきで風呂に入って『腹筋を割るための10か条』なんてものをふむふむと読んでいる余裕があるというのは、世界的に見ればずいぶんな僥倖と呼べるのかもしれない。

 

知らず知らずのうちに、そんな小市民的幸福に埋没していたからなのだろうか、実際にここ数年僕の趣味はずいぶん変わった。愛読紙は『現代思想』から『エコノミスト』になり、よりクラシックを聴く回数が増え、意識的に21時以降の食事と油ものを避けるようになった。髪の毛をピンク色に染めて反社会性をファッションにしていた男が、10年後、今度はネクタイをファッションにして、ディンプルの作り方に本気で頭を悩ませていることを考えると、さすがに人の世の移ろいやすさを思わずにはいられないものがある。まあいささかの問題はあるにせよ、僕は僕なりに社会的規範を自分に植え付け、抑圧を自分に課し、自分を商品化してグローバル資本制の時代を生きることを選んだのだ。フーコーやらマルクスやらの亡霊に祟られようが、税金と住宅ローンという名の債務が毎月発生する以上、社会的義務以上に「還元不可能な個人性」なんてものを優先するわけにはいかないのである。まあ、いくつかの義務を滞りなくこなして、波のない海のような毎日に自分自身を沈めてしまえば、大方の危機はなんとか乗り切れるだろう…年に一度しかない誕生日だというのに、僕はそんな打算的なことばかり考えていた。

 

☆☆☆

 

深夜0時、誕生日の終わり。僕は仕事の手を休め、無記名の人々が行きかう巨大なインターネットの掲示板をぼんやりと眺めていた。恩師の名を見つけ、そこで手を止める。新しい翻訳書の紹介だった。そのまま、21世紀の三種の神器Google先生に彼の名前を打ち込む。Google先生はとても優秀なので、僕のように打算をあれこれ考えることもなく、迷うことなくページのトップに彼のTwitterアカウントを表示する。これだろ、と言わんばかりに。僕は、大学教師がいい歳こいて二次元世界に自我晒してる場合かよと思いつつも、そのリンクをクリックする。

 

驚くべきことに、僕がそこで最初に発見したのは、彼の著書の情報ではなく、僕がかつて恋慕した女性の写真だった。キャプションを見ると、どうやら彼の主催したシンポジウムのときの写真のようだ。その顔には10年以上という時の流れが確かに刻まれていたが、紛れもなくそれは、僕がかつてそれを求めて飢え、渇き、時には眠れぬ夜を過ごしたその女の顔だった。息つく間もなく始まる動悸。諦めと妬み、そして10年越しの強烈な劣等感が僕の脳裏を執拗に攻撃する。あらゆる世俗的記号と制度がその意味を失い、自己の持つすべての欲望が生/性に収斂する瞬間――ああ、僕はこの名前のつけようのないパトスの中で自己という時間を闘ってきたのだ、と思った。そして僕は、結婚と労働という制度で自分を護ることで、いつしかそうした感情の波を避けて生きる術を覚えてしまった自分を思い、ふと泣きたいような気持ちになった。自分の感情に蓋をするようになってしまったのは、会社でも社会制度でも、ましてや東京という冷たい街のせいでもなく、自分、そして世界に対しての幻滅をあまりにも恐れるようになってしまった僕自身のせいではないのか、と。

 

リスクをとらねば、と僕は思った。それも、33歳の今だからこそ取れる、社会にあまねく価値が還元されるような行動に対してのリスクを。その中で僕はまたひどく幻滅をするだろうし、いくつもの目を覆いたくなるような光景に出くわすだろう。でもおそらくは、そうした中で生まれる強烈な何かへの希求なくしては、人生はそれが持つ本当の光を放つことができないのではないか。適切な方法でリスクを取り続けることでしか、失い続けるという理不尽さを、自分の中においてしかるべき仕方で消化することはできないのではないか――。真夜中というのに昼から――そして10数年前から――変わらぬ光を放ち続けるモニタの画面を見つめながら、僕は自問自答を続けた。答えは頭の中にも、巨大な情報網の中にもありそうになかった。そういえば今日は誕生日の夜だったなと思い、僕は自分の滑稽さを笑いながら、コンピュータの電源を落とした。