Obituary from Canada

幽霊アカウントを残しているFacebookに久しぶりにログインする。特別な意味があったわけではない。トップページを見ると、先日韓国で結婚式を挙げた友人の子ども時代の写真が飛び込んでくる。2か月も経つのにまだお祝いモードなのかと一瞬思ったのだが、目に入ってくる単語はそれには似つかわしくないものだった――”RIP”。僕は言葉を失う。意味が飲み込めず、呼吸が浅くなる。日常の瓦解。

 

いくつかのポストを読むと、彼は愛犬を救うために急流に飛び込み、流れに巻き込まれて帰らぬ人になってしまったとのことだった。この記事を書いている今でもそれが本当にあったことなのかまだ信じられないのだが、スクリーンに映る文字と彼のWhatsAppの最終接続時刻は、彼がもう彼岸のほうに旅立ってしまったことを無情にも告げている。でもそこに涙はない。正確には「まだ」、ない。感情が追いついていないのだ。

 

マドリードでの深夜のグループワーク中、彼からかけられた言葉を思い出す。”You’re the most committed man I’ve ever seen”… いや、君ほどじゃない、いま彼と話ができるのであれば、そんな言葉をかけただろう。月並みな言葉だけれど、いいやつだったのだ、本当に。僕がここから学ぶべきこと――おそらくそれは、一日一日を、自分を彩ってくれる一人一人に感謝しつつ、精一杯生きなければいけないということだろう。もちろん、彼が生きたその生を、自分の単純な教訓に還元してしまうことの暴力性は自覚しつつも。

 

この痛ましい事故は当地のcommunity paperでも大きく取り上げられている。その中のひとつは、彼のパートナーのインタビューを引用して、記事をこう結んでいる。“Every day he planted seeds of love in everyone’s heart.” おそらくは僕もその種を受け取った一人なのだろう。生きねば、と思う。