発熱

ひとつ前のエントリで書いたとおり、極度に疲れていたので、土曜日は久しぶりに23時前に床に就いた。38℃の湯にゆっくりと漬かりながら、リンパを含む全身をくまなくマッサージして、肩と足を中心に入念にストレッチを行い、肩甲骨にサロンパスを貼り、チョコラBBプラスを飲んで――つまり相応のセルフケアをして――眠りに入った。7時くらいまで8時間たっぷり寝れば、まあ体力も回復するだろうというのが僕の大まかな算段だった。

 

しかし、である。翌朝起きたら発熱していた。37度と少しなので、別に重いものではなかったのだけれど、気圧の低さも手伝ってか若干の頭痛がした。だいたい僕の場合、マイルストーンにしていたような重要な報告やら、プロジェクトの山が終わったところで、この手の体調不良が訪れることが多い。不思議なことに、そうした仕事の繁忙期では、咳やら熱やらの疾患症状はめったに表れない。この9月については、先週の週末も若干体調が優れなかったのだけれど、平日になってオフィスに行ったらすぐに回復してしまった。こうした現象について、僕は人間の体の調節機能を称えるべきなのだろうか?それとも、そうした体調までを忘れさせてしまう仕事、あるいは日本の勤労意識を怖れるべきなのだろうか?――おそらくはその両方なのだろう。

 

まあ人間だし、体調が悪くなるのは仕方ないことだと思うのだけれど、やはりそういう時は精神的に弱くなりがちといか、自信を持つのが難しくなるなあとしみじみと思う。「こんな状態で海外スクールなんて行って大丈夫かよ、俺」とかどうしようもないことを考えてしまいがちになる。あげくの果てには昔好きだった女の子まで夢に出てきて、一人どうしようもなくうろたえる。本当にどうしようもない。

 

そういう中でも泰然自若としているしたたかさを身に着けなければいけない――たぶんそれは40代の男性の特権なのかもしれないけれど。

 

☆☆☆

 

今年の雨は長い。6月に水不足とか言っていたのが嘘みたいである。早く秋晴れの空が戻るといいなあと思う。そんな日が一日でもあったら、僕は何をするだろう?美味いドリップ・コーヒーを出してくれる小さな喫茶点で、漱石フィッツジェラルドでもゆっくり読みたいなあと思う。そして、幸か不幸か、それは僕が21歳だったときのライフスタイルそのものである。

猛烈に疲れたで候

金曜の夜、僕は猛烈に疲れていた。家に着いたとき、しばらく玄関でへたり込んでしまったくらいである。仕事の疲れ、夏の暑さ、家庭での雑事の諸々、そして精神的なプレッシャー…たぶんそういうものがいろいろ堆積していたのだと思う。ともあれ、珍しく家に帰ってから追加で仕事をする必要がなかったので、遅めの夕食をとりながら、今夜はなにをしようと思いを巡らせた。ジムのプールで泳ぐか、本屋にでも行ってFin Techの本でも読もうか…。ところが、あまりに疲れてしまっていたのか、どうにも足が外に向かない。一方で、頭だけは妙に冴えてしまって、すぐに眠る気にもなれないので、2時間ほどyoutubeでXの昔のコンサートやら、スト2のプレイ動画やら、レトロなものばかりを観ていた。さすがにこういうときは、前衛的な小説やら哲学書やらは読む気になれない。極度に疲れると10代の頃に身近にあったものを求めてしまうということなのだろうか。まったく違う文脈ながら、僕の周りの友人には高校・大学の同級生と結婚したというパターンが少なくないのだが、結局これも同じようなもので、最後には人は「そばにあると癒されるもの、あるいは、そばにあっても疲れないもの」に回帰していくのではないかという気がする。
 
☆☆☆
 
香港での結婚式、主催者から「家族と来るの?」と問い合わせがあったので、せっかくなので家族総出で行くことにする。ここでそういう質問が出てくるあたり、やはりヨーロッパで育った人だなあと思う。4人のパッケージ(飛行機+ホテル)を3泊4日で予約したところ、全部で13万円程度とかなり安い。原油の価格が安いということで、サーチャージを取られないというのがやはり大きいのだろう。子どもを連れて海外に行くのは初めてなので、若干手さぐりではあるけれど、僕にとっても彼女たちにとってもいい経験になると思うので、なかなか楽しみである。
 
☆☆☆
 
広島の友人と話す。たぶん4、5年ぶりくらい。大統領が来た話しだとか、カープが優勝して盛り上がっているだとか、奥さんが起業した(!)だとか、他愛のない話を15分程度。お互い言葉にはしないのだが、僕たちのどちらももう自由ではないのだなということが、どうしても会話の節々に出てしまって若干悲しくなる。「話せてうれしかったよ」、と友人。僕だってもちろんうれしい。だけど、そんな30分にも満たない他愛のない会話がうれしくなってしまいくらいに、たぶん僕たちはそういうパーソナルなものに飢えているのだ。それは、結婚という制度がもたらす必然的な帰結である。それはわかっているし、もちろんそれを理解した上で、僕はその制度に身を委ねている。それでもいつくもの疑問符が頭の中に生まれる――「これは正しいことなのだろうか?」。知るかよ、ともう一人の僕。その問いをなんとか自分の中に押しやって、僕はまた普段の生活に戻ってゆく。
 
☆☆☆
 
あと2日はとにかく体を休める。
 

長月で候

気がついたらずいぶんと季節が進んでいた。朝夕はすでに秋の空気で、スーパーに並ぶ食材も1ヶ月前に比べるとだいぶ様変わりしたように思う(それよりも、台風の影響で、にんじんやら大根やらが法外な価格で売られているのが家計への影響は大きいのだが)。ここ2週間ほどの間で、何度かブログを書こうとは思ったものの、暑さと業務負荷の高さでうまく筆が進まなかった。こんな雑文でも書くのにはそれなりの気力が必要ということなのかもしれない。

 

☆☆☆

 

ようやく仕事がひと段落したので、半年ほど懸案になっていた住宅ローンの借り換えに手をつける。先週仮審査を3つの銀行に依頼して、2行が通過、1行が連絡待ち。ここ半年ほど20年固定で1%を下回っているのに加えて、各行キャンペーンまで行っているというのはどう見ても異常な状態だと思うのだが、こちらとしてはまあ安いのに越したことはない。変動なんか0.5%以下という前代未聞の状況で、銀行としても商売上がったりだと思うのだが、マイナス金利なんていう政策が行われている以上、仕方がないということなのだろう。なんとなく10月は金利を上げてくる銀行が多いような気がするので、できれば9月いっぱいで終えてしまいたいところである。

 

☆☆☆

 

上記のとおり仕事が山場を越えたということで、気分転換に髪を切りに行き、上半身を丁寧にマッサージしてもらう。気持ちよくて案の定寝てしまい、気分良く家路に着いたのだが、しばらくすると鼻水が止まらなくなる。おそらく血行がよくなって、溜まりに溜まった老廃物がまとめて出てきたのだろう。いわゆる好転反応のひとつだと思う。30代も折り返しということで、だんだん体も変わってきているのだろう――否が応にも体力の衰えを感じさせられる日もそう遠くないのかもしれない。とにかくもう一週間くらいは体をゆっくりと休めなければいけない。

 

☆☆☆

 

相変わらず疲れているので、もう寝る。9月下旬はもう少しマトモな記事が書ける…といいのだが。仕事の負荷は少し軽くなると思うので、更新頻度は少し上げることができると思う。

タイランド

タイから友人が帰国するということで、久しぶりに会ってビールを飲む。学生の頃、おそらく周りで一番海外志向が強いのは僕だったのだけれど、何の因果か僕はずっと東京で働いており、あまりそういうことに興味がない友人たちが次々に海外に赴任していく。まあそれはそれとして、男同士というのは何年ぶりに会おうがあまり距離が変わらない。もちろん、家族やら仕事やらの話は増えるものの、基本的にはお互いが一番バカだった頃のままである。逆に、社会人になって知り合った人とは、なぜかお互い心を開けなくなっている。多分メンツやらプライドやら、いろいろ面倒臭いものが邪魔をするのだろう。僕が女の人を尊敬してしまうのはこのあたりで、彼女たちは、人生の段階に合わせて、しかるべきコミュニティに上手く溶け込んでいく。どちらがいいとか悪いとかではなくて、このあたりはもう性差と呼ぶしかないのではないかという気がする。

 

ともあれそういうわけで、3時間ほどバカ話で盛り上がる。35になってもメロンソーダとチリドッグである。でもそんな彼も、娘を見つめる眼はやはり父親のそれだった。時は流れているのだな、と思った。

 

☆☆☆

 

CFOに半留学(とでも言えばいいのだろうか)の話をしたところ、微妙に難色を示される。まあ業務への影響やら、部門の足並みやらを考えると、リスクファクターにならざるをえないのは事実なので、管理者としては当然の反応なのかもしれない。同じ理由でカペッロもサッキもバッジョを冷遇した(まったく次元の違う話だが)。

 

とはいえ、それくらいで長年の目標を諦められるかといったらそんなわけはない。何しろ7、8年も着々と準備をしてきたのだ。行かないと100%死ぬときに後悔すると思う。別に代替手段がないということではない。事実、アメリカの有名大学院も最近はオンラインMBAに乗り出してきている(例えば、UNCやインディアナ)。それでもやはり他の参加者との直接の関わりは絶対に必要だ。まあ別にNoと言われているわけではないので、きちんと業務バックアップのプランを用意して、1ヶ月後くらいに再度話す予定。

 

☆☆☆

 

小学生1年生の夏休みという高い壁が終わろうとしている。公立・私立の学童とふたつの実家、それに旅行の予定を組み合わせてなんとか乗り切ったという感じだ。これはちょっとした自信になった。共働きでもやれるじゃないかと。しかしながら、その代償か、今年の夏はずいぶんと疲労感が濃い。9月上旬は少しギアを落として、うまく疲れを抜いていきたいと思う。

 

海を見に行く

娘を連れて帰省する。主役はあくまで彼女であって、僕は言ってみればオマケである。というわけで、久しぶりに実家に滞在しているが、相も変わらず僕はエクセルを開いて、予算関係の作業をしている。まあそれはそれとして、久しぶりに見た街はところどころの店のテナントが変わっており、そうでない店についてはしかるべき年数分の経年劣化が進んでいた。時が過ぎるとはそういうものなのだろう。

 

実家に荷物を置き、洗車やら、水周りのカビとりやら、普段目の行き届かない部分の掃除をひととおり済ませる。その後、いつものもトレーニングスタイルに着替えて、35℃の灼熱の中、海までランニングに出かける。別に酔狂というわけではない。陽が出ている時間に海が見たかったというだけの話だ。たぶんその海の近くで育ったせいだと思うのだが、都会のビルの中で暮らしているとその光景が妙に恋しくなることがある。もちろん千葉にだって、三浦にだって海はある。それでも、それらの海には沖の遠くのほうから聴こえてくる、「ゴゴゴゴ」という雄大な海鳴りの音が決定的に欠けているのだ。それを聴くという行為には、気分転換に留まらない、一種霊的な意味づけさえあるような気がする。スピッツの「愛のことば」のPVはこの砂浜で撮影されたのだが、その映像にもその霊性めいたものは確実に付与されているように思う(そして曲そのものにも)。ともあれそういうわけで、何年かぶりに僕はその海を訪れ、彼岸に行ってしまった何人かの旧友のこと思い、祈った。

 

☆☆☆

 

このブログを始めて1年だという通知がはてなから来た。早いものである。そういえば、去年某テストが終わったのをきっかけにこのスペースを作ったのだ。僕は1年でいくらか変わっただろうか?よくわからない。確実に言えるのは、去年の今頃に比べると、今の僕はさらに自分のための時間がなくなってしまったということである。いいか悪いかは別として。

 

☆☆☆

 

年一番の繁忙期ということもあり、さすがにあまり余裕がない。書きたいネタはいくつかたまっているのだが、今日はもう寝る。明日はお偉いさん対応。

bon 盆 凡

世間は盆だが、僕の半径3メートルくらいは100%の平常運転である。庇護を必要としている小児がおり、平日に終わらなかった仕事の残り、読みかけの本、そして書きかけのエッセイがある。というわけで、今日も特に特筆すべき出来事のないまま、静かに陽が暮れていこうとしている。それを人は幸せと呼ぶのかもしれないが。

 

☆☆☆

 

ここに書いている雑文を書くという行為によって、僕はどれくらい自分の内面と向き合うことができているのだろう?急にそんな問いが頭をよぎる。そして、その問いに対する回答は、残念ながら、おそらく「ほとんどゼロ」である。もちろん、実名入りでSNSなんかに書き込むよりは、いくぶん自己対話的な側面が残されてはいるのだろうが、人に読まれることを前提として書かれた文章は、多かれ少なかれ虚飾の覆いをかけられる。太宰はルソーの『告白』にもいくぶんの虚飾が混ざっていると指摘しているが、まったくレヴェルは違うにせよ、ここに描かれた文にも、「等身大の僕」よりは、「僕が他者の目に対して投影したい僕の像」が描かれていると考えるのが自然だろう。

 

というわけで、久しぶりに大学ノートと鉛筆で簡単な日記を書く。もちろんどこにも公開する予定のないものである。それだけで心の中の排水溝を詰まらせていた髪の毛のようなものが、ずいぶん取り除かれるような気がする。不思議なものだ。

 

ところで、ルソーは彼の絶筆となった『夢想』を、誰かに読まれることを前提として書いていたのだろうか?おそらくはそうであるはずだ。あれだけの分量を自己のためだけに書くことはきわめて考えにくいからである。では、公開を前提として書かれ、そこに多少でも虚飾が混じっているとすれば、それは正統な意味での自伝と呼べるのだろうか?このあたりはルジュンヌによる浩瀚な研究書があったはずなのだが、詳しい内容は残念ながら失念してしまった。博士論文を書くなら、ぜひこのあたりのテーマで書こうと思っているので、後日また勉強したい。

 

☆☆☆

 

スピッツのアルバムを買いに近くのTSUTAYAに行く。いつもCDが陳列してあったスペースを見ても商品が見当たらなかったので、店員に尋ねたところ、CDは原則販売しないということになったとのこと。ついにここまで来たか、という思いがした。

 

結局、いつものネット通販で購入。アルバムはやはり安定のクオリティだが、ここ数作マンネリ気味になっているようにも感じる。一曲「夜を駆ける」に似た雰囲気の曲があって、個人的にはなかなか好みなのだが、本家の出来が良すぎるので、やはり比べるのは酷だなあと思う。

 

☆☆☆

 

ここ3ヶ月ほど、ドイツ銀行関連のニュースを見ていなかったので、今日まとめて確認した。大きな動きとしては、6月のストレステストに通らなかったことくらいか。CDSの価格は相変わらず200を上回っているので、破綻リスクが完全に払拭されたということはないだろう。それにしてもなぜ日本のマスコミはこの件をもっと大々的に取り上げないのだろう?もしものことがあれば、アイドルグループの解散なんかとは比較にならないほどの経済的衝撃があるだろうに。

 

8月9日

なぜか今日急に気分が軽くなった。10年単位で抱え込んでいた荷物をふっと降ろしたような、不思議な心持ちである。なにが契機になったのかはわからないけれど、突然、自分の過去やら思い出したくもないような過去や、ひどく傷つけられた言葉なんかをひっくるめて、「まあ、どうでもいいじゃん」と思えるようになったのである。一時的なものなのかもしれないけれど、おそらくは喜ばしい変化ではある。過去に苛まれることほどに無意味な消耗はおそらく人生において他にないからである。

 

同時にしみじみと思ったのは、やはり親として少し子どもの成長をしっかりと見届けたいということだ。恥ずかしい話ではあるのだけれど、6年前に父親になったときは、子どもという存在によって人生の可能性がひどく狭まってしまったような気がして、正直複雑な思いを抱いていたところがあった。でも今日、本当に彼女たちは僕にとって大切な存在なのだと深く実感した――とても強く。こう書いてしまうと陳腐だが、身近にあるものがかけがえのないものだと気づくには、しかるべき時間がかかるのだということの一例だと思う。もっとも、文字どおり体を張って子どもを産む女の人で、こんなに出来の悪い人は稀だと思うけれど、男性で僕のような人はきっと少なくないのではないかと思う。

 

それにしても、なぜ今日だったのだろう?東京の気温が体温を超えたから?半日自宅勤務で子どもと一緒に過ごしたから?久しぶりにルソーを読んだから?ブラウザのエロサイトブックマークを子どもに見られたから?どれも適切な理由とは言えそうもない。

 

おそらくは僕の内面の側で、なにかしらの変化があったのだろう。でもそれがなんなのか、当の僕もよくわかってはいない。僕の中のなにかが、「おい、こんな荷物背負ってちゃ後半走れないぜ。なにしろこれから坂がもっとキツくなるんだから」とでも僕の脳に呼びかけたのかもしれない。

 

ともあれ、そういうわけで、僕はいくつかの荷物を降ろした。8月9日。この夏一番の暑さの日。