謝罪、英語、ファミレス

先週はトラブルと月次締め、それに予算作成が重なって、久しぶりに五日連続で帰りが23時を回ってしまった(まあ帰ることができるだけでありがたいといえばありがたいのだが)。トラブルはなかなか影響が大きく、日本のCFOシンガポールのディレクターからこっぴどく怒られたのに加えて、グローバルのCFOからも「お前のassumptionおかしくないか?」とメールが来た。相手が日本人だったらとらやの羊羹でも持って謝りに行くところだけれど、幸か不幸か海の向こうなので、apologiesと言う以外に何もできない。ずいぶん精神的には堪える出来事だったので、金曜日の終業時にはさすがに肉体的にも精神的にもひどく疲弊していた。

 

☆☆☆

 

そんな状態の中、土曜日は朝も早くから市ヶ谷にIELTSという英語の試験を受けに行く。ビジネススクールの出願にスコアが必要なためである。元々必要なスコアは4年ほど前に取得していたのだけれど、有効期限が2年以内ということで、今回再受験ということになった。

 

試験会場に行くと、自分よりもずいぶんと若い人たちが目立つ。レジストレーションをしたときには、僕の次の番号の人の生年月日が見えて、「1994年」とあった。おそらく大学生で、留学のアプリケーションのためにスコアが必要というケースだろう。僕よりも13年も後に生まれた人が、UKなんかに行ったりして現地でビールを飲んだり、難しそうな顔をしてハイエクを読んだりしているのだ。そう考えるとなんだか僕は、自分がところてん式にビジネスの世界に押しだされてしまったような気がした。

 

試験が始まる。リーディングとリスニングはまずまずだったのだけれど、ライティングで時間配分を致命的に間違えて、自分史上有数のクソエッセイになってしまった。お題は「大学生は親元を離れて暮らしたほうがよいか」というものだったのだけれど、僕の回答は「はい、金銭管理をする能力が身につくからです」という、小学生の作文レベルのものであった。曲がりなりにも高等教育を修了した人間が書くようなものではない。

 

スピーキングのテストまでずいぶん時間があったので、神楽坂の付近でランチをとって、ぶらぶらとあたりを散歩する。カラオケに入って予行練習をしようと思ったのだけれど、そんなことをしたら一人で「紅だァ――ッツ!」とかやってしまいそうなのが目に見えていたので、歩きながら独り言で練習をすることにした。城南地域に比べて、どことなく重厚感が感じられる街を歩いていると、同じ東京だというのにずいぶん遠くまで来てしまったような気がする。出版社ばかりが目に入るので、昔の嫌なことをかなり連想してしまい、ずいぶん気が滅入った。

 

で、スピーキング。出来はたぶんまあまあ。試験終了。

 

たぶん出願に必要な7点はとれているだろうと思う(9点満点)。なお、ビジネススクールだと、だいたい一流どころと言われているところは、最低点として7点を要求しているところが多い。Harvard、Oxford、Cambridge、INSEADは7.5点を要求しており、このあたりはこれらの学校のトップ校としての矜持が感じられる部分である。

 

☆☆☆

 

土曜の夜はとある友人と自宅近くのデニーズで会う。3年間のドイツ滞在から帰国したばかりの彼は、前に会ったときよりもずいぶん世慣れたような印象を受けた。「2社内定を受けているんだけれど、どちらに行こうか迷っているんだ」、と彼。というわけで、キャリアについてざっくばらんに話し、可能な範囲で僕からもアドバイスをする。

 

素朴な感想として、まだ今でも僕に相談がしたいという人がこの世に存在しているということが、僕としてはとてもありがたかった。この彼も2009年に死にそうだったときにずいぶんと世話になった人の一人なので、僕のささやかなアドバイスが彼のためになったのであったら、僕としても恩返しができてとてもうれしい。

 

それにしても深夜のファミレスというのは、独特の雰囲気があるなあと思う。日本という国に存在する「日本的なもの」が濃縮された空間のひとつではないかという気がする。

保険会社のバカヤロウ

昨年加入した貯蓄型保険(いわゆる養老保険)の積み立て額を確認したところ、予想よりも10万円程度少ないことに気づく。某フランス系保険会社の、ユニット・リンクという商品である。あわてて契約書その他をチェックし、Googleで同商品について書かれた情報を読んで、エクセルでシミュレーションを行ったところ、毎月貯蓄に回している5万円のうち、30%程度が掛け捨ての死亡保険になっていることが判明。マジかよ、と深夜にやり場のない憤りを抱えながら落ち込む。考えてみれば、無料で受けられるFPのコンサルティングなんてうまい話はないに決まっているのだ。大手の会社が多額のセールス・コミッションを払っているからそんなことが可能なのだ。10年近くもファイナンスの仕事をしているのに、なんでそんなことに気づかなかったのだろう。アホである。しかもさらに悪いことに、契約から10年以内の解約には多額のペナルティが課せられており、今解約したら50万円ほどがほとんどパアになる。50万円って、おい、IWCの時計が買えるぜ。

 

2時間ほどいろいろ検討したところで、それでもこの契約は破棄したほうがよいと判断する。理由は以下の2点。

 

①ペナルティのなくなる10年後に解約をすると、その際の元本割れの額が50万円を上回る可能性がある

②毎月1.5万円の掛け捨て保険料が残り9年間かかる(つまり複利なしでも162万円のキャッシュアウトが見込まれる)

 

まあ、確定拠出年金の控除で、来年は例年より所得税・住民税を8万円ほど節約できるだろうから、だいたい6年経てば損金分を埋めることができる。それにしても投信の年間保有コストが0.3%を切っているというのに、この保険会社は似たような商品で30%のマージンをとっているのだ。100倍だぜ。ほとんど詐欺である。死亡保険だって、2,000万円ほどの保証だったら、ネット保険だと30代で月々3,000円くらいがが相場である。

 

というわけで、天気が悪かったこともあいまって、実に気分の悪い日曜日であった。

 

そういえば、ここの保険会社に勤めていた旧い友人が、「保険なんて買うもんじゃない。会社がマージン取りすぎ」と前に言っていた。まさかそれを身をもって知るときが来るとは…。

 

☆☆☆

 

イライラが頂点に達したので、霧雨の中30分ほど外を走り、ちょっと手の込んだ料理を作る。趣味というものがなくなってしまって久しいのだが、それをしていると心が安らぐという意味では、料理は数少ない僕の趣味と呼べるかもしれない。どうでもいい話だけれど。

午前三時の地図

なんだか相変わらずこのブログを訪れてくれる人が増えているので、ちょっとしたサービスとしてデッドストックになっていたエッセイを載せる。前職のときの社内報で連載を持たせてもらっていたときのもの。このエッセイの題材となった学生時代の新聞配達でもよく働いたと思うけれど、これを書いていたときもまあよく働いていた。アンチ資本主義を標榜しながら、実際のところ僕は資本主義の世界でしか生きていけない人間ではないかという気がする。

 

☆☆☆

 

学生のころ、留学資金を貯めるため、毎日午前3時に起きて新聞配達をしていた。学校に行きながらではあったけれど、一か月に数日与えられる休日を除けばほぼ毎日5時間程度は働いていたから、実質的には仕事をしていたようなものだった。おそらく若さに伴う傲慢さと体力とがあったからこそ可能だったのだろう。もう一度同じことをやれと言われたらやはり答えに窮してしまうとは思うのだが、振り返ってみると、その時期は自分なりに社会感覚を身に着けることのできた貴重な時期だった。配達作業は社会的に一種のインフラとしてみなされているからなのだろう、良くも悪くもお客さんの種類は、少なくとも午前8時半の丸の内ビルディングなんかよりはずっとカラフルだった。そういうところに勤めているであろうスーツ姿のビジネス・パーソンから職業・生態不明の人、果てはわかりやすく危険な香りがする人まで、ありとあらゆる種類の人々がその世界には生息していた。19歳の僕は、その目に映る人一人一人を自分の鏡として、時に嫉妬し、絶望し、そしてまたあるときにはひとりよがりの優越感を覚えながら――おそらくは大多数の人々が行うように――自分を相対化する術を覚えていった。

 

もちろん今だから思えることだが、当時の僕を支えていたのは、社会に対する漠然とした反抗心であったのだと思う。工業都市に生まれ育ったという生い立ちのためだろうか、スーツを着て電車に乗るという行動様式自体を僕はどこか憎んでいたようなところがあった。想像力の著しい欠如とひねくれた本の読みすぎのためだろう、件の「スーツ」は当時の僕にとって搾取と隷属とを意味する記号でしかなかった。新聞を配りながら「大人は判ってくれない」とつぶやくことをほぼ毎日の日課にしつつ、大学という実世界から切り離された場所でヘーゲルやらマルクスやらを耽読し、一方の自宅ではレディオヘッドを四六時中聴く――そんな生活は、青年特有の健全な反社会性を僕の主観的世界の中に確実に植えつけていった。その点、午前3時にホンダ・スーパーカブを走らせていたことは、「スーツ」という社会に対する反社会性という点を適度に保ちながら、「生きた世界」を学ぶという二律背反を生きるための、自分なりの現実的な――あるいは戦略的な――妥協点であったともいえるかもしれない。ともあれ、その当時の僕の住む世界は、善悪の対立が明確という点においては水戸黄門や幼児向けの戦隊ものにも決して引けをとらなかったと思う。何しろ、スーツ=非・自己、非・スーツ=自己という、ド・モルガン的論法に身を任せれば世界を整理することができたのだから。

 

だが、熱の冷めない恋が存在しないように――当時の僕はそんなことを知るよしもなかったけれど――、解体を許さない個人的主観世界というのもまた存在しない。それを示すかのように、スーパーカブの日々から数年後、僕は髪を切り、その色を黒に戻し、あの忌み嫌っていたスーツに袖を通すようになった。企業の人事担当者に向かって、「私は新聞配達をしていました。早起きもできますし、長時間労働も平気です」と、あまつさえ過去の自分をアピールポイントにすることも厭わないようになった。そして、彼らから悪くない反応が返ってくるたびに、心の中では、「裏切り者め」とスーツ姿の自分を罵る過去の自分の声が聞こえた。「結局お前がしたかったのは、反体制をファッションにして体制の中に割り込んでくることだったんだな」、と。言い方はそれぞれ異なっていたが、当時の教師たちからも、同じような言葉を聞かされたことを覚えている(何しろ哲学畑の人たちである)。そして、残念なことに、過去の自分、そして教師たちがささやいていたことは事実だった――というか、自分が取っていた行動から考えると、事実として認めるしかなかった。もちろん今という観点から見れば、それは人が大人になっていく上での通過儀礼だと一笑に付してしまうことも可能だろう。でも当時の僕は、その「転向」を本当に恐れていた。ジャン=ジャック・ルソーのように、迫害されるものとして石を投げられることを恐れたのではない。僕が恐れたのは、自分がかつての自分からまったく異なったものになってしまい、自分がかつて追いかけていた透明な幻想を黒く塗りつぶしてしまうことだった。スーツによって、僕の魂と記憶は新しく塗り替えられてしまうのかと。

 

そんなことはない――もし今問われれば、僕は過去の自分に対してそう答えるだろう。「弁証法と同じさ。砂糖と醤油と混ぜてだしつゆを作っても、そのつゆの中には必然的に砂糖と醤油が含まれている――いわば世界の摂理として」、と。「紙の新聞を配るのも、その新聞をデジタル化するサービスを提供する会社で働くのも、同じ仕事だという意味ではそんなに違いはないんだ。僕が言いたいのはただひとつだ。変化を恐れず、正しいことをするんだ」。

 

それから数年、幸か不幸か僕の記憶はまだ塗り替えられていないものの、あの午前3時の地図は僕の脳裏でそのリアリティを失い続けている。程度の差こそあれ、時間の風化を免れない記憶など存在しないのだ。今の僕に当時の刻印が認められるとすれば、それは僕の記憶の中ではなく、体の奥に埋め込まれた奇妙な身体感覚の中においてだろう。そのハビトゥスこそが、過去が真実であったこととともに、その過去に沈殿しかけた重要な教訓を今でも僕に語りかけるのだ。「世界は複数だ。スプレッドシートじゃない、現象そのものを見ろ」、と。たった一行の、ちっぽけなその教訓の中に、僕は今でも働く上での、そして生きるうえでのヒントのようなものを探し続けている。地図は風化してしまったのではない。魂の羅針盤にその姿を変えたのだ。

ふつうの日記ですよ

前回の記事がタイムリーなものだったせいか、アクセス数がずいぶん伸びて驚いている。個人的な独白のためのこのスペースに、一週間で100名を超える新規ユーザが訪れることなど考えもしなかった。名古屋からのアクセスがけっこうあったので、あおい書店の本社の人なんかもここを覗いたのかもしれない。まあ特に気合を入れて書いているものでもないけれど、一応は外部に開かれているものだから、興味を持って記事を読んでくれる誰かがいるということは喜ばしいことである。

 

☆☆☆

 

週末は長女のバレエ発表会でほぼ丸二日が消えた。芸事を観るのはどちらか言えば好きなほうだと思うのだが、彼女の出演する時間は10分しかないのに、待ち時間(シッター業務含む)があまりにも長くてへとへとになってしまった。しかしながら、バレエというのは皆結構露出度の高い服を着ているわりに、セクシュアルというか、センシュアルというか、そういう雰囲気がまったくないのはなぜなのだろう。表象文化論のテーマとしてはなかなか面白いと思うのだが、これまでにこのテーマで書かれた論文はあるのだろうか。

 

☆☆☆

 

恒例の読んだ本。

 

斎藤孝『孤独のチカラ』、新潮社、2010年。

 

内容はイマイチであった。「孤独を肯定的にとらえよう」という著者のねらいはよいと思うのだが、無理やりポジティブ感を作っている感じが否めず、またその肯定ゆえに、「孤独である」ことの重みがあまり伝わってこない。もっともこれはこの人に限った話ではなく、「孤独」について書いた書き手はだいたい失敗しているので、仕方のないことかもしれない。小谷野敦は「ルソーの『夢想』以来、孤独を書けた人は文学史上ほぼいない」というような発言をどこかでしていたが、僕も彼の言わんとしていることはよくわかる(漱石の『行人』は同テーマのものとして出色だと思うが)。

 

☆☆☆

 

"Bold as love"の素晴らしいギター演奏の動画を見つけたので、リンクを貼っておく。

 

www.youtube.com

 

僕は女性を見る目にはあまり自信がないが、文章とギター演奏の目利きであればけっこう自信がある。この演奏は、少なくとも僕がこれまで聴いてきた中では、ジミ本人の演奏に最も近いと思う。ブルージーで、ルースで、そしてたまらなくセクシーである。生で聴いたら鳥肌が立つと思う。宝石のような音の粒に耳を澄ませていると、僕はどうしても、おそらくジミ本人が闘ってきた、どうにもならない痛みや黒人差別のことを考えてしまう。それはずいぶん穿った、自分勝手な聴きかたなのかもしれない。けれども、おそらくはそれゆえに、これらの音は僕たちの魂のもっともやわらかい部分に直接作用する。50年代のビリー・ホリデイが、あるいは戦後の美空ひばりがそうであったように、ジミもまた時代の痛みを引き受けた――引き受けなければいけなかった――音楽家だったのだと思う。おそらくは天才の宿命として。

 

もうひとつ、以下の"Little wing"も負けず劣らず素晴らしいので合わせて貼っておこう。youtubeの一番目のコメント、「どんな人間であればこの動画に"よくない"ってつけられるんだ?」というのは、まったくもって正しいと思う。

 

www.youtube.com

 

 

五反田あおい書店の閉店によせて

五反田のあおい書店が明日22日をもって閉店するという。足繁くとは言わないまでも、月に何度かは行くことのあった書店だけに、いささかショックを受けている。他の街で気持ちよくお酒を飲んだあとに、ゲンロンカフェの横を通り抜け、「キャバクラいかがっすか」というポン引きをかわして、かの本屋で思想書を手に取るのは、ここ数年ほど僕にとってのささやかな喜びであった。人文書のコーナーは決して大きいわけではなかったけれど、限られた中でもそれなりにこだわりの感じられる棚作りがされていて、特に青土社の書籍は積極的に展開されていた印象が強い。人もまばらな23:00過ぎ、酔った頭でシジェクなんかのページをパラパラとめくって、僕はよく「相変わらずだなあ」とひとりごちていたものだ。『永続敗戦論』やら、『断片的なものの社会学』なんかも、僕は確かここで買ったと記憶している。少なくとも僕にとっては、この店の思想の棚は、そこにいれば資本の磁場から少しだけ逃れることのできる、大切なアジールだった。

 

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とはいえ、経営的な側面を考えれば、今回の閉店は時間の問題だったといえる。ここ1、2年ほど、店内にいる人の数そのものが過去に比べて明らかに少なかったからだ。このあたりでは珍しく23:00過ぎまで開いている稀有な書店だったのだけれど、おそらく夜間については固定費さえ回収できていなかったのではないかと想像する。

 

もっとも、当然ながら上記のような話はこの店だけに起こっている話ではなく、出版業界全体の問題である。なにしろここ数年、本の世界からは景気のいい話がさっぱり聞こえてこない。太洋社の破綻、紀伊国屋新宿南口店の閉店、創文社の解散通知、そして岩波ブックセンターの破産――これらはすべてここ1年以内の出来事である。財務情報を見る限り、文教堂あたりもあと1年程度で資金が尽きるだろうし(自己資本率1.6%というのは致命的である)、ジュンク堂紀伊国屋も書店経営の実績は似たり寄ったりというのが現状だろう。僕自身がAmazonのヘビーユーザであり、またどちらかといえば紙の本より電子版を購入することが多いので、書店ビジネスの停滞に多少の責任を感じないでもないのだが、消費者としての合理的な購買行動は責められるべきものではないだろう。

 

いずれにせよ、五反田のあおい書店は明日をもって閉店し、僕は自分の大切なアジールをひとつ失う。その事実に対していかに応答するのが正しいのか――倫理的であるのか――、僕はまだわからずにいる。ただ、僕がかの店を忘れることはないだろう。僕はそれを単一なものとして記憶するだろう――この書店を一般性に還元することなく記憶にとどめるのが、おそらく僕に行いうる最も非-暴力的なふるまいだろうから。

 

明日僕はもう一度この店に足を運ぼうと思う。ありがとうとさようならを言いに。

読書メーターをやめるの巻

前回、悲しみについて書いたらアクセス数がちょっとした伸びを見せた。どうやら「悲しみ」というのは多くの人を引きつけるテーマらしい。僕も、陽気な人よりはちょっと陰のあるタイプの人に魅かれるところがあるので、そういう気持ちはよくわかる。同じような理由で、あまりに社交的なタイプの人はあまり深く知りたいという気になれない。なんだか薄っぺらいように見えてしまうからだと思う。

 

似たような文脈で、この間、「僕は友だちが何人いるかなあ」と夜中に一人で数えてみたら、まあだいたい15人くらいだった。35年も生きてきて15人しか友だちいないのかよ、と若干気が滅入ったが、まあこれが等身大の僕なのだ。仕方ない。まあポジティブに考えると、もし自分が死んだら15人もの人が悲しんでくれるということなので(たぶん)、なかなか悪くないなあと思う。他者のないところに死はない――レヴィナスもたしかそんなことを言っていた。

 

☆☆☆

 

だんだん管理が面倒になってきたので、読書メーターをやめた。読んだ本が一元管理できるのが魅力だったのだが、洋書で登録されていないものが多いため、実際には漏れが出てしまうというのも原因である。代わりとして読んだ本については今後このブログに書くことにする。以下は冬休みに読んだ本である(出版社名と発行年数は割愛し、代わりに一言コメントを入れる)。

 

グロービス『これからのマネージャの教科書』(これはなかなか力作だった)

コンディヤック『論理学』(一番面白かった。翻訳も訳注も素晴らしかった)

David Sedaris, “Me Talk Pretty One Day”(この人の本はハズレなしで笑える)

熊代亨『「若返りうつ」社会』(僕の周りにもこういう人はいっぱいいる)

渡辺・北篠『高校で教わりたかった化学』(サイエンス音痴でも読みやすかった)

セス・シーゲル『水危機を乗り越える―砂漠の国イスラエルの驚異のソリューション』(内容はなかなか面白いが、やや浩瀚に過ぎる感あり)

 

本当は文学ものをひとつ読みたかったのだけれど、シッター業のために時間がとれなかった。

 

☆☆☆

 

12月に面接を受けた会社からようやく連絡が来た。「まだご興味ありますか」とのこと。完全に都合のいい男扱いされている。まあ自慢ではないが、都合のいい男扱いされるのには慣れているので、特に何も驚きはない。ははは。

 

☆☆☆

 

これから英語の勉強。なんかここ10年くらい結局英語の勉強ばっかりしているような気がする。

どうしようもない悲しみを癒すにはどうすればよいか

 

今まで誰にも訊かれたことはないけれど、「あなたがこれまでに人生で経験した最も辛かったことを3つ挙げてください」と言われたら、僕はすぐに答えることができる。①親の離婚、②友人の死、③最後の失恋の3つである。この中でも③のダメージは本当に重く、本当に当時は死ぬことを毎日のように考えていた(当時のブログに「MajiでKubi吊る5秒前」とか書いていた)。それからも7年くらいの時が過ぎた今でも、当時の記憶が夢に出てきて、泣きながら目を覚ますことがあるくらいだから、我ながらこれはやはりちょっとしたものである。実を言うと、当時自分がどうやって生きていたかについては、正直ほとんど記憶がない。たぶん日常生活に支障がないように、脳が記憶を制御して、意識の表面に浮かび上がってこないようにしているのだと思う。

 

で、本題に移る。悲しみを抱えながら生きるにはどうすればよいかという話である。よくグリーフケアなんかの文脈でも議論されるいささか硬い論点ではあるのだが、ここでは理論的な話はすっとばして(そういう場ではない)、僕がなんとか生きるために役に立ったものを記す。かつての僕と同じように、どうしようもない哀しみや痛みにさいなまれている人には、少しは参考になるかもしれない。

 

役に立ったもの

 

1. 書く

  • ノートにひたすら書く。Fワードだろうが、あのやろう死ねだろうが、心のありったけすべて書き出す。不思議なのだが、それを繰り返していくと、頭の中にあった不快感の塊みたいなものが概念として整理されて、凝固した痰がのどの奥のほうから吐き出されるような感覚を得られることがある。
    • 理由はわからないのだが、キーボードでタイプするよりは、フィジカルにノートに書くという行為のほうが治癒効果は高い気がする。また、ブログなど公開を前提した場所に書くよりも、あくまで閉じられた場所で、自分のために書いたほうがよい。
  • そして、だいたい吐き出したら、自分が欲しかった言葉をこれまたノートに書いて、自分に与えていく。「がんばったね」とか、「もう大丈夫」だよ、とか。要するに自己完結的な言葉によるオナニーなのだが、これは治癒効果が高いと思う。自分が最も必要としている言葉を知っているのは、たいてい自分だからである。
    • 少し話がズレるが、ジャン=ジャック・ルソーは、妄想に苛まれていた晩年に『対話』という非常にメンヘラ色の強い作品を残している(かつて僕はこの作品を中心にして論文を書いた)。僕が学生だったときには気づかなかったのだが、彼は何よりも自分に対するセラピーとしてそれを書いたのではないかという気がする。
    • また話がズレるが、NAVERまとめにある「失恋したときのビタミン言葉」にも助けられた。「恋を失ったわけじゃない、卒業したんだよ。卒業おめでとう」という一文を見て、深夜に泣いた記憶がある。

2. 話す

  • 要するに友人にひたすら聞いてもらう。僕の場合は、昔の友人を総動員して話を聞いてもらった。そのために岩手県遠野市に住む友人に会いに行ったことは今でも鮮明に覚えている。
    • ただデメリットとしては、そうした友人たちに大量の負のパワーを浴びせることになるというものがある。なので、あまりやりすぎると大切な友人を失うとまではいかなくとも、距離を置かれてしまう可能性がある。
    • 当時深夜まで話を聞いてもらった友人たちには、本当に感謝のしようもない。

3. 抜く

  •  これは男性が失恋したとき特有なのかもしれないが、失恋の辛さ・痛みは性的欲求ととても密接に結びついている。少なくともその痛みの一部は、失恋したことそのものではなく、今抱えているセクシュアルな欲求の対象の不在によって引き起こされるものであるからである。行き先を失ったリビドーは著しい精神的な痛みとして表出する。この痛みを軽減するために、辛くなったら、なるべくさっさと抜く。オカズはなんでもいいと思う。
    • 僕はそういう趣味がないので利用しなかったが、風俗やらソープやらに行くのもアリだと思う。空しくなりそうだけれど。

4. 運動

  • これは当たり前か。僕の場合はランニングと水泳をよくしていた。

 

あまり役に立たなかったもの

 

1. 心療内科

  • 「死にそうなので看て下さい」と行ったら、なぜか説教された。それでパキシルデパスを渡されて終わり。こんなの治療でもなんでもない。もちろん薬は飲まなかった。既得権益ファック、と思った。

2. 読書

3. あまり自分のことを知らない人に話す

  • インターネットで知り合ったお姉さま方にいろいろ話を聞いてもらったのだけれど、結局僕のことをよく知らない人たちなので、どうしても話が一般的なことに終始してしまい、傷を癒されるような感覚はなかった。
    • 神戸の主婦の人に夜話を聞いてもらっていたら、「ねえ、これからテレフォンセックスしない…?」という妙な流れになったことがあった。僕は冬の寒空の中、公園からジャージ姿で電話していたので、もちろん丁重にお断りした。

 

するべきではないこと

 

1 . インターネット(とりわけSNS

  • 相手の名前を検索したり、相手のSNSの個人ページを見ることは当然ながらご法度である。見てしまったが最後、妄想と嫉妬で脂汗が出そうになるからである。
    • これも男性特有かもしれないのだが、僕の場合はその彼女が他の男とセックスしているイメージが繰り返し繰り返し脳内で再生されて、それが本当に辛かった。こういう場合は、前述したとおり、さっさと抜くのが一番良いと思う。
  • これも深夜にやってしまいがちなのだが、自分が求めている言葉を捜して、深夜にインターネット徘徊するのもあまりよくない。たまに珠玉のような言葉に会えることもあるのだが、時間対効果で見ると、あまり効率がよいとは言えない。それなら、自分の深いところにある気持ちとノートを通して自己対話するほうが健全だし、効率がいい。

2. 共通の友人に会う

  • 100%話題に出てくるので、なるべく会わないほうがよい。彼女と会ったよ、みたいな話だと、だいたい嫉妬に苦しむことになる。

 

 

最後にひとつ付け加えておきたいのだが、上記は悲しみを忘れることを意図したものではない。というのも、悲しみというのは、それが純粋なものであればあるほど、おそらく忘れられることのない種類のものだからである。したがって、そうした悲しみを抱えてなんとか生きていくために、具体的にどうすればいいかという問題意識で書かれたのが上記である。

 

ただ振り返ってみると、悲しみを生きるという経験は僕にとって――おそらく誰にとっても――これ以上ない人生勉強の場であったような気がする。たぶん、それを通して僕はいくらか大人になったのだとは思う――人生の有限性や、人の痛みがわかるくらいには。「人生に無駄なことはない」なんて僕にはとても言えないけれど、経験したことからいくらかの学びは得るべきだと思うし、きっとそれが生きることのひとつの意味なのではないかという気がする。

 

僕の知らない、今絶望に打ちひしがれている誰かの参考になれば。