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ナインティーズ・ミラージュ

ブログを書いていなかった3年ほど、当時勤めていた会社の社内誌で連載を持たせてもらっていた。以下にそのときの記事のひとつを転載する。社内媒体のみに掲載という、半ばデットストック状態になっているよりは、パブリック・スペースに載せたほうが記事も本望だと判断したからである。しかしよくもまあ、資本主義のど真ん中のような会社で、こんな私的なことを大っぴらに書いていたなあと思う。これらのデッドストックについては、折に触れてまたこのスペースに載せていくつもり。

 

☆☆☆

 

僕は1981年生まれなので、年代的に言えば90年代という時代がほぼそのまますっぽりとティーンネイジに重なっている。今という時点から見れば、大まかに言って僕たちはその時代を「蹉跌の時代」とでも名付けられるのではないかと思う。80年代という時代を覆ったバブルがあっけなく弾けた後、列島は地震に見舞われ、宗教という名のテロリズムが跋扈し、末期にはほとんど不沈艦のように思われた大企業が連鎖的に倒産を余儀なくされた。同じ世代では不当ないじめが横行し、また一部の少女たちは清純さという記号を商品として、それを金銭と交換するという錬金術にも似た行為身をやつしていた。そんな幻想とモラルの崩壊の中で、僕は10代という多感な時期にいかに夢を見ていたのだろう?

 

もちろん今だから思えることなのだが、おそらく僕にとっての幻想のよりどころは、ポップミュージックだったのだろうと思う。旧体制の崩壊への文化的反動の一種だったのだろうか、往時の流行歌は軒並み爆発的な売り上げを記録していた。そして、ティーンネイジャーの特権として、僕たちはその時代の空気と音楽とを全身に浴びながら多感な時期を過ごした。例えば、Judy And Maryの多くの歌は、世間知らずで身勝手で、そのわりにどうしようもなく臆病だった16歳の自分と、当時恋焦がれていた女の子の像にまっすぐに結びついている。もちろん間接的にではあったけれど、人間の欺瞞や弱さの存在を教えてくれたのも、当時鳴っていた音楽に乗せられていた言葉だった(大人になってその存在を毎日のように目にするようになるのはもう少し先の話である)。「あるがままの心で生きられぬ弱さを誰かのせいにして過ごしてる」なんて言葉は今聞いてもやっぱり痛い。ともあれ、歌い手の側はそうした爆発的なヒットに支えられてまだ夢を売ることができていたし、僕たちもまたそこに時代の共有幻想を描くことができた。極めて閉鎖的な世界で日々を過ごしていた十代の僕にとって、音楽を聴くことは、まだ見ぬ世界を夢想するための手段であり、大人になることへの漠然としたおそれを和らげてくれる緩衝剤だった。音楽がビジネスとして成り立っていたからこそ、僕たちがそこに物語を描くことができていたというのはやや皮肉めいた話だが、少なくとも歌い手・受け手の双方にとって幸せな時代だったのではないかと思う。もちろん、僕の青春バイアスが一定程度含まれているということは認めるとしても。

 

時代は流れ、2010年代――CD売り上げの不振とアイドルグループの台頭から、良質なポップスは歴史上の絶滅危惧種として指定されるようになった。もっとも、若者の可処分時間を奪ったのは、かかるアイドルグループではなく、スマートフォンという新しい形態のメディアだった。事実、とうに青春と呼べるような年代を過ぎていた僕も、文字だらけの画面の中にかりそめの自己を映し出すことに相当な時間を割いていた時期があった。僕は手持ちのカメラで撮った写真をそのサイトに上げ、3行ほどの自己嘲笑的な文を投稿することを日々の日課とし、定期的にある程度の長さのエッセイを書いた。そういった行為は、おそらく自分が属しているであろう共同体をゆるやかに結びつけることには寄与したが、そんな中で言いようのない息苦しさや疲労感を覚え始めるのに時間はかからなかった。他人の目、自己検閲、永遠にフローする文字情報の洪水…。けれどもそれ以上に僕にとってストレスだったのは、そこに描かれているものの大半が,自己顕示欲を満たすためだけのかりそめの幻想だということだった。言い方を変えれば、それらの情報は僕たち一人一人が自分たちの物語として引き受けることのできる共同幻想ではないのだ。カタルシスの不在――そうしたサイト特有の袋小路感を、僕たちはそう名付けることができるかもしれない。

 

眠れない夜、今でも時々自分のためだけの言葉を探してインターネットの中をさまようことがある。たぶん誰もがそうするように、僕は僕で、今でも何らかの出口を探しながら生きているということなのだろう。そうして見つけた一時的な幻想に身を浸し、誇大化した欲望をなんとか心の奥底に仕舞い込んで眠りに就く――もう30歳を過ぎているというのに、僕はそんな不完全な日々の中で、なんとか自分をあるべき場所につなぎとめている。そこにあるのは16歳の僕が描いた幻想ではなく、砂漠にも似た荒涼たる現実の風景だ。そして、15年前の僕がそうであったように、僕はいまだにその残酷な事実に堪えることに慣れられずにいる。それでもあの日の音楽たちは、その優しさが辛くなってしまうほどに、常に僕に優しい。幾度となく繰り返されたメロディと言葉は、現実への予防接種であり、痛み止めでもあったのだろう――おそらくは、僕という致命的な欠陥を抱えた人間が、タフな世界でなんとか生き続けるための。

 

おそらく僕が次にしなければならないのは、生き続けるということを通して、僕自身が誰かに幻想を与えること、いや与え続けることなのだろう。どれだけ世界が残酷であろうと、人は、とりわけ子どもたちは明日という日を切実に待ちわびているし、そうした幻想なくしては彼ら・彼女らはうまく階段を上っていけないだろうから。責任――言葉にすると陳腐だけれど、僕も少しは大人になったということなのだろうか。もしかすると、そんな思いこそが僕が90年代という時代から受け取ったもっとも大きな負債であり、財産であるのかもしれない。