エレベーター・ピッチ

「面接はエレベーター・ピッチだ。それぞれの質問に対して回答しつつ、君は自然に自分を売り込まなければいけない」。

 

そんな感じで、学校との本番の面接に備えてインタビュー講師のトレーニングを二日に一度受けている。ダメ出しに次ぐダメ出しで若干げんなりしているところである。「コンテンツがまとまってない」「さっきったことと矛盾している」「喋るの早すぎ」「よくわからないAh…はやめろ」などなど、なかなか手厳しい。会社でもチクチクといろいろ言われた後に、夜間にこんなスパルタ教育を受けている自分が滑稽にも思えてくるのだが、僕くらいの歳になると、周りに注意してくれる人も少なくなってくるので、貴重なアドバイスとして真摯に受け止めようと思っている。

 

しかし、30秒で一定のコンテンツを適切に話すというのは実は相当に難しい。自分のことをよく知らない人に対して、与えられた質問に対して適切に回答し、重要なメッセージを届けるというのは実は相当高度な能力が要求されるのではないかと思う。同質性の高いコミュニティで長く生活をしていると、なかなかこの難しさは認識しにくく、実際僕も30代に入るまで、こういった課題は認識できていなかった。より大きな文脈で捉えれば、このトレーニングは自分をさらに外部に向けて開いていくためのトレーニングであるといえるかもしれない。とにかく練習あるのみ。

 

☆☆☆

 

久しぶりに箱根に行く。桜を愛でて温泉に入るのが目的だったのだが、まだ山の上のほうは肌寒く、ほとんど桜の花は咲いていなかった。久しぶりに行った彫刻の森美術館では、子どもたちふたりが広大な敷地内を元気いっぱいに走りまわっていた(必然的に僕も走り回ることになる)。驚いたのは、小田原駅でも箱根登山鉄道の中でも、日本人より外国からの旅行者のほうが目立ったということである。まあ円も比較的安いので、日本を訪れやすい時期ではあると思うのだが、なぜ数年前に比べてこれほど外国人が多いのかはよくわからなかった。Lonely Planetあたりに、「4月上旬の日本では桜が見もの。特に箱根は美しい」とか書いてあるのだろうか。真相は謎である。

 

☆☆☆

 

このブログを書き始めて一年半くらいになる。最初はほとんど閲覧がなかったけれども、ここ最近は一ヶ月で700~800 viewくらいの数字は出るようになった。リアルな知人には2、3人しか教えておらず、また特に人の役に立つようなものを書いているわけではないことを考えると、まずまずの数字だと思う。しかしながら、Googleが検索キーワード履歴の提供をやめてしまったこともあって、どんなキーワードで人がこのブログにたどり着くのか、僕にはさっぱりわからない。本当に素朴に、誰にどんな需要があるのだろうと思う。

 

 

7年分のためいき

時間が空いたので少し書こう。土曜の夜、一週間で二番目にリラックスしている時間だ。本当は一番である昨日、金曜の夜に書きたかったのだけれど、ずいぶん疲れていて、PCを開く気になれなかった。雨が降っていたこともあって、体が脳に休めと命令していたのかもしれない。ドゥビュッシーのアラベスクのような、優しく心地のよい雨だった。

 

☆☆☆

 

出願して2日後、ビジネススクールからインタビュー通知が届く。まずは第一関門突破を喜びたいところだが、あまりにも早くてびっくりしてしまった。準備がまったくできていないので、カウンセラーに相談したところ、「仕事が忙しいからと言ってインタビューの日付を遅らせろ」との由。というわけで、向こう一週間くらいはこの準備と練習にフォーカスすることになりそうである。人生というのは本当に不思議なもので、ずっと物事が進まないときもあれば、ある時にはいろいろな物事が高速で同時に動いていく。

 

☆☆☆

 

友人からメールが届く。「…さんとこの間会ったよ。元気そうだったよ」。

 

一読して僕は深いためいきをつく。たぶん2017年についた中でもっとも深いためいきを。人を深く愛し、その代償として死を考えたほどに傷ついた経験というのは、何年経とうがそういうものとして脳裏に記憶されるらしい。

 

頭の中にブラームスの間奏曲が流れる。作曲家はこれらの小品たちを「自らの苦悩への子守歌」と呼んだ。おそらくは僕にも眠らせるべき苦悩が存在しているということなのだろう。

 

毎年この時期になって桜を見ると、どうしても彼女の誕生日のことを思い出してしまう。そういうわけで、花粉は落ち着いてきたが、やはり春は苦手だ。おそらく少し抱え込んでいる記憶が多すぎるのだろう。

 

☆☆☆

 

というわけで、基本に戻ろう。3月分の家計簿をつけて、4月のタスクを整理し、英語の勉強をしてあとは何も考えずに眠ればいい。大人の男も楽じゃないよなあと思う。本当に。

なぜ男性は海外旅行好きの女性を敬遠するのか

ようやく仕事が少し落ち着いて、ビジネススクールへの出願も完了したので、少し書く。出したばかりなのでなんとも言えないところではあるが、出願はけっこうあっさりしたものだった。4年位前、最初にエッセイを書こうと思ったときは、まるでルソーが『告白』を書いたときのように、「私の真実をエクリチュールに…」みたいな調子をイメージしていたのだが、某敏腕カウンセラーと一緒に作っていく過程は、どちらかというと戦略的に学校側に刺さるエピソードを、刺さる方法で書くといったもので、当初思っていたことからするとずいぶんとギャップがあった。まあとにかく面接に呼んでくれることを祈るのみである。

 

☆☆☆

 

「海外旅行好きの女性は婚期が遅れる」という言説は、インターネットを少し覗いただけでもそういう内容の記事がよく見つかるので、そう考えている、つまり「海外旅行を頻繁にする女性を好ましくないと考えている男性」は少なくとも一定数存在するといえる。僕も、例えば自分が今24歳で独身だったとして、四半期に一回海外に行くような人を恋人、あるいは妻にしたいと思うかといったら、たぶん答えはNoなのだと思う。しかしながら、それに対する理由はなんなのだろうと思うと、正直自分でもよくわからないのである。Webの記事を見ると、「金がかかりそう」だとか、「一人でも生きていけそう」だとか、あまり分析的ではない理由ばかりが記載されており、納得感も面白みもない。

 

これに対して、この微妙な嫌悪感について僕が考えた(帰宅中の20分くらい)理由は以下のようなものである。

 

  • 外の世界(=海外)に触れることで物事を知ってしまった女性を、男性は一般的に自分の色に染めにくい女性であるとと考えるため(賢しさの敬遠)。
  • イメージの問題。男性が一般に女性に対して求めるものは、「素直さ」「優しさ」「癒し」「けなげさ」などであるが、海外旅行から連想されるイメージはそうした「男性が女性に求めるもの」と結びつきにくい(むしろ相反している)。

 

たぶん賛同してくれる男性は比較的多いのではないかと思う。①なんかを別の角度から考えると、「男って本当にみみっちい生き物だなあ」と思ってしまうのだが、おそらく日本人の男性の多くは、今でも女性に対して何らかの形での純潔性のようなものを期待しているのではないか(素直さと言い変えてもいいかもしれない)。白無垢なんてものがこの時代にもまだ存在していることがその証左ではないかという気がする。

 

自分でなかなか面白いと思ったのは、経験が純潔を奪うものであるという点において、それ自身が汚れであるという構造になっているということである。これは性的なものだけではなく、あらゆる経験を包括する概念としての経験のことだ。知識にも同じことが言えるだろう(つまり、汚れ≒経験≒知識という構造。ここでの「知識」概念は追加説明が必要だと思うが、長くなりそうなので割愛)。なんだかフェミニストの方々の怒りに勢いよく油を注いでしまいそうな話になってきたけれど、多くの日本人男性の価値観を掘り下げていくと、おそらくそう言えるのではないかと思う。「高学歴女性はモテない」なんていう言説も、そう考えると説明がつく。

 

ここから導かれる結論としては、結局、家父長制時代の価値観は、日本の男性の一定数にまだ根強く残っているということである。そして、そうした男性が「貞淑な妻」を求め、いわゆる「Very妻」に憧れる女性が存在し続ける限り、そこには相互需要があり、旧来の価値観は変わらないであろうということだ。最近では共働き世帯も増えているので、少しずつそういった傾向に変化も見られてはいるのだろうが、そうした家族形態を理想とする男性も、女性に対して一定の純潔性を期待するのはおそらく同じだろう。かくして「海外旅行の多さ」は、汚れ≒経験、もっと言えば「将来の家庭に対する潜在的なコミットメントの低さ」と解釈され、結婚が縁遠くなってしまうのではないかと思う。

 

ちなみに「高学歴女性はモテない」なんて書いたが、僕の周りにいる「えれー高学歴の女の子たち」は、みんなだいたい20代後半くらいであっさり結婚してしまった。僕なんかは、そのあたりの折り合いのつけかたに、「おお、賢い(賢しい、ではなく)」と思ってしまうのだが、いかがだろうか。

 

蛇足ながら、この話はアーレントの「活動」なんかと絡めて分析すると、面白い議論ができるのではないかという気がする(彼女はフェミニズムの文脈では否定的に見られがちではあるが)。

 

☆☆☆

 

次女がひとつ上の学年に上がり、担任の先生が保育園で一番可愛い先生になった(心の中で小さくガッツポーズ)。「子どもはちょっと預けて、今から水族館でイルカショーでも見ませんか」とか誘いたくなるような、魅力的な女の人である。とはいっても、20代前半くらいだろうから、だいたい僕より一回りくらいは年下なのだろう。まあそれはどうでもいいのだけれど、年下の女性を「先生」と呼ぶのはなんとなくエロスが感じられてとてもよい。これはおそらく、ずっと憧れていたが結局実現しなかった、「キレイな家庭教師のお姉さん」への願望が変形したものではないかという気がする。たぶんエロビデオの見すぎのせいである。

『ベートーヴェンの生涯』を読むの巻

あっという間に3連休のうちの2日間は過ぎていった。相変わらずシッター業だか、親業だかに忙殺されている。とはいっても、3日休みが続くというのはそれなりの安心感がある。1~3月の四半期が終わったところで一休み、といった感じだ。今年は祝日が土曜日になっていることが多く、いきおい3連休が少なくなっているので、有意義に時間を使わなければいけないなあと思う。なんだか小学生の夏休みの目標みたいな話だけれど。

 

☆☆☆

 

読んだ本。ロマン・ロランベートーヴェンの生涯』、片山敏彦訳、青空文庫

 

短い本(というかwebのフリーテキスト)で、30分もあれば読めるのだが、著者のベートーヴェンに対する愛着がこれでもかというほどに刻まれており、内容は濃い。著者はこれを書くにあたって、楽聖の音楽の素晴らしさに惹かれたというのはもちろんあるのだろうが、それ以上に彼の決して幸福とは言えない身の上に自分を重ねていたという部分が強いのではないかという気がする。本文中でも断っているとおり、本書は伝記的な事実を網羅するものではなく、断片的なエピソードからベートーヴェンの像を描き出していくというスタイルなのだが、その点、音楽家を通して自己を書き出そうという狙いが強いように感じられる。文学史的な観点では、『ジャン・クリストフ』の主人公はベートーヴェンをモデルにしているとよく論じられるけれども、この稀代の音楽家の像は、著者にとって自己を語る上での最良のモチーフだったのではないか。

 

ちなみにこの『ベートーヴェンの生涯』は名訳だと思う。たぶん原文も名文なのだろう。時間が許せば今度は仏語で読んでみたい。

 

☆☆☆

 

クラシックを好きになってよかったことのひとつは、まだ聴いていない曲、CDが死ぬほどあるということが絶望にも似た実感として感じられることである。もちろんジャズだってロックだってそういう曲は死ぬほどあるのだが、クラシックはまあバロックを端緒とした場合であっても、300年の蓄積があるわけだから、ちょっとケタが違う。一生かかっても全体像を把握するのは100%無理である。だいたい古典派だけに話を限ってみても、僕はハイドンをほとんど聴いたことがないし、その上、この大作曲家は交響曲を104も書いているのだから、もう正直めまいのするレベルである。まあ、登る山が多いというのは飽きがこなくていいんじゃないかと思う。

 

☆☆☆

 

これからアプリケーションの最終の詰めに入る。エッセイもようやく完成して、推薦状も2通揃ったのだが、レジュメの細かいところを直したり、self-assessmentのところを埋めたりという地味な作業が最後に残っているのである。おそらく一週間後にはアプライできるだろう。ここまで長かった…。なにしろ最初にビジネススクールに行こうと思ってからすでに8年くらい経過しているのだから。日々の雑事に忙殺されながらも、8年も同じところを見続けてきたというのは、我ながらちょっとしたものだなあと思う。

 

日本人とリーダーシップ

ずいぶんと暖かい日が多くなり、春特有の濃密な香り――あれはなんの花から香るものなのだろう?――が、朝の通勤中の鼻をくすぐるようになった。暖かいのはうれしいのだけれど、僕にとっては地獄の一ヶ月の始まりでもある。去年の秋、雑務に忙殺されて舌下治療を始められなかったことが今さらながら悔やまれる。

 

☆☆☆

 

一応、リーダーシップのエッセイも完成し、残りひとつを仕上げれば出願できるところまで来た。結果的にこのエッセイは一ヶ月足らずで仕上がったものの、その間何度も何度もエッセイカウンセラーにダメ出しをされていたので、ほっとしているところである。家族が寝静まった深夜に、ウンウンと唸りながら自分の人生と向き合い、なんとか捻り出された文章が、翌朝昼くらいに「インパクトがない」「リーダーシップが感じられない」と添削されて返ってくるのは、なかなか辛いものがあった。最後に残されたエッセイのテーマは、「向こう10年のテクノロジの進歩によって、人々のつきあい方はどのように変化するか」というものなのだが、さて何を書いたものか。

 

ところで、このリーダーシップというものについて悶々と考えてみてつくづく思ったのだが、この日本という国ではリーダーシップというものが極めて涵養されにくいのではないかということである。そうだとすれば理由はなんなのだろう?僕が考えた理由は以下のようのものだ。

 

  • いわゆる戦後民主主義の価値観の下、太平洋戦争時の反省から、強力な指導者・指導力が否定的に見られるようになったこと。
  • ①のためか、とりわけ組織においては異論を排除する空気が蔓延していること(要するに「出る杭は打たれる」)。このため、会議なんかをしても、ほとんどの場合は予定調和的な結論を確認するだけに終わる。
  • 価値観の多様化により、社会が中心を必要としなくなったこと。より大きな文脈では政治の形骸化。文化論的には、メインカルチャーサブカルチャーという二項対立の解消も同じ文脈で論ずることが可能だろう。

 

もちろん、上記のようなことを説明したからといって、まさにリーダーシップを学ぶための場所であるビジネススクールが入学を許可してくれるわけではないので、多くの日本人受験生は、なけなしの経験にたっぷりの化粧をして(要するに「盛る」)、自分を売り込む必要があるというわけである。

 

☆☆☆

 

僕の年間評価のセッションがあった。評点は昨年と変わらなかったが、今年はわりと厳しい言葉が多かった。「コミュニケーションが弱い」との由。「もっと強固なロジックや、適切な説明・反論が見たかった」とのこと。

  

月並みだが、もう職階的にイエスマンでは評価されないのだなと思った。3年前とはロールが完全に変わっているのである。そりゃ管理者がイエスマンじゃダメだ、不平等条約を結ばされてはい終了、である。おそらくもう少し広い文脈で考えると、ここで求められているのもまたリーダーシップなのだろうなあと思う。

 

というわけで、ここ1年くらいは、どっぷりリーダーシップについて考え、そしてそれを実践しなければならない時期になりそうである。まあ35歳男性の発達課題としては、真っ当すぎるくらいに真っ当だと思う。

 

☆☆☆

 

読んだ本。

 

本多静六本多静六自伝 体験八十五年』、実業之日本社、2016年。

 

実はこの人のことは最近まで知らなかったのだが、公園設計の専門家として、また投資家として著名な人ということなので、どんな人なのかと思い自伝を手にとった。アカデミック・ビジネスの両方で成功したという点に惹かれているのだろう。内容は、武勇伝の連続で若干食傷気味になるが、努力家で実直な人柄が文章の端々に感じられた。後藤新平との交流のエピソードも面白い。それにしても、明治人の気が狂ったような努力っぷりとスケール感の大きさには正直平伏してしまう。

 

最後に本書から、僕が気に入った一説を引用しよう。

 

「毎日学校で学んだ筆記を、帰ってからひと通り修正した上、さらに通読して、どこが一番重要な個所であるかを見極め、[…]別紙に細字で書き抜く。[…]これをポケットに入れて散歩に出掛け、歩きながら全体の趣旨を口内または口頭でいってみるのである。ただ一つ困ったことは、夢中で考えながら野道を歩くのでときどき牛や馬に衝突することであった」。(前掲書、55頁)

 

きわめて示唆的であり、それでいてユーモラスである。

 

一発屋の悲哀

ずいぶん疲れがたまっていたので、22時前に床に就いたところ、5時前に目が覚めた。日曜日の早起きというのは、神様から時間のリベートをもらったような気がして、なんだか得したような気分になる。というわけで、夜も明けきらぬ中で、はちみつをたっぷりといれたミルクティーをちびちびと飲みながら、この記事を書いている。

 

☆☆

 

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上に貼ったのは、本日現在のブログのアクセスカウンターなのだが、記事のランキングを見ると、1ヶ月くらい前と現在では様相ががらりと変わってしまったことがわかる。実にここを訪れる人の86%が本屋閉店の記事を見にきているのである。大事マンブラザーズとかClassとかの、わりと一発屋扱いされがちなミュージシャンの「コンサートで演奏してほしい曲ランキング」なんかを作ると、おそらくこういう感じになるのではないか。まあ別にこのブログは金銭や名声を目的として書かれているわけではないので、このランキングが僕に直接与える影響はほぼないのだが、局地的に売れたり、有名になってしまったりというのは独特の悲哀さを感じさせるものがある。やや文脈がズレるが、甲子園に出たときがその人の人生のピークだった、というような人にも通ずるものがある。

 

☆☆☆

 

2週間前に受けた英語のテストの結果が返ってきた。Overall 7.5点で、なんとか目標は一発クリア。Writingはやはり出来がよくなかったようで(知ってた)、6.5点だった。一応これでアプリケーションに必要なテストスコアは揃ったので、あとはエッセイが仕上がれば出願することができる。リーダーシップに関するエッセイがうまくまとまらずに苦心しているところではあるが、おそらく1ヶ月以内には出すことができるだろうと思う。

 

☆☆☆

 

www.youtube.com

 

時々思い出したようにZeppelinが聴きたくなってyoutubeをさまようことがあるのだが、この動画を最近初めて発見して、すでに10回以上は閲覧している。2012年の映像なのだが、おそらく僕は多忙な時期だったのだろう、Zeppelinがこんな賞を受賞していたなんてまったく知らなかった。こんなことを言うと怒られるかもしれないが、この動画、生演奏の質という観点から言えば、おそらくZeppelin本人たちよりも高いのではないか。ギターソロなんか、生演奏のペイジよりもずっとオリジナルの音に近いと思う。ジェイソンによるドラムも、おそらくは父譲りの独特のタイム間があって、このあたりは泣かせる部分である(泣けるドラムを叩ける人は世界でもあまりいない)。それを観ているZeppelinのオリジナルメンバーの顔がまた素敵である。ペイジは成功者の顔をしており、とても穏やかだ。ロバート・プラントの目は涙ぐんでいる。当然、いろいろ胸に去来するものがあったのだろう。僕自身、こんな演奏を生で観たら間違いなく泣いてしまうだろうし、1ヶ月くらいはそのことばかり思い出しているのではないかという気がする。

 

ちなみに観客の中にはオバマ大統領の姿も見え、こちらもとても素敵な顔をしているのだが、ちょっと現職の人ではこういう姿は想像できない。

 

 

If I had time

繁忙期ということもあり、あまり時間がない。この会社では、例年2月はバタバタするのだが、昨年M&Aがあったこともあり、混乱に拍車がかかっているような印象を受ける。まああと2、3週間もすればずいぶん落ち着くと思うので、もう少しの辛抱である。

 

☆☆☆

 

結局、某フランス系保険会社の詐欺まがいの金融商品は解約し、僕の50万円は彼らの手中に落ちてしまった。まあ傷が浅いうちに済んでよかったと思うべきなのだろう。これにともなって、投資プランにちょっと手を入れて、毎月の剰余金のうち8割はオーソドックスに投資信託(iFree8資産バランス)で積み立てを行い、残りの2割でバリュー投資を行うことにする。前者の投資新作は昨年9月から売り出されたものだが、ノーロードで年間信託報酬が約0.25%とすばらしいコストパフォーマンスである。投資のことはよくわからない、だけどお金は殖やしたいという人は、これかeMAXIS8資産均等型に積み立てておけばまず間違いないのではないかという気がする。

 

☆☆☆

 

たぶん忙殺されているためなのだろうが、長期の旅行に行きたいとか、絵画を鑑賞したいとか、あるいはなにかのワークショップに行きたいなどという欲求がさっぱり沸いてこない。旅行なら温泉でぼーっとしたいし、休みがあるなら一人でゆっくり家の掃除でもしていたいというのが正直なところである。疲れているのだろう。睡眠時間もそんなに多くとれているわけではないので、実のところ僕はけっこう「健康で文化的な最低限度の生活」の閾値に近いところで人生を送っているのではないかという気がする。文化的な場所を離れて10年近くも経ってしまうと、そういった種類のものに対して、改めてどうアプローチをしたものかと、自分の位置取りに困ってしまうような感覚さえある。

 

大学院のときに一緒によく呑みに行っていた旧友の、初の単著を手にとってそんなことを思った。机を並べて勉強していた彼がその場所で格闘を続け、その世界ではかなりの有名人となった一方で、僕はずいぶん俗な仕事を生業としている――もちろんどちらがいいという話ではないのだが。それでも、人生というのはつくづく不思議なものだなと思う。本当に。

 

☆☆☆

 

小学校の娘のクラスが、インフルエンザの流行で学級閉鎖になった。期間は3日間との由。学級閉鎖というものがこんなに簡単に起こってしまうということが、田舎町出身の僕には信じられなかった。